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ryusukekawai について

ノンフィクション・ライター、ジャーナリスト 主な著書に「社会を生きる教科書」(岩波ジュニア新書)、「『十九の春』を探して」(講談社)、「122対0の青春」(講談社文庫)、編著書に「東日本大震災 消防隊員死闘の記」(旬報社) 好きなミュージシャン:Van Morrison,Nina Simone

またひとつ美しい海が潰れる 辺野古

辺野古の海岸を埋め立てる工事がはじまった。海に囲まれ美しい渚や海岸線をほこる日本の自然海岸が5割を割ったのは、たしか1980年代だった。

軍備のため、経済のため日本の海岸は埋め立てられてきた。埋め立てのための公有水面埋立法はあるが、ほとんど手続法のようなもので、埋め立てをとめることはできない。

最たるものが原発で、公益、国益の名の下に(実は、それに名を借りていた)ために自然海岸がつぶされてきた。その海岸がもう使い物にならなくなってしまったことを原発事故は教えてくれた。

辺野古埋め立ての報道のなかで、国と沖縄県の対立は深まるばかりです、という言い方がよくされる。まるで他人事のようだ。沖縄には美しい自然をもとめ多くの観光客が訪れる。これはわれわれ日本の、日本人の財産でもある。われわれが美しい国土や自然をどう守るか、なにを引き換えにして、これを失ってもいいのなのかと自分自身に問う問題ではないのか。

北朝鮮の脅威から国土を守る必要がある。そのために米軍の力が必要で、だからアメリカの希望をかなえる必要があり、だから辺野古が必要だというのか。逆に考えてみよう。辺野古でなければいけないのか、沖縄でなければいけないのか。アメリカの希望をかなえなければいけないのか。北朝鮮からの脅威から国土を守るという出発点からさきは、もっと多様な選択肢があるだろう。議論が必要だろう。

かつて入浜権運動というものがあった。兵庫の高砂から生まれたこの運動は、自然海岸が沿岸の工業化などで失われていき、古来より身近な浜や海に親しんできた人びとの権利が損なわれていくことへの怒りであり、その権利を取り戻す運動だった。

辺野古の問題は地元だけの問題ではなく、沖縄だけの問題でもない。埋め立て護岸工事をしたら二度もとへは戻らない。辺野古の海と浜はいまきっと悲鳴をあげている。自然信仰などとくにないが、きっといつか、どこかで自然から手痛い仕返しを受けるような気がしてならない。

ノーノー・ボーイ(No-No Boy) と大統領令

トランプ氏がアメリカの大統領になってから、「大統領令」という言葉を頻繁に聞くようになった。もっとも話題になっているのが、特定の国からの入国を禁止する大統領令だ。
このことで思い出されるのが、75年前の2月19日に、当時のルーズベルト大統領によって発令された大統領令9066号である。

日米開戦から二ヵ月余、在米の日系人のなかに日本軍に協力するものがいるのではないかという議論が沸き起こる。とくに西海岸地域は一種のヒステリー状態となり、軍もまた日系人に対する何らかの措置をする必要があると結論づけた。
こうした議論のなか、大統領はこの大統領令によって、軍に権限を与え日系人に対する措置を任せた。こうしてアメリカの西海岸地域の約12万人の日系人が収容所へ強制的に入れられることになった。
日本人、日系人のなかに、スパイがいるかもしれない。だが、それを選別するのは非常に難しい。だからいっそのこと「日系人」という人種の枠で括って、収容するしかない。戦時という危機のなかだから仕方ない。そういう考えが軍の根底にあった。
この戦争という危機の発生から、大統領令による防御のための政策の実行までのプロセスを振り返ると、まさに、今回の大統領令が発令されるプロセスと似ている。

テロの発生、そしてテロリストの排除政策。そこではイスラム教徒個人をいい人かどうか見分けられないので、イスラム教徒全体に対する措置を講ずる。宗教によって人間を括ったわけである。戦時中に言われた「ジャップは所詮ジャップ」という考えが「イスラムは所詮イスラム」という乱暴な形で表れているようだ。

戦時中の日系人の話に戻れば、多くのアメリカ市民が権利を奪われ、そのうえで国家に対する忠誠を問われ、さらに権利をはく奪された上で徴兵もされた。多くが割り切れないものを感じながらも戦地へ赴き、アメリカ人であることを示すために勇敢に戦った。そして、多くの犠牲を出した。
その一方で、自分をアメリカ市民として扱わない国家に対する怒りや、一世である家族のことを思うなどして、あえて国家に反旗を翻した二世もいる。戦わなかったものもまた苦しんだである。そして、戦争が終わり、戦ったもの、戦わなかったものは傷ついた。

日系人という宿命ゆえの苦悩。それを描いたのが、ジョン・オカダが著した小説「ノーノー・ボーイ」である。自分は何者であり、どうやって生きていくか。その苦悩は、異質なもの、疎外されたものなら、日系人やイスラム教徒だけでなく、だれでもが抱えた苦悩でもある。

トランプ、安倍、フロリダ、大和コロニー

アメリカのトランプ大統領が安倍首相をフロリダ州パームビーチの別荘に招待して、一緒にゴルフをするという。
会員制クラブを兼ねているというこの別荘は、1927年に富豪で社交界の名士である女性、マージョリー・メリウェザー・ポスト氏によって建てられ、Mar-A-Largo(マール・ア・ラーゴ)と呼ばれた。
彼女の死後、“冬のホワイト・ハウス”として国に寄贈され、国定の歴史建造物にもなった。しかし維持費が莫大で、その後彼女の娘に返還された。それを1980年代にトランプ氏が買収した。

パーム・ビーチは、高級リゾートで、メインストリートのワースアベニューには、高級品店が軒を連ねる。富豪たちが別荘をもち、なかには日本家屋かと思える建物もある。1957年に日本を訪れたのち日本文化を気に入った施主が建て、庭園は小林という日本人に作らせた大きな二階家だ。残念ながら小林はその直後にその後マイアミで殺されたという。
このパームビーチを拠点に、19世紀末からフロリダ開発に挑んだのが富豪ヘンリー・フラグラーだった。フロリダには、もともとはネイティブ・アメリカンしかいなかったが、16世紀初頭にスペイン人が領有、その後イギリス、スペインと領有権は移り、最後はアメリカが併合すると、インディアンを武力で排除した。

スペイン人が入植して作った大西洋岸の古い町、セント・オーガスチンを晩年訪れたフラグラーは、地中海的なリゾートを作ろうと開発に乗り出した。まず、パームビーチにホテルを建て、所有するFlorida East Coast Railway という鉄道を大西洋岸に沿って南へと延長していった。

砂州の上に建てたコロニアル・スタイルのリゾートホテルのなかには、当時世界最大、1081室もある巨大なホテルも誕生した。ホテルの先には桟橋をつくり、そこから客たちは船でカリブ海のナッソーやキューバへと遊覧した。
また鉄路は南のマイアミをとおり、さらに海上をサンゴの小さな島々づたいに走り、1912年、とうとうキーウェストまで到達した。「ハバナ・スペシャル」と名付けられた列車は、はるか北のポストンを出発すると、三日目にキーウェストに到着し、そこから船でキューバのハバナまで旅客を運んだ。
しかし、この鉄路も1935年のハリケーンで、海上の橋脚は破壊され鉄路は跡形もなく消えた。以後鉄道は再建されることはなく、自動車道がそれにかわった。

フラグラーは幸いにも、このハリケーンを知らず、1913年にはこの世を去った。彼がパームビーチに建てた自宅はホワイトホールを呼ばれたが、その後フラグラー・ミュージアムとなり公開されている。

フラグラー・ミュージアム

彼のフロリダ開発の余波は、当時ニューヨークに留学中で、実業家にあこがれていた酒井醸という日本人青年の心を動かした。彼はリーダーとなって、パームビーチから南に40数キロ離れたところに大和コロニーという日本人村をつくった。しかし、長くは続かず、戦前に自然消滅した。
かつてコロニーがあったあたりには、その痕跡はなにも残っていない。しかし、そこから数キロ離れたところに、日本庭園と博物館ができている。The Morikami Museum and Japanese Gardens (モリカミ・ミュージアム・アンド・ジャパニーズ・ガーデンズ)というこの公園は、森上助次という人物の名にちなんでこう名付けられた。


森上は、コロニーづくりに参加した一人で、最後まで当地に残り、所有する土地二百数十エーカーを地元に寄付、これがもとになってこの公園や博物館などができた。酒井と同じ京都府宮津市出身の彼は1976年に89歳で亡くなるが、生涯独身で一度も日本に帰ることはなく、晩年はトレイラーハウスで暮らした。

私が最初にフロリダを訪れたのは1986年2月だった。中部大西洋岸のデイトナビーチという町に、それから一年滞在した。ビーチはいつも賑やかで、延々とつづくビーチを車が数珠つなぎになって、まるで散歩をするかのようにゆっくりと走っていた。ピックアップトラックの荷台からビキニ姿の女の子たちが投げ出す脚がまぶしかった。

まばゆいばかりの光景に唖然としたのを覚えている。白人がほとんどで、日本人に出会うことなどほとんどなく、東洋的なものにすら出くわすことはなかった。しかし、このフロリダにも明治時代に日本人の足跡があったことを、しばらくしてから知ることになった。

きっかけは、ハイウェイ95号を南下しているとき見た「Yamato Rd.」というサインだった。これが実は日本語の大和からとった「ヤマトロード」で、かつての大和コロニーに関連して名付けられた道だった。酒井醸が野心に燃えて作ろうとし、最後に自分の名前を現地に残した森上助次が一農民として参加した、あの大和コロニーである。

 

ゴルフをする二人は、知る由もないだろうが、今のテレビ番組風に言えば、「こんなところにも日本人がいた」のだ。

『大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち』(旬報社、川井龍介、2015)

大和コロニー フロリダ、移民、日本人

「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)をこのほど出版しました。ざっと、あらすじをまとめると、以下のようになります。

表紙

フロリダ州に20世紀の初めから大和コロニーとよばれる日本人の入植地があったことはほとんど知られていない。しかし、戦後もこの地で農業をつづけた京都府宮津市出身の森上助次が、地元に寄贈したことがもとで、現地には広大な日本庭園と日本文化を紹介する「The Morikami Museum and Japanese Gardens」(以下モリカミ)が建設され、いまも多くの人々が訪れている。この寄付が縁で、宮津市とフロリダのデルレイビーチ市とは姉妹都市の関係になっている。

なぜ、ここに日本人が移民したのか。20世紀のはじめ、アメリカ国内は未開発の地が広がっている時代、フロリダ州では大西洋岸に延びる鉄道敷設計画が進められ、リゾート開発が始まった。ロックフェラーとともにスタンダード石油を経営した実業家で大富豪のヘンリー・フラグラーが企画したこの計画にともない、開発と同時に入植者を呼び込む動きが広がった。
これを知ったのが、当時実業家を目指してニューヨーク大学に留学中の酒井醸だった。宮津藩士の息子に生まれた酒井は、義兄で丹後縮緬商の沖光三郎に財政的な支援を得て、南フロリダに集団移住を計画し日本人のコロニー(入植地)をつくろうとした。そこで、ニューヨークの知人らに声をかけたほか、郷里の宮津に帰り人材を募集して現地入りしたが、そのなかのひとりが森上助次だった。
大和コロニーと名付けられた日本人村では、野菜や果物をつくり、鉄道を利用して全米に販売し栄えたこともあった。しかし、環境面で耕作はきびしく、農業自体は大きな成功にはいたらなかった。また、1920年代にはフロリダの土地ブームもあって土地を売って農業から離れるものも多く、のべ140人ほどが暮らしたコロニーは衰退。戦争で土地も接収され、コロニーは解体した。

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

しかし、森上助次ほか数人だけは現地の周辺に残った。助次は一時は恐慌で全財産を失うなど苦労しながらも土地を少しずつ買いためていった。その一方で農業を続け生涯質素な暮らしをしながら、独身を貫き、また日本にも帰国せず現地で89歳の生涯を終えた。
助次がアメリカへ来た理由の一つはプロポーズした相手への失恋だった。彼女のことを生涯忘れられなかった助次は、晩年思い焦がれた人と文通をすることができた。彼女もそんな助次の思いを懐かしい想い出として受け止めた。
助次が寄付した土地をもとにした公園の広さは約200エーカー(約24万坪)で、湖を中心にして6つの区域に分かれる。一周はおよそ1・2キロくらいの散歩道。瓦屋根の本館があり日本の美術品が展示、茶室や225人収容のシアターもある。コロニーの歴史や日本の生活様式なども展示している。
正月の餅つき、お盆の精霊流しや花火など季節の催事を行い、年間を通して、生け花教室や茶道教室、日本料理や日本の庭作りを紹介。日本語教室などといった教育的なプログラムも組み、地域の人に日本文化を広め交流を図っている。

 

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

※    ※    ※

私がこの事実に興味をもったのは、ひとつにはアメリカがまだ発展途上で、フロリダの開発がオイルビジネスで成功した大富豪の手によって進められ、これに呼応した日本側の移住、入植プロジェクトもまた生糸産業、縮緬産業による富がつぎ込まれたという、ともに大きな時代背景があったことです。もうひとつは、酒井醸のようなインテリの理想と、失恋が動機で右も左もわからず入植した森上助次のような「農民」の、個人としての生き方の魅力です。
大きな時代の流れと制約のなかで、個人の夢や理想はどう動いていくのか。移民という冒険を通して見えてくる時代と社会と、個人の意志と運命が交錯するところにこの“物語”の醍醐味があるような気がする。

中山康樹を読め!! すばらしき音楽狂

しばらく会っていない知人が亡くなったことを新聞で知って愕然とした。中山康樹さん。「マイルスを聴け!!」をはじめとするジャズ評論のほか、ジャズ、ロック、ポップスの評論で小気味よく、ユーモアのある文章を書く人だ。

ここ数年は年賀状のやりとりだけだった。そういえば今年は来ていなかった。となると、あえて連絡を取らない限り近況を知ることはなかったのだが、それが新聞記事で、それも訃報ではなく、一般記事のなかで今年の初めになくなっていたことを知らされることになるとは。

中山

 

中山さんのことは、彼が「マイルスを聴け!!」を出版したあと、インタビュー記事を週刊朝日に掲載したのがきっかけで、お付き合いするようになった。マイルスの音楽を、中身がわからない人でも興味をかき立てるように、ユーモラスに描いているその書きっぷりに惹かれた。

その後、「ディランを聴け!!」という彼の作品を編集したことがあった。また、拙著の書評を書いていただいたこともある。そのほか、住宅問題を書いていた私の取材に応じてくれて、彼が住むマンションを買った経緯などをうかがったことがある。

クールで、少し怖い感じで、音楽を聴く姿勢は厳しかった。鋭さゆえに批評への批判もまたあった。だが、彼は気にしなかっただろう。

中山さんがいっていたことで思い出すのは、CDは100枚あればいい、新しく気に入ったものがあれば、古いものの中のものと取り換えればいいという話だった。潔い人だった。それともう一つ、彼が書いていたなかにあるのだが、若いころレコード店に行って、そこに売っているレコード全部を買いたくなったという話。この人はけた外れの音楽好きなのだ。

集中力とエネルギーのあった人だった。ある時期からものすごく精力的に著作を重ねていった。マイルス、ビーチボーイズ、ビートルズ、ディラン、そして桑田佳祐…。20世紀大衆音楽の巨人たちを串刺しに批評していった。

その著作のなかで私は異色の「スイングジャーナル青春録 東京編、大阪編」が好きだった。スイングジャーナル編集長をつとめた彼の若き日を描いたものだ。失礼を承知で言えばまさに、音楽バカの微笑ましい青春の日々だ。音楽好きの若い人にはぜひ、「中山を読め!!」といいたい。合掌。

新京商業、新京、満州

中学時代だったか、学校に提出する家族の情報のなかに保護者の最終学歴というのがあった。そのとき私は、父親が「新京商業高等学校」という学校を出たことを知った。

日本にはないような新京と名称から、そんな学校があるのかな、と思っていたくらいであまり気にも留めていなかった。まもなくそれが旧満州国の首都、新京(長春)にあった学校だとわかった。
「親父が、日本にいてもたいしたことないだろうから、満州でも行ってみたらどうかっていうんで行った」と、父は話していた。このときも「へぇー」というくらいで、それ以上そこがどんな学校かなど聞くこともなかった。

戦争に行っていた父親は、朝鮮半島の平壌から最後は逃げてきたなど、ときどきぼそっと戦争体験を話していた。が、まったく興味のなかった子供のころの私は、何かを尋ねることなどなかった。

それから30年以上たって戦争のことや父親の戦時体験などについて、知りたいと思ったときは父は亡くなっていた。愚かと言えば愚か、よくある親子の話といえばそれまでだ。しばらくして父親が所持していた新京商業の卒業アルバムを見つけた。
それは戦時中とは思えないほど立派なもので、校舎や生徒たちの写真がずいぶんと使われていた。正面玄関と思われる前での終業写真をみても、立派な建物で、改めて満州で日本が作り上げようとした意図の一端が感じられた。

新京と新京商業について、もう少新京アルバムし知りたいと思っていたところ、新聞社の人の紹介で新京で生まれ育ったというTさんに会うことができた。Tさん宅を訪れ、いまの新京(長春)にも訪れたことがあるという彼女から、かつての新京のまちの地図や新京商業について、書かれているものを教えてもらった。
それをみると、新京がいかに計画的な人工都市として整備されていたかに驚かされた。新京商業は市街地の中心部に位置していた。日本がつくった主要な建物は、いまもかなり残っていて、新京商業も中国の実験中学という学校としていまも使われていた。

新京商業については、卒業生でシベリア抑留経験がある人が本を著していて、その方と連絡がつき、数年前に訪ねて行ったことがある。埼玉県に住むMさんで、彼は父より一学年下だった。Mさんから新京商業は、昼間部と夜間部があり、私の父は夜間部だったことがわかった。父はどこかで働きながら学校に通っていたようだ。
Mさんの学年は卒業アルバムがないと残念がっていた。アルバムのためにお金をつみたてていたが、制作を頼んでいた東京の印刷所が空襲か何かで焼けてしまったそうだ。

私が訪ねたときMさんは視力を失っていた。私が持参した父が所持していたアルバムについて、どんなことが載っているかをMさんが聞いてきた。
「校舎そばにライラックの花が咲いている写真があります」と、Mさんに言うと、「あー、そうだ。ライラックの花があったなあ」と、懐かしそうに思い出していた。後日、アルバムをコピーしてMさんに送った。

新京商業のみならず新京の学校を母校としていた人たちは、当然のことながら終戦とともに母校は消え、想い出をたどる郷愁の地はなくなった。卒業アルバムだけでも残っていた人は幸運だったといえる。戦争中のことなど何も残さなかった父親が唯一残したのもそれなりの意味があった。

後藤さんの死を超えて~彼だったらどうしてほしいだろう。

後藤健二さんの最後の気持ちを想像すると、ただ胸が詰まる。イスラムの敵ではなく理解しようとしてきたジャーナリストとして誠実に行動してきた人間を、死の恐怖に陥れ、そして殺害するという行為を非難しようとすれば、怒りで汚らしい言葉しか見つからない。

では、この怒りを越えて、何ができるか、何をしなければならないか。それは後藤さん、湯川さんの二人の死をどう教訓として生かすかを冷静に考えることではないか。安倍首相は、この行為に対して償わせると言った。
犯罪を行ったものへの償いをさせることに異論はない。強力な特殊部隊などが仮にいたとしたら、イスラム国に潜入し、犯人に天誅を下してほしいくらいだ。ただし、イスラム国だけに限った償いをさせることができるとしたらである。

アメリカや有志連合による空爆をはじめ、対イスラム制裁の軍事行動を強化した時、イスラム国の出方によっては民間人に犠牲者がでることは十分考えられる。後藤さんらとおなじように死に、後藤さんの家族と同じように悲しむ人がたくさんでることになる。
さらに言えば、後藤さんはある使命感と覚悟をもって自ら危険地帯へ赴いたはずだ。これに対して攻撃にさらされた地に暮らすような人々の不幸は、まったく意味も分からず突然訪れるものであり、自分の意思とは関係のないところでただ殺されることになる。そうした事態を招くことは後藤さんの望んでいたようなことではないだろう。

時代を少し遡ってみよう。2001年の9.11以降に、アメリカが行ったタリバン攻撃のためのアフガニスタン空爆、2003年からのイラク戦争で、誤爆などによりいったい関係のない一般市民がどれだけ死んだことか。
2002年7月1日には、アフガン南部への米軍空爆で、結婚披露宴中の人たちを含む民間人が少なくとも48人死亡した。アメリカは「それは事故だ」と、誤爆であることを認めた。これはほんの一例である。
イラク戦争では、アメリカがファルージャ掃討作戦を始めた2004年4月5日から6月3日までの間で戦闘やテロで死亡したイラク人は1100人以上であると当時イラク保健省がまとめている。このうち14歳以下の子供も81人含まれる。これでも一部である。

空爆や市街地での地上戦などを行えば民間人に犠牲がでるのは明らかである。しかしそれがわかっていて実行する。それを日本政府は積極的に支援した。その政府を選んだわれわれは、「正義の戦い」による誤爆によって、まったく戦闘と関係のない民間人が多数死んでも仕方がないと思っていたことになる。

だとすれば犠牲者の遺族は、どう思うだろうか。後藤さんや湯川さんの遺族が悲しむように、多数の人が憤り悲しみ、その怒りの矛先がアメリカとその同盟国、そしてその国民に向いたとしても仕方がないことは、彼らの立場に自分を置いてみればたやすく想像できることだ。つまりわれわれは誤爆などについては間接的に加害者の立場にいる。

そんなことを言っても、日本人全体をいまやターゲットにしているといっているのだから、殲滅しなければ国民、国家が危険にさらされる、という声がかならずでてくる。物事を単純化すればその通りだ。また、単純化は理解されやすい。だがそれは、ただ自分の身が危ないから、まず何とかしたいといっているに過ぎない。それによって誰かが傷ついたとしても見て見ぬふりをする、あるいは考えないという姿勢だ。イスラム国と同様とまではいわないが、似たようなものだ。

では、どうするのか。簡単にはわからない。しかし、まったく誰も傷つけないことは不可能だとしても、最小限に抑えながらイスラム国を弱体化し殲滅に追い込む方法を徹底的に議論してみたらどうだろう。今回、後藤さんを救出するために世界各地でインターネットなどを通じてメッセージが広がった。
こうした手段をつかって、彼らの言語で、いかに彼らが罪深きことをしたかということを健全なイスラム社会の力を借りて世界に発信し続けることなども一つだろう。彼らがいかに非道なことをしたか、後藤さんという貴重な人材を失ったことをわれわれの悲しみや怒りが、イスラム国の人間よりはるかに大きいかを延々と知らしめることだ。
なにやら、自分たちが被害者で、怒りをもって正義を行使するようなことを言っている彼らに、もっと激しい怒りをもって対処することだ。
罪深い、非道な相手に償わせるのはいい。だが、安易な方法で敵対方法にでて、われわれもまた償いを背負うような側に立つことは避けたい。この際、後藤さんだったらどうしただろうか、いま、天国でどうしてほしいと思っているか。それを考えてみようではないか。そしてじっくりイデオロギーを超えて議論を煮詰めてみたらどうだろう。

※  ※
湯川遥菜さんの父親が、後藤さんの死を知り嗚咽していた。息子を殺された悲しみと、息子を助けに行った人が殺されたことへの申し訳なさと悲しみ。息子が人質になったときに、自分の育て方が悪かったと詫びていたが、いったいこの父親になんの謝るべき理由があるのだろう。湯川さんは立派な大人である。二重の悲しみを負ったこの人もまたまぎれもない被害者のひとりである。罪もない人を殺した側が何より責められることを忘れてはならない。

朋あり遠方より来る、また楽しからずや~野毛

フロリダにいる古い友人と横浜・野毛で会った。ハリウッドフェスティバル・オーケストラというバンドのドラマーとして、新年早々から全国各地を回っている途中、オフを利用して夜訪ねてきてくれた。
奥さんが日本人で、日本にも一時住んでいた彼は、小ぢんまりした居酒屋と酒を好むアイリッシュ系の50代だ。前回に会ったときは、青物横丁の赤ちょうちんで、はじめてホッピーを味わった。これが意外にも気に入っていたようで、今回も野毛の赤ちょうちんでホッピーから始まった。

フロリダのニュー・スミュルナビーチという、ケープカナベラルにちかい小さな町で暮らす彼によれば、最近町に寿司レストランができたいという。「日本では安くておいしいものがいっぱいあるのに、どうしてマクドナルドに人が行くのか不思議だ」という。
ホッピーのあとは熱燗にうつり、カツ煮などをつまみに話ははずんだ。ではもう一軒ということになり、目移りするほどの居酒屋が集まる野毛の路地に出た。少し迷った挙句、ミュージシャンの彼が興味を持つだろうと思い、ジュークボックスの置いてある古いバーへ案内した。

「山荘」というそのバーは、以前同じ野毛の別の場所で長年営業してきたが、家主とオーナーの都合で閉店せざるを得なくなった。ところが顧客のなかから新しいオーナーが現れ、これまでどおりの店長のもと今の場所に移して再開となった。
喜んだのは常連で、以前より狭くなったその店は、いついってもカウンターはほぼ埋まっている。ジュークボックスには1960年代、70年代のドーナツ盤が入っている。多くはお客さんが持ち込んだものらしい。「ママス&パパス:夢のカリフォルニア」「ミーナ:砂に消えた恋」「長谷川きよし:別れのサンバ」など、なかなかうれしいラインナップだ。
100円で2曲、200円で5曲かけられる。ボタンを押して選曲する、出てくる音はけっこう重量感があって聴きごたえがある。
「これはたぶん60年代のものだよ」と、ジュークボックスに両手を置いた友人が感心する。「ボビー・へブ:サニー」がBGMでかかると、「いい曲がつづくな」と、再び関心。
ゴーヤチャンプルーをつまみに、二人でサッポロビールの瓶を3本空けると、10時ごろだった。込み合う店を出て、最後にジャズ喫茶「ちぐさ」へ案内した。日本で最も古いといわれるこの店も一度閉店したことがある。それを顧客が惜しんで“復活”させたという話は有名だ。

ちぐさ外

店内には、年配の男性が二人。ひとりは畳のような大きさのスピーカーを正面にじっくり聴いている。もうひとりは文庫本を片手に横を向いて、難しい顔をしていた。ジェイムソンが品切れだったので、二人して「山崎」をロックで。
友人は、いまかかっているレコードのジャケットを見に席を立って、店の若い男性に何か聞いていた。有名な「モントルー・ジャズフェスティバルのビル・エバンス」がかかると、友人の知り合いがかつて、ビル・エバンスのトリオに参加していた話などをしてくれた。
しばらくすると、60歳前後の外国人男性3人が入ってきた。ちょっとくたびれたビジネスマン風である。
「ナニジンかな」
「ジャズ喫茶なんて入ってくるのはドイツ人じゃないか」
などと二人でいいながら、彼らの動向をみていると、注文は英語だったが会話はフランス語だった。店内の客は日本人3人、フランス人3人、アメリカ人1人。どれも60歳前後の男という、インターナショナルではあるが枯れている。

静かに聴いているフランス人に帰り際、「どうしてこの店に来たのですか」と、話しかけてみた。するとひとこと、「By Chance(偶然)」だという。
偶然でも、ジャズのカフェに入ろうなんていうのは、古いジャズファンなんだろうな。友人は、外に出ると満足げに、ちぐさの写真を撮っていた。あと数日の滞在だという友人は、そろそろ妻に頼まれたものを買わなくてはならないという。
ラーメンだというから、どんなものかと思ったらこれだといってメモを見せてくれた。そこにあったのは「マルちゃん正麺」の文字だった。冷たい空気の夜だったが、ちょうどいい酔い心地で桜木町駅へと向かった。悪くない日だった。

テロと誤爆、そして人質

フランスでのテロ事件に次いで、シリアでの日本人人質事件。アメリカをはじめとした先進諸国が封じ込めようとした勢力が、形を変えてテロを拡大させてきた。

何の罪もない人間を殺害する狂った暴力には、怒りと嫌悪を覚えるが、一方で果たしてそうした暴力はテロ組織からのものだけなのかという思いが浮かぶ。

暴力を受けたのが先進国の人間だったり、その行為が先進社会で起きた場合、当然反響は大きくなる。しかし、たとえばアフガニスタンやイラクなどで、アメリカやそれに同調する側が一帯となって行ったテロ掃討作戦などによる現場の実態は、よくわからないのがほとんだ。

自分の目から遠いところで起きている、あるいは、心情的に遠い人たちについて起きている悲劇に対して、人は関心が薄くなるのが常だ。だから、たとえば反テロ攻撃で、空爆して、誤爆だったということで何の関係もない住人が死んだり傷ついても、ひどい話だとは思っても、何十万人もの人がデモをしたり国際社会が一斉に怒りをあらわにすることもない。

犠牲者の家族にしてみれば、正義の戦いのための「誤爆」か、テロ行為によるものかは関係ない。ただそんな目に遭わせた側に憎しみが募るだけだろう。遠いところにいる人たち、なじみのない人たち、力のない人たち、そういう人たちの被害が、どれだけそうでない人たちと比べて世界に届けられたのか。

だが、そういう人たちのことを取材して広く知らせようとしたのが、今回人質になった後藤健二さんだった。このことをどう考えたらいいのか。

窓ガラスの汚れ、ピースとハイライト  2015年元旦

fuji015

元旦、茅ケ崎市西浜海岸からみる富士山(09:55)

 

大晦日に自宅のガラス窓を拭いた。最初に外側から布で拭いて汚れをとる。つぎに内側から汚れを拭き取る。それでもよく見るとまだ汚れている。外から拭くと、あれ?汚れが落ちない! 汚れているのは内側なのか。いや、やっぱり外側か。

ガラスの汚れの原因が内か外かを見極めるのは実にむずかしい。ふと、これは人と人との議論や意見の違いと似ていると気づいた。ぶつかり合ったとき、互いにその原因は相手にあると考えて、自分が正しいと主張する。だが、ガラス窓の汚れの原因がどちらの側にあるのかわからないように、誤りは自分の側にあるかもしれないのだ。

自己の正当性を声高に主張する、つまり自分の側のガラスは汚れていないと言い張る議論がここ数年際立っているような気がする。

この夜、NHK紅白歌合戦で、久しぶりに登場したサザンオールスターズ。桑田佳祐の歌う「ピースとハイライト」の歌詞が意味深だ。

♪ 今までどんなに対話(はな)しても
それぞれの主張は変わらない。

♪ いろんな事情があるけれど
知ろうよ互いのイイところ

自分の主張の正しさを譲らずに、意見を戦わせる。いくら対話をしても主張は変わらない。でも、違いをみとめて、相手がなぜそういうことをいうのか、相手の事情やいいところも理解しようとしてみたらろうだろう。そんな気持ちをやさしく訴える。
理想主義と言えばそれまでだが、いつからか、理想を掲げる人を「甘っちょろい」とか、「現実を見ていない」と、見下すような風潮がある。確かに理想だけを標榜して、それに至る現実的なプロセスを考えない意見は弱い。しかし、問題に対峙した時、理想のない対応策は、力のない淋しい現実主義とはいえないだろうか。

桑田は、ポップなメロディーにのせて時々、社会的な言葉をのせる。音楽のもつ力を発揮して、わかりやすい言葉で理想を語る。人々にまずは互いを知り合うようにと。切なく、セクシーな言葉とメロディーが真髄のサザンには、こういうサウンドもあるのだ。
ますます世の中は、自分と意見の異なる世界へ不寛容になっている。もう一度原点に立ち返って腹を割って語り合ってみようというサザンのメッセージは、この時代に意味が深い。嫌いなやつや意見が合わないやつはいる。でも、どうして相手はそう考えるのか、まずは考えてみたらどうだろう。
ガラスの汚れから桑田の歌へ。そして明けて2015年。ガラスの汚れを落とすように、対立は時折立場をかえて原因を探ってみたいものだ。(敬称略)