Archive for the ‘Others’ Category

ある朝の「人身事故」

木曜日, 11月 28th, 2013

朝の通勤時間帯、駅近くのコーヒーショップには、オーダーのため人が列を作っている。都心に向かう電車が、人身事故のため止まっていて、当分動きそうもないため、しばらく様子を見ようと、あきらめてきた人たちだ。

ちょうど、電車が駅で停車したときアナウンスを聞いた私は、即座に降りてこのコーヒーショップをみつけた。よくあるチェーン店の一つだ。

まだ十分席が空いていたので、4人がけのテーブルについた。どうせみんな一人ずつだろう。着席してから30分近く経っているが、いまだに人が並んでいる。店内はほとんどいっぱいだ。

中年の女性がトレーをもって席を探していたので、「どうぞ」と、相席をすすめた。「ありがとうございます」と、彼女は席について、モーニングセットを食べ始めた。

多くの人がそれぞれスマホを見ている。なかには私のようにPCを立ち上げている人もいるが、圧倒的にスマホだ。向かいの女性もスマホをいじりはじめた。見回すと、新聞を読んでいる人はだれもいない。もちろん店には置いていない。
本を開いている人もどうやらいない。年齢は20代、30代が中心だろうか。男女は半分ずつくらい。

こういうとき、もし田舎の駅の待合室だったら、いろいろ話しかけてくる人がいたりするのだろう。知らない人同士でも、こんなところからちょっとした人間関係や男女の出会いが生まれないとも限らない。

後ろに座っていた若い男性が、注文したサンドイッチをもって店員の若い女性に話している。虫かゴミがついていたのか、店員が「あー、すいません」と言ってそのサンドイッチを持っていった。

隣にいた若い女性の所に、男がやってきて合流した。職場の仲間か。まだ途中までしか動いていないという。私鉄に乗り換えていくかを相談をしている。

目の前の女性が、席を立った、でかけるようだ。なにかこちらに挨拶するのかな、と思っていると、「どうもありがとうございます」と、おじぎをした。「あ、どうも、行ってらっしゃい」と、小さな声で、PCに向かったまま返した。

すでに40分を過ぎたがまだオーダーの列は続いている。ネット調べると、9時まではストップ。つまりあと20分くらいしないと再開しないようだ。

今度見回すと2人本を読んでいる人がいる。そういえば、フロリダの友人、ベテラン記者のノーランが言っていた。「インターンで来た若い女性が、紙の本を最後に読んだのは、2年前だって」。

50分後、ようやく並ぶ人が少なくなってきた。通常の形にもどったのか。この日、店の売り上げはぐっと伸びたことだろう。困る人がいれば喜ぶ人もいる。世の中、完全に悪いことなどない、そして良いこともない。

「喫煙は満員です!」。店員が業務報告の声をあげた。席数の少ない喫煙席は満員。かなり煙いだろう。そういえば、先日駅構内のコーヒーショップで、喫煙席しか空いてなく仕方なく入った。待ち合わせをした人が喫煙でもいいというので我慢した。
しかし、1時間以上いたら、息苦しくなった。臭いもすごい。喫煙が満席。阿片窟のようなものだ。

ウェブ上の運航情報の案内によると、8時40分頃に運転を再開したという。ようやく動き出していた。それから30分ほどして私は席を立った。

※   ※   ※

ホームで電車を待っていて、「人身事故」について考えた。人が巻き込まれた事故だが、たいていは自殺だ。とても悲惨で現場は凄惨なありさまに違いない。でも、「だれかがホーから飛び込んだ」などとはいわない。コーヒーショップの人たちも、人身事故に遭った人、あるいは自ら事故を起こした人のことなど想像することもないのだろう。
「人身事故」といわれれば、仕方ないと、コーヒーショップに避難するだけになってしまった。

Ross MacDonald(ロス・マクドナルド)の言葉①

月曜日, 10月 28th, 2013

この夏から、ロス・マクドナルド(Ross Macdonald)を再び読み直してみた。作品によっては3度目になるものもある。ハード・ボイルド・ミステリーとして、ただでさえ込み入ったストーリーの彼の作品は、2度目に読んでもほとんど既読の感がない。
「南カリフォルニアをこんなふうに描いた作家はいなかった」と、批評された彼の世界は、青い空と光り輝くビーチと海のカリフォルニアを舞台に、心に闇を抱えた人たちが織りなす仕方のない哀しさを描く。
主人公、リュウ・アーチャー(Lew Archer)は、事件を追う中でその人たちの心と生活のなかに入り込み、やがて出てくる。彼は深く思い、考え、そして訊ねる。ロス・マクドナルドがアーチャーに語らせる言葉には、この世と人間に対する真実がこめられはっとさせられることがある。
また、アーチャーの目と心を通して描かれるカリフォルニアとアメリカは、光がつくる陰がつきまとっている。
陰を見たがらない人、無視しようとする人、それに気がつかない人には、知ることがない陰=真実を明かす。辛くても哀しくても「本当のことなのだ」、と目をそらさない人がアーチャーとマクドナルドに惹かれるのだろう。

「ドルの向こう側」(The Far Side of The Dollar 1965年、菊池光訳)の最後にこんなくだりがある。一連の殺しの真犯人としてリュー・アーチャーに追い詰められたミセス・ヒルマンが、逮捕前に自害させる機会を与えて欲しいとアーチャーに頼む。しかし彼は「間もなく、警察が来る」と、それを断る。

彼女は言う。
「きびしい人ね」
アーチャーが応える。
「きびしいのは、私ではないのです、ミセス・ヒルマン。現実が追いついたのにすぎないのです」

この先、ときどきリュウ・アーチャーの言葉を紹介していきたい。

汚れた心と国益

土曜日, 8月 25th, 2012

 太平洋戦が終わる前後、戦争の混乱に輪をかけてさまざまな悲劇が起きた。敵に殺されるならと自害した人もいる。与論島から満州に入植した一団のなかでは、ソ連の侵攻でパニックになったある若者が同郷の子女を自ら手にかけてしまった。

 いままで信じていたものが180度変わってしまったこともあり、社会も人々の心も大きく動揺する。それでも現実を突きつけられれば前に進むしかないが、終戦を遠く日本を離れて迎えた人たちは情報不足や置かれた立場(移民など)によって日本にいる日本人とはまた違った複雑さがあったろう。

 いま公開されている映画「汚れた心」は、ブラジルに移民した日本人のあるコミュニティーのなかの悲劇を描いている。終戦を迎えてもなお日本が負けるはずがないと狂信的に思い込む“勝ち組”と呼ばれたグループが、負けを自覚する“負け組”を国賊として攻撃する。

 本当は心のどこかでおかしいと感じつつも、皇国の不敗神話に縛られて狂気に走る主人公。それを苦しみつつ見守るしかない妻。日本人同士のなかでまた血が流れる。実際に戦後のブラジル日本人移民社会で数多くの事件があったという。

 情報から隔離され、事実に目をそらし神話を妄信する。それは不安の裏返しでもあるのだが、そこにつけ込むように訴えるカリスマ的な人物による扇動がある。
 不安なときの人の心は弱く、こうした扇動になびいていく。そして、冷静に対応するような言動を弱虫となじり、同胞の中に敵を作っていく。

 いまの日本でも、似たようなムードはなにかことあるごとに頭をもたげる。個人的な国家観の表出にすぎないものを“国益”などと安易に呼び、「わが国の国益とはなにかを考えないといけない」などという言葉は要注意だ。

 先の戦争はもちろんのこと、原発計画も沖縄の基地も国益の名の下であったことだけいえば十分だろう。そんなことを考えさせられた映画だった。  

ただの酒屋よ!

金曜日, 8月 17th, 2012

 ちょっと少し黙っていてくれないか―。オリンピックの男子サッカーの試合を見ていて、実況中継があまりに能弁なので、思わず口に出してしまった。サッカーに限らず、とにかく競技の最中にアナウンサーは、ひっきりなしに話している。

 競技の内容を追って、ときどき選手のバックグランドなどを織り込むのならいいが、中継を盛り上げたいのか、感情的な言葉や精神論をゲームの進行中にあれこれ言われると鬱陶しい。

「下を向いているときではありません」とか「ようやく見えてきたメダルに向かって・・・」といったようなことを延々と話している。 

 テレビをはじめマスコミの宿命なのか、とにかく盛り上げようという意図が強すぎはしないか。仕掛けたい気持ちはわかるが、みんながほんとうはそれほど感動したり盛り上がっていないのに、過剰に盛りたてるのは痛々しい。アンデルセン童話の「裸の王様」のようだ。ほとんどの人が嘘だとわかっていても煽動者にうまくのせられ、真実を口に出せない。

 そんな作られた感動の嘘くささに見事に冷や水を浴びせた例を最近テレビで見て、痛快だった。演出=フィクションを砕く事実=ノンフィクションの心地よさといってもいい。それはあるニュース番組で取り上げられた宅配酒屋チェーンの「カクヤス」についてレポートのなかにあった。

 24時間、缶ビール一本から配達するというカクヤスの店舗なかで、ゲイバーが多く深夜までににぎわう新宿二丁目の実情を番組は伝えていた。配達の若い男性がちょっとバーでからかわれたりするといったお話やバーの“ママ”のコメントも紹介されていて、いかにこの地域でカクヤスが重宝されているかがわかった。

 そしてレポートの最後で、別のゲイバーのママを訪ねたレポーターがママにマイクを向けた。話題の酒屋チェーンがなるほど人気がある、ということを再度視聴者に知らせ、盛り上げて番組をしめようとして尋ねたのだろう。

「あなたにとって、カクヤスさんとはどんな存在ですか」。確かそんなことをきいた。するとママである彼は、一瞬「ン?」という感じで間を置いてちょっとぶっきらぼうにこう言った。
「ただの酒屋よ」

 これには笑った。だからこの手のママはいい。こちらの勝手な想像だが、いろいろな偏見にさらされても自分のスタイルを通してきた者が持つ、体制に媚びない率直さがあるからこういう言い方ができるのだろう。
 あえて尋ねる側の期待をはずしてシニカルに構えることの“受けねらい”もあるだろうが、相手に迎合して本意でもない答えをしない、本音の気持ちよさがある。

 レポーターとしては「(カクヤスは)水や空気と同じ、なくてはならない存在よ!」とでも、期待したのだろうか。でも冷静に考えれば、互いに商売。「ただの酒屋」である。この言葉、「うちもただのゲイバー」という、奥に自負を秘めた謙虚な姿勢もうかがい知るからまたいいのだ。(川井龍介)
 

青森、122対0 の青春

木曜日, 7月 12th, 2012

 今年もまたこの時期青森にやって来た。夏の高校野球、青森大会で県立木造高校深浦校舎という小さな学校の野球部の試合を取材するのが目的だ。
 いまから14年前、深浦校舎はまだ分校ではなく、深浦高校として独立していたが、その野球部は、夏の大会で、名門東奥義塾と対戦し「122対0」という前代未聞のスコアで敗れた。

 なぜこんな結果になったのか。そこから野球部はどう立ち直ったのか、それらを地域の実情などとあわせて、私はノンフィクションとしてまとめた(「122対0の青春:講談社文庫)。

 それ以来、ほぼ毎年のように夏の彼らの奮闘ぶりを観戦してきた。その途中で学校は分校化され存続が危ぶまれほど生徒数は減少、現在は全校生徒数が74人だ。しかし野球部は指導者にも恵まれ、このところ強豪でないかぎり一勝をものにするまでに成長した。
                              

 日本海側、秋田県と接する西津軽の深浦町から、およそ二時間半をかけて、2台のワゴン車を指導の先生自ら運転して、今年は12人の部員たちを大会会場の青森市営球場まで連れてきた。
 この春入部した1年生も含めて、相変わらずここの生徒たちは、別の学校から赴任する先生が驚くほど純朴である。開会式を終えた彼らは、外野席で開幕試合を観戦しに行ったが、他校の野球部が大人数で芝生に腰を下ろしていたのに対して、ほとんどが後ろのフェンスにもたれて立っていた。遠慮していたのだろうか。

 だが、見た目と中身とはずいぶんちがう。素朴で静かで、ときに頼りなげではあるが、どこか芯の強さのようなものがあることを、長年見ていてわかる。それは練習のたまものかもしれないが、都市部の生徒が日頃経験しないような真冬の横殴りの雪のなかの通学や、決して豊とは言えない地域の生活のなかで育まれてきたもののような気がする。

 11日の大会開会式のあと、大会本部で14年前の試合を観戦していたある野球部の元監督と当時の試合についてあれこれ話をした。この試合で青森大会の多くの記録が生まれた。一つあげれば11打数連続安打がある。
 攻めた方もよく攻め続けたが、同様に守る方もよく最後まで守った。
「都市部の生徒だったら、とても最後まで続けなかったと思う。私が監督だったチームでも無理だったと思いますよ」
 元監督は、そう言って眼を細めた。         

誤った「理解」

木曜日, 5月 17th, 2012

 人はなかなかわかり合えない。人間は歳をとってもあまり進歩しない。ちかごろ常々そう思う。

 だから、ある本のなかで紹介されていた哲学者ヘーゲル(1770~1831)の言葉に出合ったときは“深い”と膝をたたいた。
 ヘーゲルの言葉といえば、「理性的なものは現実的である。現実的なものは理性的である」などが有名だが、こんな意味深なことも言っていたのだ。
 曰く、
「わたしのすべての弟子のうちで、たったひとりだけがわたしを理解した。そして、そのひとりは、わたしを間違って理解した」

 間違った理解も理解のうちなのか。わかるとはなんなのだろう。

 

なんでも“個人情報”

木曜日, 5月 17th, 2012

 知人の働く女性があるとき携帯をなくした。さっきまでいた喫茶店で落としたのかもしれないと思い電話をしたが届けは出ていないという。
 都心にあるチェーン店ではないが3,40人は入れる大人がよくつかう喫茶店だ。ほかを探してもなかったので、もう一度確かめてみようと思い、彼女は喫茶店まで足を運びそこで働く若者に事情を話し、こう頼んだ。

「もし、今後みつかったら連絡先をいいますから、連絡してもらえますか」。
 すると、その若者は「いやいやそんなこといわれても困ります、個人情報を教えられても・・・」と、半ば狼狽したという。これにはなんだか釈然としない気持ちながら、彼女は仕方なく帰ってきたという。
 個人情報には違いないけれど、こういうのを勘違いというのだろう。 

非道なメール

木曜日, 5月 17th, 2012

 関越自動車道で起きた高速バス事故の続報として、こんなニュースがあった。ウェブサイトでバスのチケットを売った楽天トラベルが自己翌日に被害者やその家族らに「ご乗車はいかがでございましたか?」などとアンケートの電子メールを送っていた
 こうしたメールは出発日の翌々日に自動的に送信されるシステムになっていて、楽天側は関係者に不快な思いをさせたことを陳謝した。
 所詮機械のやることと思ってしまえばそれまでだが、失礼と言えばあまりに失礼な話だ。
 似たような例で、アマゾンからのメールで「おすすめの本があります」と、私のところにときどきリストが送られてくる。過去にチェックしたり購入した記録から、自動的に機械が判断しておくってくるのだが、あるとき私が書いた本がそのリストのなかにあった。
 自分の書籍についてのレビューなどを見るときがあるので、これも自動的に送ってきたのだろう。“いい本がありますよ”と言われて、見たら自分のものだった。「なめてんのか」と言いたくなるのはまだ相手に血が通っていると思ったりするからか。
 どんなものにも利点と欠点がある。便利なものにはその裏返しがある。人間ができることを機械に代替させるのはある程度いいが、人間味を出そうとすると妙なことになるのかもしれない。