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ロシアの蛮行 ウクライナは滅びず 

金曜日, 4月 8th, 2022
ウクライナ国歌をうたう横濱シスターズ

 世界中を長い間覆っている新型コロナウイルスが収束に向かわないかぎり、これをしのぐ国際的な事件はないと思っていたところ、ロシアによるウクライナ侵攻というとんでもない事件が起き、残念ながら毎日このニュースが報道されることになってしまいました。破壊される町、傷つき殺される人。こうした映像をただ見ているだけで何もできないもどかしさとつらさを感じ、自分にできることはないかと模索している日本人は多いでしょう。
 その一方で、日本も核兵器をアメリカと共有すべきだとすぐさま言い出す政治家もいました。安全保障についてさまざまな意見を出すことに異論はありませんが、ものには優先順位というものがあります。ここでの核共有論の持ち出しは、近くで火事に遭い焼け出されて困っている人がいるのに、まっさきに自分の家の火災保険を見直そうとあわてるようで恥ずかしい限りです。
 市民レベルではさまざまな支援が行われています。横浜市を拠点に音楽活動をする女性ボーカル3人組の横濱シスターズは、ウクライナ国歌「ウクライナは滅びず」の動画をユーチューブにアップすることで、支援の気持ちを表しています。
 R&B、昭和歌謡、アメリカン・オールディーズなど幅広いレパートリーをもつ横濱シスターズは、世界の国歌をうたう企画をライフワークにしていて、これまで34ヵ国の国歌を動画にアップしました。
 ウクライナ国歌については、一昨年横浜市とウクライナのオデッサ市が姉妹都市提携55周年を迎えたのを機にレパートリーに取り入れました。しかしウクライナ語の発音をチェックしてもらえる人がみつからずアップを保留していたところ、ロシア侵攻が予測されたため「今届けなくては。ウクライナの人にぜひきいてもらいたい」と急遽2月15日にユーチューブにアップしました。
 するとオデッサ市のホームページなどがとりあげ、あっという間に広まり3月28日現在で約60万件も再生されました。また、コメントも相次ぎ「今、真っ暗な地下で動画をみています。光がないのであなたたちの歌が光の代わりです」「ほか国の人が歌ってくれることがうれしい」などの言葉がウクライナから届きました。「コメントを読んでいるとつらくなることがあります」と、リーダーのMAHOさんは言いますが、ウクライナ民謡も続けてアップしました。
 横浜市との関係では、日本ウクライナ芸術協会が、昨年末横浜市で開かれた「横浜オデッサ姉妹都市提携55周年記念ガラコンサート〈オレグ・クリサ&フレンズ〉」(同協会主催)の動画を支援者にオンライン配信で販売して、集ったお金は経費など取らずそのまま国際NGO法人ADRAウクライナへ送り、現地での医療品や必要物資にあてています。
 同協会代表でヴァイオリニストの澤田智恵さんによると、コンサートを開く劇場も爆撃の被害を受けているようです。黒海沿岸の風光明媚な港湾都市オデッサは、ウクライナ第三の都市で「次はオデッサが標的か」と心配されます。拡大する被害を見るのはつらいですが目を背けず、少しでもできる支援の方法を模索したいものです。(川崎医療生協新聞より)

いま起きているのはロシア、プーチンによる殺人、犯罪である。殺人を傍観していいのか。

日曜日, 2月 27th, 2022

 ロシア軍のウクライナへの侵攻。これは「戦争」ではない、軍事侵略であり犯罪である。ウクライナ人に死者が多数出ている。これはロシア、プーチンによる大量殺人である。
 ロシアを非難することが第一、そして必要なのは、攻撃をやめさせこれ以上の犠牲者を出さないことである。そのためのメッセージを国際的に広め、同時にロシア国民に対して圧力をかけてこの蛮行をやめさせるかが最重要だ。日本にいるロシア人に働きかける手もある。

 現状報告で終る報道に意味はない。プーチンの思惑や歴史的な経緯、さらに、日本もウクライナのようにならないためにどうするか考えるべきだ、などいうのはあとで議論すればいい。いまはひとりでも犠牲者を増やさないために、日本として、人間としてなにができるかを考えるときだ。
 ロシア国民に働きかけるツール、国際的な反ロシアと平和の世論をどう巻き起こすか、それを探りたい。

沖縄と感染 さらなる負荷がかかる

日曜日, 2月 27th, 2022

 今年5月沖縄が日本に復帰して50年になります。新聞では昨年から特集記事が組まれていましたが、それよりもこの時期沖縄が注目されたのは県内での新型コロナウイルスの急拡大でした。その後感染は全国的に拡大しましたが、沖縄での感染状況が特異だったのは、米軍基地から拡大していったという点でした。
 昨年12月海兵隊基地キャンプ・ハンセン(金武町など)でクラスター(感染者集団)が発生しました。日本が水際対策に必死になっている一方、感染した部隊は出入国の際にPCR検査をしていませんでした。沖縄の基地はアメリカ国内扱いな反面、基地内の米軍関係者は、基地を出て街なかで自由に行動することができるし、基地の外で暮らしている人もいます。また、マスクをつけていない人も多々見られます。つまり日本のルールや常識に縛られないというのが実情です。さらにこうした実態に対して日本から厳しい目で見られていることに対する意識も薄いようです。クラスター発生後に、キャンプ・ハンセンの米兵が酒気帯び運転で逮捕されたという事実がこれを物語っています。
 沖縄県の玉城デニー知事は、感染発覚直後から在沖米軍トップに米兵の外出禁止など対策を再三要請しました。しかし、米軍は当初「陽性者が出た部隊の感染封じ込めに成功している」と反応、その後日米間の協議の結果ようやく20日後に外出制限などが実施されました。

 いったい、沖縄の実情はどうなのか、北谷町に住む知人の今郁義さんに聞いてみました。北海道出身の今さんは、返還前の沖縄社会をとらえた「モトシンカカランヌー」というドキュメンタリ―の制作に携わり、以来沖縄に住み市民活動などをしています。
「基地のある金武町に行ってみたが、米兵はマスクもしていない。(アメリカンビレッジというレジャー地区のある)北谷町でもマスクをしていない米兵は目につく。また米兵はほとんど複数で行動し、レストランなどに入ってくる。基地の外で暮らしている米兵もたくさんいるが、そうした数もアメリカ側は明らかにしていない」と言い、こうした基地をめぐる問題を協議する日米合同委員会のあり方に疑問を呈します。
 日本にある米軍基地の約7割が国土の0.6%の面積の沖縄に置かれていることによる沖縄県民の負担は、飛行機の騒音、墜落、落下物による被害、米兵による犯罪とその処罰の問題など、さまざまな面で沖縄以外と比べ甚大です。
 このほか社会インフラの面でも大きなハンディを負ってきました。戦前沖縄には鉄道がありました。しかし戦後の占領下、公共の利益より基地としての利用が優先され鉄道は復活されることはありませんでした。また、沖縄を車で走ってみればわかりますが、カーナビの画面がほとんど塗りつぶされたようになってしまうことがあります。これが基地の存在です。救急車の搬送も基地を迂回しなければならないことがあります。
 さらに今、沖縄の魅力であり日本の貴重な自然でもある辺野古の海が無残にも埋め立てられ恒久的な基地がさらにつくられつつあります。そして多くの基地を抱えるがゆえの感染症のリスクがこれらに加わりました。復帰から50年、米軍基地があることによる沖縄県民への負担と不安はさらに増したことになりました。(川崎医療生協新聞より)

今こそ地球市民 世界連邦が地球を救う

日曜日, 2月 27th, 2022

 新型コロナウイルスが世界中に広まりはじめたころ、私は広島市へ出かけ加藤新一という人物について取材をはじめました。1960年にアメリカ本土をひとり車で駆けめぐり、日本からアメリカに渡った移民一世についての膨大な記録をまとめた彼の功績をたどるためです。
 1900年に広島市で生まれ、十代でカリフォルニアへ渡り農業に従事、その後現地の日本語新聞の記者、編集者になり、戦争がはじまると日米交換船で広島に帰り、現地の中国新聞の記者として活躍します。原爆の投下時には本人は辛くも難を逃れますが、弟、妹をなくします。
 妹は、亡くなる間際に「兄さん、仇をとって」と言い残しました。しかし、加藤氏は、被ばくの翌月広島を訪れた米軍の原爆調査団に同行した赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士を案内します。そして妹の気持ちは十分組みながらも、その後新聞社を離れると平和運動に積極的に関わります。
 1952年11月、広島で「世界連邦アジア会議」が開かれた時は事務局長をつとめ、再渡米し70年に再び日本に帰って来ると、被曝25周年を迎えた広島で開かれた「第二回世界連邦平和促進宗教者会議」の事務局次長をつとめます。
 世界連邦とは、「世界の国々が互いに独立を保ちながら、地球規模の問題を扱う一つの民主的な政府(世界連邦政府)をつくることで、世界連邦運動は、第二次世界大戦後、世界各国の科学者、政治家の支持を得て急速に発展。1947年には各国の世界連邦運動団体の国際組織として「世界連邦運動(WFM)」(本部ニューヨーク)が結成されます。(世界運動連邦協会HPより)
 また、同じような考えから、元国連事務総長のウ・タント氏は、人々が地球人運命共同体意識を持つことが先決であるとして「地球市民」という概念を提唱しました。これに共鳴した加藤氏は、国家や体制の枠を越えて、全人類が同胞愛をはぐくむべきだと主張し、自ら地球市民登録をしました。また、1978年6月の第一回国連軍縮特別総会には、きのこ雲と妹、弟の写真を配したパネルを手に国連に乗り込みます。 
 国益やナショナリズムが声高に叫ばれる昨今の世界の風潮をみると、世界連邦や地球市民といった考えとは、反対の方向に社会のベクトルは働いているようです。しかし、いま私たちの前に立ちはだかるコロナウイルスによるパンデミックや地球温暖化という地球規模での課題は、まさに“世界連邦”的な考えでなければ解決できません。
 各国のワクチンの接種率をみるとアフリカなどでは極端に低くなっています。世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が「ワクチン分配の不平等が長引くほどウイルスは拡散し、予測や予防ができない形で進化していく」(毎日新聞より)というように、自国のみならず地球規模で接種率を上げていかなければ、コロナ禍は終息へ向かわないのです。
 ともすると高邁な理想主義ととらえられた「世界連邦」や「地球市民」は、今まさに難関を乗り切る現実的なアイデアである、といえるのではないでしょうか。(川崎医療生協新聞より)

大企業と効率と見せかけの安さに惑わされ、輸入に頼る仕組みを作ってしまった日本の食の危機

金曜日, 12月 10th, 2021

 ガソリンの高騰をはじめ、さまざまな面でじわじわと消費者生活に影響を与える現象が起きています。また、最近では需要の回復でコンテナ輸送費が急騰し輸入品全般が値上がりしています。報道によれば、この9月の輸入物価指数は、1年前と比べて30%余上昇し1981年以降では最大の上げ幅となりました。
 こうしてみるとコロナは、生活に必要なものの自給率の低さをあぶりだしたともいえます。とくに、生きていく上での基本となる食料自給の問題は深刻です。
 2011年3月の大震災のとき、地震発生10日後に私は青森県に入り、車で南下して現場の取材を試みましたが、被災地に近い青森県のコンビニやスーパーでも食料品が不足していました。日ごろはどこの店にもあふれるほどの食品が並び、フードロスが話題になる日本で、「こんなにもすぐに食品は途絶えるのか」と驚いたものでした。
 この記憶があるので今回のコロナ禍での食の安全保障を考えたとき、今後、国際的なパンデミックや紛争、あるいは内外の大規模災害などが発生した場合、日本は食料的な危機に陥らないだろうかと心配になります。
 こうした懸念を残念ながら裏付けるのが「農業消滅-農政の失敗がまねく国家存亡の危機」(鈴木宣弘著、平凡社新書)です。今年7月に出版された本書の著者は、東京大学大学院農学生命科学研究科教授で、これまでも日本の農政に警鐘を鳴らしてきましたが、本書ではコロナ禍によってより浮き彫りにされた危機も示されています。


 2020年3月から6月の段階で輸出規制を実施した国は19ヵ国にのぼるなかで、いま、日本の食料自給率は38%。この数字をどう見るか。著者はこう解説します。「FTA(自由貿易協定)でよく出てくる原産国ルール(Rules of Origin、通常、原材料の50%以上でないと自国産と認めない)に照らせば、日本人の体はすでに『国産』ではないとさえいえる。」
また、「牛肉、豚肉、鶏卵の自給率はいま11%、6%、12%だが、このままだと2035年には、それぞれ4%、1%、2%になってしまう」と試算します。
 さらに野菜や穀物の源である「種」については、政府が、農家ではなく種を扱う企業寄りの制度変更をとったため海外依存度が高まり、「米も種採りの90%が海外でおこなわれ、物流が止まるような危機がおきれば米の自給率も11%にまで低下してしまう」と憂慮します。
 このほか、貿易交渉の姿勢も自動車などの輸出を伸ばすために農業を犠牲にしていること、消費者が安さだけを求めていては、農家が疲弊しひいては国内生産が縮小し、同時に海外に依存することで農薬や添加物の進入し、総じて食の安全が損なわれると訴えます。
 大災害、パンデミックなど思いもよらない事態がこの先も起きるでしょう。そのときパニックに陥らないためには、著者が主張するように、コモンズ(共用資源)を重視して市場原理主義に決別し、地域の種からの循環による共生システムをつくってていくべきです。

菅首相が守ろうとしたものはなにか。国民か政権か、自分自身か?

月曜日, 9月 6th, 2021

 先月、横浜港を見下ろすビルから大桟橋に豪華客船が留まっているのをみました。ふと昨年正月のダイヤモンド・プリンセス号を思い出しました。連日のメディアでの報道に、この先ウイルスが広がってしまうのだろうかと心配しましたが、今の日本の現実はその心配をはるか凌ぐ危機的な状況にあります。
 あっという間にウイルスは地球上を席巻しました。しかし日本ではなぜかそれほどでもなかったので、当時の安倍首相は「日本モデルの力を示した」と胸をはりました。しかし案の定根拠のなき過信は、次善の策を遅らせ、代わった菅政権も悪化する事態を想定できず「GoToトラベル、イート」を推進しました。一方で、必要な検査体制は整えず、政府が「ゲームチェンジャー」とばかりに頼りにしたワクチンも提供が遅れました。
 そこへきてデルタ株の出現と拡大です。オリンピックの熱狂でつかの間目をそらすことができた感染状況は、専門家が予測した通り急速に悪化し、感染者の療養施設の確保はできず、自宅療養中で亡くなる人はつづき、コロナ以外で救急搬送先が見つからずに失われる命もでてきました。
 千葉県で感染した妊婦が入院できず自宅で出産した赤ちゃんがなくなるという例は、痛ましい限りでしたが、その経過を会見で説明する地元の保健所の担当者の口調からは「保健所だってぎりぎりの努力をしてるけど限界だ」といった悲痛さが感じられました。医療体制はひっ迫し、保健所業務も限界に達してます。
 わざわざ経過を書いたのは、こうした事態はこの1年半余り専門家によって予想されていたということを強調したかったからです。予測困難な自然災害とは明らかに異なります。だから検査体制、療養施設、野戦病院的な施設、感染源を減らすより具体的な対策を前もってとることができたわけです。しかし、国民が納得するような形では実現されませんでした。
「最悪の事態に備える」というのが、リスク管理の鉄則であり、リーダーがとるべき方策です。それは「逆算の思考」とも言えます。将来起こりうる最悪の事態を想定したときに、どう対処するかをまず考える。そして、その結果から今なにをすべきかを割り出す。その反対が対症療法的な思考です。根本的な問題に向き合うのではなく、いまある症状(状態)にまず対処する、その時々に対応するいわば御都合主義です。
 こうした思考がいかに脆く、犠牲を払うかは先の戦争からいくつも学び取れます。一例をあげれば、唯一の地上戦となり十数万の犠牲者を出した沖縄戦では、日本軍は一刻も早く降伏すべき時点で、大本営を守るという名目で少しでも時間を稼ごうと抵抗しより多くの市民を巻き添えにしていきます。
 敗戦という最悪を想定できるのに、その場しのぎのために犠牲を増やしてしまう。つまり軍が守ろうとしていたのは日本の国民ではなかった。同じように、これまでの経過を見れば、事態の深刻さを政権の責任ととらえられるのを恐れるがゆえに、国民に危機をアピールできず、ひいては先手を打てなかった菅首相が守ろうとしたものは、国民ではなく政権だったのではないでしょうか。
 新学期が始まり子どもの感染が新たに心配されます。遅くとも来月には行われる衆院選では、こうした現状を厳しく見て国民の側にたつリーダーを選出したいものです。(川崎医療生協新聞より)

 

パンデミックと環境破壊 「成長」という衰退 人新世の時代に

火曜日, 7月 20th, 2021

 禍福は糾える縄の如し。どんなことにもいい面と悪い面がある、ともとれるこの諺は実に的を射ている、ということを年とともに痛感します。いいことなどなにもないと言いたくなるコロナ禍についても、偶然ながらプラス面もあります。
 これまであまり注目することがなかった各自治体の首長の素顔や力量がわかったことはその一つです。地元の行政もしっかり監視しないとまずいぞ、という有権者としての自覚に目覚めたというのはいいことでしょう。
 また、コロナ禍で経済活動が低下し成長も低下する、と否定的に報じられますが、経済活動の低下で二酸化炭素(CO2)の排出量も減少し、空気もきれいになったという話も聞きます。これは、世界的な課題である地球温暖化を抑えるためには、皮肉にも功を奏していることになります。
 経済成長と環境問題との関係で言えば、古くは1970年代に国際的なシンクタンク「ローマクラブ」が「成長の限界」を発表し、地球の天然資源は有限で、人口増や環境破壊の面から将来成長は限界に達すると警告しました。しかし、その後も経済成長信仰は崩れず、気候変動に象徴されるように地球環境システムは崩壊の危機に瀕しています。
 そして、いまでも一般に経済成長とCO2の排出削減(温暖化阻止)は両立できるという前提で議論が行われています。しかし果たしてそうでしょうか。将来人類に未曽有の被害をもたらすだろう気候変動の根本的な原因は資本主義にある、と警告する今話題の書「人新世の『資本論』」(集英社新書)の著者、斎藤幸平氏はこの疑問に明解に答えています。
 経済成長が順調であれば資源消費量が増大するため、二酸化炭素の削減が困難になっていくというジレンマがあり、市場に任せたままでは、今後の技術革新があってもとても削減目標は達成できないというのです。
 斎藤氏は、今起きている「新型コロナウイルスによるパンデミック」は、「経済成長を優先した気球規模での開発と破壊が原因である」という点で、気候変動問題と構図が似ているとし、こう警告します。
「先進国において増え続ける需要に応えるために、資本は自然の深くまで入り込み、森林を破壊し、大規模農場経営を行う。自然の奥深くまで入っていけば、未知のウイルスとの接触機会が増えるだけではない。自然の複雑な生態系と異なり、人の手で切り拓かれた空間、とりわけ現代のモノカルチャーが占める空間は、ウイルスを抑え込むことができない。そしてウイルスは変異していき、グローバル化した人と物の流れに乗って、瞬間的に世界中に広がっていく。」
 「以前からある専門家たちの警告」、「経済か人命かのジレンマの中での根本的な対策の遅れ」。これらも気候変動問題と同じだと指摘します。
 こうしてみると、コロナ禍は、気候変動というより大きな地球的問題への警鐘なのかもしれません。今後も起きるだろうウイルスの問題を教訓とし、今こそ問題の根本原因にある資本主義から離れ、氏の言うように脱成長コミュニズムを真剣に議論すべき時ではないでしょうか。

抗原、PCR検査についての 尾身発言、新聞は触れず      驚くべき鈍い「ニュース感度」        広島県の実態から

日曜日, 5月 9th, 2021

 5月7日、菅総理大臣の記者会見に同席した「基本的対処方針分科会」の尾身茂会長は、抗原検査やPCR検査の必要性を強調した。専門家会議の他のメンバー、科学者、経済界、一部ジャーナリストが1年以上前から強調していた検査の活用を訴えた。これが、感染実態を明らかにし感染源の減少と感染拡大の防止策になるという指摘は、実行に移されず、その理由もまたはっきりしないままだったことを考えると、遅きに失したとはいえ、尾身会長の「訴え」は、重要な意味を持つ。
 こうした施策をとり成功した他国の例を見ればなおさらだ。ただ、個人の行動や営業の自粛を要請し、時間と金だけをかける政策からすれば、まだとられていないが、とるべき有効な具体策である。繰り返すが、だから尾身会長が力を込めてこの点に触れたのは意味があった。
 にもかかわらずである。驚いたのは、この発言について8日の新聞はほとんどふれていない。かなりの字数を割いて1面から首相の会見について書いているのに、この尾身発言について書き込んでいない。これはいったいなんなのだろう。
 広島県という1県が積極的に行っている検査から判明した重要な事実を具体的に話し、提言している尾身会長の言葉について触れていないのだ。日本の主要メディアの「ニュース感度」の鈍さに驚く。

 以下、NHKの速報から尾身会長の発言を引用する。とても重要な内容だ。

「 軽い症状がある人に対する検査 積極的に行う必要」

 尾身茂会長は変異ウイルスが拡大する中で政府に求められる対策について「広島で行われた大規模なPCR検査では、症状がある人の陽性率が9%に達したのに対し、症状がない人の陽性率は1%にとどまった。また、別の自治体では、けん怠感など体の不調があっても、7%から10%は仕事や勉強で出ていることが分かっている。これらのことから言えるのは病院に行くほどでないくらいの軽い症状がある人に対する検査を積極的に行う必要があるということだ。健康観察アプリと合わせて簡便な抗原検査キットを活用し感染が確認されたら、周辺の無症状の人に対して広範にPCR検査を行って大規模なクラスターの発生を防ぐ、積極的検査を進めてほしい」と述べました。
ワクチン接種が進むまでリバウンド防ぐ対策をまた尾身会長は、西村経済再生担当大臣の会見に同席し「今後、高齢者を中心としたワクチン接種が進むまでの間に感染の大きなリバウンドを防ぐことが非常に重要だ」と述べました。

「人を見たら感染者と思え」的な漠然とした政策にいつまで頼るのか。リスクは具体的に

金曜日, 4月 2nd, 2021

(川崎「医療生協」新聞4月号、「コロナの風」より)

 ようやく少し前に進んだのでしょうか。感染者の早期発見などのためのPCR検査と疫学調査の拡充のことです。以前このコラムでも触れましたが、多くの科学者、医師などが一年以上前から検査の重要性と日本での検査の遅れに疑問を投げかけてきましたが、なかなか進んできませんでした。
 それが先月、緊急事態宣言を延長する際、菅総理は、感染の早期発見とクラスターの防止のため高齢者施設などでの検査を行うこと、そして市中感染を探知するため無症状者のモニタリング検査を拡大することを明言しました。
 改めて、なぜ検査が必要かを、感染拡大の“場”として懸念されている飲食店の営業状況を通して考えてみます。飲食店の営業時間が長くなると感染者が増える。このことは、状況証拠からなんとなく推測できます。しかし、その理屈は「風が吹けば桶屋が儲かる」とまではいわないまでも、少々説明が必要です。
 あくまで一般論でかつ推論ですが、営業時間が長くなると二つのことが考えられます。一つは、より多くの人間が一定空間のなかで飲み食いすることになる。多くなればその中に感染者のいる確率は高くなる。もう一つは、仮に感染者が一人であっても長時間飲み食いし、会話をすれば、より多くの飛沫がとび他人に感染させる確率は高くなるというわけです。だから営業時間の短縮が求められてきました。
 もちろん感染者がこの中にいなければ、リスクはゼロですが、そんなことは想定されていません。誰だかわからないけれど、どこかに感染者がいるのではないかという前提(恐れ)でみんな対処しています。言い方は悪いですが「人を見たら泥棒と思え」のように「誰もが感染者かもしれない」として対処しなくてはならないのが現状です。飲食店にかかわらず、職場でも店舗でも駅でも、市中では長い間こうした息苦しい空気のなかでみんななんとか対応してきました。
 しかし、これには無理があります。不透明なリスクに対して常に最大限の準備をするのは限界があります。反対にどの程度のリスクなのかがある程度わかれば、対処の仕方も変わり精神的にも余裕ができます。だから、市中における無症状者を検査によって浮かび上がらせリスクを可視化することが必要なのです。
 無作為に行うのは効果はないでしょうが、飲食店が多く感染者が出ている地域などリスクが高いと思われる地点に絞ってPCR検査を定期的に進めることはできたはずで、こうした施策の必要性を多くの識者が提言してきたのです。
 では、諸外国と比べてもなぜできなかったのか。この点については、明らかに厚労省に問題があったことは多方面から指摘されていますが、昨年末出版された「新型コロナの科学」(黒木登志夫著、中公新書)に、特に事実分析をもとに整理されています。癌の研究家で大学学長なども歴任したサイエンスライターでもある著者が、無症状者らへの検査拡大に反対していた厚労省の言い分の問題点を指摘、反論しています。
 漠然とした不安に耐えるのは限界があります。今からでも、無症状者の検査の拡充によって、少しでもリスクを具体的に把握し、国民に提示してほしいものです。(ジャーナリスト 川井龍介)

必要な検査がまだ進まない ノーベル賞学者も首を傾げる

金曜日, 4月 2nd, 2021

 (川崎「医療生協」新聞2月号「コロナの風」より)

 とうとう病院や療養施設の受け入れ体制の限界から、本来助かったかもしれない命が失われるという最悪の事態になってしまいました。適正な対策をとらなければこうした事態を招くかもしれないことは、昨年の春、夏から専門家の指摘によって予測されていたことを考えると政府の責任は重いでしょう。
 実行されていない適正な施策とは、PCR検査の拡充と、感染者のための療養施設の十分な確保、そして医療現場への支援です。とくに検査の拡充については、なぜ実施できないのかかなり前から批判が続いています。感染拡大を憂慮して、1月に4人の日本人ノーベル賞受賞者が政府に要望した5点の中にも「PCR検査能力の大幅な拡充と無症候感染者の隔離の強化」がありました。
 4人の1人、本庶佑氏は、GoToトラベルなどの業界支援ではなく、検査数をより増やすために集約して資金を投入すべきだと強調し、厚労省がなぜこうした対策をとらないのか理解できない、と怒りのこもった疑問を呈しています。政府の対策諮問委員会のメンバーの谷口清洲氏(三重病院臨床研究部長)も感染源を減らすことの重要性を説き、PCR検査による感染者の早期発見と、待機・入院などの保護、そして無症状者の検査強化による感染広がりの抑制を訴えています。
 経済政策の観点からも、政府の感染症対策分科会のメンバーでもある経済学者の小林慶一郎氏は、昨年春から効果的な検査の拡充による感染者の洗い出しなど「検査・追跡・待機」の実施が、感染拡大防止になると提言してきました。
 PCR検査については、偽陽性の者を含めて保護することは人権上や収容能力の面からできない、また偽陰性の者が感染を広める可能性があるなどとして、研究者やジャーナリズムのなかでも慎重論、反対論がありました。しかし、偽陽性については、医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏が、「検体に新型コロナがあった場合、結果に誤りはでない」と、権威ある医学誌の論文をもとに反論しています。加えて偽陽性者の存在を理由にしたPCR検査拡充の反対論は、感染者の追跡が難しい今、真の陽性者の存在を放置するにすぎません。
 また、PCR検査は頻度が重用であり、偽陰性はあるものの頻度を増すことによって感染者を減らすことができます。偽陰性の問題は一般に知られていますから、1回の検査で陰性だからと言って安心して行動することにはならないでしょう。いずれにしても偽陽性、偽陰性の問題から検査の拡充を抑制するというのは感染者を減らす目的からすれば本末転倒です。
 費用の問題については、GoToキャンペーンに費やした予算と比較すればできないはずはなかったことは明らかです。そもそも保健所の負担が大きいというのであれば、減らす手立てを講じ、検査の民間への委託も行えたはずです。この点は、昨年8月に退官するまで現場の最高責任者として感染対策にあたっていた厚労省鈴木康裕・前医務技監も認めています。
 つまり、感染源を減らすという施策を、難易度が高いからなのかその理由はわかりませんが、政府・厚労省は積極的にとらなかった。他国での成功例がありながら、検査によって動ける人と動けない人を分け、経済活動を部分的に動かしていくべきだという提言に耳を傾けなかった。その代わりに国民に「お願いします」と自粛と要請を繰り返し、社会に薄く広く息苦しいマスクをかけてきたように思えてなりません。
 本来いち早く行うべき医療従事者や福祉施設で働く人への検査にも積極的に取り組んでいません。自分が感染しているのではないか、患者、利用者に感染させてはいけないという緊張感を保ちながら業務にあたっている人のストレスはピークに達しているでしょう。検査拡充が一気にできないなら、せめてこうした現場の人への検査を優先して公費で行えるようにすべきではないでしょうか。 (ジャーナリスト 川井龍介)