Archive for the ‘Others’ Category

窓ガラスの汚れ、ピースとハイライト  2015年元旦

金曜日, 1月 2nd, 2015
fuji015

元旦、茅ケ崎市西浜海岸からみる富士山(09:55)

 

大晦日に自宅のガラス窓を拭いた。最初に外側から布で拭いて汚れをとる。つぎに内側から汚れを拭き取る。それでもよく見るとまだ汚れている。外から拭くと、あれ?汚れが落ちない! 汚れているのは内側なのか。いや、やっぱり外側か。

ガラスの汚れの原因が内か外かを見極めるのは実にむずかしい。ふと、これは人と人との議論や意見の違いと似ていると気づいた。ぶつかり合ったとき、互いにその原因は相手にあると考えて、自分が正しいと主張する。だが、ガラス窓の汚れの原因がどちらの側にあるのかわからないように、誤りは自分の側にあるかもしれないのだ。

自己の正当性を声高に主張する、つまり自分の側のガラスは汚れていないと言い張る議論がここ数年際立っているような気がする。

この夜、NHK紅白歌合戦で、久しぶりに登場したサザンオールスターズ。桑田佳祐の歌う「ピースとハイライト」の歌詞が意味深だ。

♪ 今までどんなに対話(はな)しても
それぞれの主張は変わらない。

♪ いろんな事情があるけれど
知ろうよ互いのイイところ

自分の主張の正しさを譲らずに、意見を戦わせる。いくら対話をしても主張は変わらない。でも、違いをみとめて、相手がなぜそういうことをいうのか、相手の事情やいいところも理解しようとしてみたらろうだろう。そんな気持ちをやさしく訴える。
理想主義と言えばそれまでだが、いつからか、理想を掲げる人を「甘っちょろい」とか、「現実を見ていない」と、見下すような風潮がある。確かに理想だけを標榜して、それに至る現実的なプロセスを考えない意見は弱い。しかし、問題に対峙した時、理想のない対応策は、力のない淋しい現実主義とはいえないだろうか。

桑田は、ポップなメロディーにのせて時々、社会的な言葉をのせる。音楽のもつ力を発揮して、わかりやすい言葉で理想を語る。人々にまずは互いを知り合うようにと。切なく、セクシーな言葉とメロディーが真髄のサザンには、こういうサウンドもあるのだ。
ますます世の中は、自分と意見の異なる世界へ不寛容になっている。もう一度原点に立ち返って腹を割って語り合ってみようというサザンのメッセージは、この時代に意味が深い。嫌いなやつや意見が合わないやつはいる。でも、どうして相手はそう考えるのか、まずは考えてみたらどうだろう。
ガラスの汚れから桑田の歌へ。そして明けて2015年。ガラスの汚れを落とすように、対立は時折立場をかえて原因を探ってみたいものだ。(敬称略)

負けるなローラ :池に落ちた犬に石を投げる社会

水曜日, 10月 29th, 2014

タレントのローラに同情する。バングラデシュ国籍の父親が詐欺の疑いで逮捕されたことで彼女は「本当に申し訳ありません」と謝罪した。
父親の不始末をなぜ娘が謝る必要があるのだろうか。出来の悪い父親をもったことは彼女のにとって不幸で、彼女はむしろ被害者だ。自分がひどい目に遭っているのに、自分のせいでないことに頭を下げなくてはいけない。そしてそれを当たり前のことのように思っている世間がある。

犯罪者の家族は、なぜ責任を感じる必要があるのだろうか。たとえば、秋葉原の無差別殺人のKの弟は自殺した。弟が兄の人格に人殺しをするまでの悪影響を与えたわけはない。こうした兄を持った弟はむしろ被害者である。それが自殺に追い込まれる。

佐世保の同級生を殺害した少女の父親もまた自殺した。父としての責任と苦しみから逃れられなかったのか。この場合、彼女を一人暮らしさせていたとかいろいろ責任を問われる報道があった。
責任がないわけはない。しかし、殺人を犯すまでのことを予想できただろうか。親の教育責任という点では、世の中虐待を含めてひどい親は腐るほどいる。その子供たちが凶悪な犯罪を犯すとは限らない。
自殺した父親に対して、「責任逃れ」という批判の声が上がった。確かにそうかもしれないが、死に至る苦しみなど顧みられることはない。
近しい人間の罪と自死との関係という点では、STAP細胞研究の笹井芳樹教授の事件も同種だ。責任の重みに耐えられず自殺したのか。彼は自殺に追い込まれるほどひどいことをしたのだろうか。中学生の息子に暴力をつづけ自殺に追いやった父親が逮捕された。自殺してしかるべきはこういう人間だが、こういう人間に限って自殺などしない。

この世には犯罪者の家族は数えきれないほどいる。責任を負う必要もないのに責任を感じ、後ろめたい思いで暮らす人がどれほどいることか。それは運が悪かったということなのか。彼らの多くもまた被害者である。

それを世間は、池に落ちた犬に石を投げつけるような態度にでる。冷たい社会ではないか。

Ross MacDnaldの言葉③~「動く標的」から

木曜日, 4月 3rd, 2014

 ロス・マクドナルドの作品のなかで、最初に映画化されたのが「動く標的(The Moving Target)」だ。1966年に公開されたこの映画では、主人公、リュウ・アーチャーをポール・ニューマンが演じている。

 映画は、原作から想像されるアーチャー像との違いに違和感はあるが、舞台の南カリフォルニアの風土や生活様式などはこういうものかとリアルにつたわってくるのも確かだ。

動く標的①

 映画の話は別の機会に書くとして、この作品はリュウ・アーチャーが登場する長編シリーズの第一作である。久しぶりに66年初版の創元推理文庫(井上一夫訳)を読んでみると、アーチャーが若く、行動的でタフでハードボイルド色が濃いことに驚いた。

 一読者としてアーチャーのプロフィールが改めてよくわかった。彼はこのとき36歳で6月2日生まれの双子座。なぜ、警察をやめて探偵になったのか、どうして探偵のような仕事についたのかがわかる。

 失踪した実業家の夫の捜索を依頼された彼は、依頼人の娘を車に同乗させながら、彼女と交わす会話のなかで、自分について語る。霧が晴れて青空が広がるカリフォルニアの丘陵を走る。無鉄砲で魅力的なこの娘とこんな会話がある。


「アーチャー何に追っかけられているの?」 彼女がからかうような調子でいった。
(略)
「ちょっとしたスリルが好きなんだ。自分で制御できる、馴化された危険というやつだね。自分の命はこの手で握っているんだぞという、力を握ったような感じを与えてくれるし、そいつは決して失わないということもわかっている」
(略)
「それで、きみはどうしてそんなにつっ走ったんだね」
「退屈したときにとばすのよ。自分をだますようにしてね。なにか新しいものに出くわすぞと思わせるのよ。むき出しの光り輝いている、路上の動く標的とでもいうようなものよ」

 このあとアーチャーは、あまり度が過ぎるとひどい目に遭うぞと威かす。すると彼女は気にもせず訊いてくる。アーチャーが切り返す。

「男の人って、みんなヴィクトリア時代の遺物みたいなところがあるのね。あなたも、女は家庭にいるべきだと思っているの?」
「わたしのうちにはいないほうがいいと思うね」

 妻に愛想をつかされて離婚したアーチャーらしい。女性は家にいるべきか、どうか。もっともらしい“問い”は、いつしか定型化する。しかし、そもそも“問い”自体がおかしいこともある。「いるべきかどうか」より「いたほうがいいか、いなほうがいいのか」、さらにいえば、「わたしと一緒にいたほうがいいのかどうか」                                  ※

 この文庫本を電車で立って読んでいたら、向かいで座っていた娘がときどき本の方を見上げる。文庫本の表紙のカバーは、映画化されたときのポール・ニューマンの古い写真だったので、それが気になっていたのか。しかし、電車を降りた後しばらくして本を広げてみて気がついた、裏表紙は艶めかしい女の写真

ミランダ

だった。

 これも映画のなかからのカットのようで、アーチャーと会話を弾ませたミランダ・サンプスンの姿態だ。演じたのはPamela Tiffin。60年代風に髪を盛り上げ、胸のあたりがV字のメッシュになっている黒い水着らしきものを着ている。あー、おそらくこれだ。いまどきみかけないこのファッションに“なんだろあれ”と、怪しげに思ったのだろう。

 

 

 波と富士

木曜日, 1月 2nd, 2014

正月2日の、西浜。 茅ヶ崎漁港西。

 

ある朝の「人身事故」

木曜日, 11月 28th, 2013

朝の通勤時間帯、駅近くのコーヒーショップには、オーダーのため人が列を作っている。都心に向かう電車が、人身事故のため止まっていて、当分動きそうもないため、しばらく様子を見ようと、あきらめてきた人たちだ。

ちょうど、電車が駅で停車したときアナウンスを聞いた私は、即座に降りてこのコーヒーショップをみつけた。よくあるチェーン店の一つだ。

まだ十分席が空いていたので、4人がけのテーブルについた。どうせみんな一人ずつだろう。着席してから30分近く経っているが、いまだに人が並んでいる。店内はほとんどいっぱいだ。

中年の女性がトレーをもって席を探していたので、「どうぞ」と、相席をすすめた。「ありがとうございます」と、彼女は席について、モーニングセットを食べ始めた。

多くの人がそれぞれスマホを見ている。なかには私のようにPCを立ち上げている人もいるが、圧倒的にスマホだ。向かいの女性もスマホをいじりはじめた。見回すと、新聞を読んでいる人はだれもいない。もちろん店には置いていない。
本を開いている人もどうやらいない。年齢は20代、30代が中心だろうか。男女は半分ずつくらい。

こういうとき、もし田舎の駅の待合室だったら、いろいろ話しかけてくる人がいたりするのだろう。知らない人同士でも、こんなところからちょっとした人間関係や男女の出会いが生まれないとも限らない。

後ろに座っていた若い男性が、注文したサンドイッチをもって店員の若い女性に話している。虫かゴミがついていたのか、店員が「あー、すいません」と言ってそのサンドイッチを持っていった。

隣にいた若い女性の所に、男がやってきて合流した。職場の仲間か。まだ途中までしか動いていないという。私鉄に乗り換えていくかを相談をしている。

目の前の女性が、席を立った、でかけるようだ。なにかこちらに挨拶するのかな、と思っていると、「どうもありがとうございます」と、おじぎをした。「あ、どうも、行ってらっしゃい」と、小さな声で、PCに向かったまま返した。

すでに40分を過ぎたがまだオーダーの列は続いている。ネット調べると、9時まではストップ。つまりあと20分くらいしないと再開しないようだ。

今度見回すと2人本を読んでいる人がいる。そういえば、フロリダの友人、ベテラン記者のノーランが言っていた。「インターンで来た若い女性が、紙の本を最後に読んだのは、2年前だって」。

50分後、ようやく並ぶ人が少なくなってきた。通常の形にもどったのか。この日、店の売り上げはぐっと伸びたことだろう。困る人がいれば喜ぶ人もいる。世の中、完全に悪いことなどない、そして良いこともない。

「喫煙は満員です!」。店員が業務報告の声をあげた。席数の少ない喫煙席は満員。かなり煙いだろう。そういえば、先日駅構内のコーヒーショップで、喫煙席しか空いてなく仕方なく入った。待ち合わせをした人が喫煙でもいいというので我慢した。
しかし、1時間以上いたら、息苦しくなった。臭いもすごい。喫煙が満席。阿片窟のようなものだ。

ウェブ上の運航情報の案内によると、8時40分頃に運転を再開したという。ようやく動き出していた。それから30分ほどして私は席を立った。

※   ※   ※

ホームで電車を待っていて、「人身事故」について考えた。人が巻き込まれた事故だが、たいていは自殺だ。とても悲惨で現場は凄惨なありさまに違いない。でも、「だれかがホーから飛び込んだ」などとはいわない。コーヒーショップの人たちも、人身事故に遭った人、あるいは自ら事故を起こした人のことなど想像することもないのだろう。
「人身事故」といわれれば、仕方ないと、コーヒーショップに避難するだけになってしまった。

Ross MacDonald(ロス・マクドナルド)の言葉①

月曜日, 10月 28th, 2013

この夏から、ロス・マクドナルド(Ross Macdonald)を再び読み直してみた。作品によっては3度目になるものもある。ハード・ボイルド・ミステリーとして、ただでさえ込み入ったストーリーの彼の作品は、2度目に読んでもほとんど既読の感がない。
「南カリフォルニアをこんなふうに描いた作家はいなかった」と、批評された彼の世界は、青い空と光り輝くビーチと海のカリフォルニアを舞台に、心に闇を抱えた人たちが織りなす仕方のない哀しさを描く。
主人公、リュウ・アーチャー(Lew Archer)は、事件を追う中でその人たちの心と生活のなかに入り込み、やがて出てくる。彼は深く思い、考え、そして訊ねる。ロス・マクドナルドがアーチャーに語らせる言葉には、この世と人間に対する真実がこめられはっとさせられることがある。
また、アーチャーの目と心を通して描かれるカリフォルニアとアメリカは、光がつくる陰がつきまとっている。
陰を見たがらない人、無視しようとする人、それに気がつかない人には、知ることがない陰=真実を明かす。辛くても哀しくても「本当のことなのだ」、と目をそらさない人がアーチャーとマクドナルドに惹かれるのだろう。

「ドルの向こう側」(The Far Side of The Dollar 1965年、菊池光訳)の最後にこんなくだりがある。一連の殺しの真犯人としてリュー・アーチャーに追い詰められたミセス・ヒルマンが、逮捕前に自害させる機会を与えて欲しいとアーチャーに頼む。しかし彼は「間もなく、警察が来る」と、それを断る。

彼女は言う。
「きびしい人ね」
アーチャーが応える。
「きびしいのは、私ではないのです、ミセス・ヒルマン。現実が追いついたのにすぎないのです」

この先、ときどきリュウ・アーチャーの言葉を紹介していきたい。

汚れた心と国益

土曜日, 8月 25th, 2012

 太平洋戦が終わる前後、戦争の混乱に輪をかけてさまざまな悲劇が起きた。敵に殺されるならと自害した人もいる。与論島から満州に入植した一団のなかでは、ソ連の侵攻でパニックになったある若者が同郷の子女を自ら手にかけてしまった。

 いままで信じていたものが180度変わってしまったこともあり、社会も人々の心も大きく動揺する。それでも現実を突きつけられれば前に進むしかないが、終戦を遠く日本を離れて迎えた人たちは情報不足や置かれた立場(移民など)によって日本にいる日本人とはまた違った複雑さがあったろう。

 いま公開されている映画「汚れた心」は、ブラジルに移民した日本人のあるコミュニティーのなかの悲劇を描いている。終戦を迎えてもなお日本が負けるはずがないと狂信的に思い込む“勝ち組”と呼ばれたグループが、負けを自覚する“負け組”を国賊として攻撃する。

 本当は心のどこかでおかしいと感じつつも、皇国の不敗神話に縛られて狂気に走る主人公。それを苦しみつつ見守るしかない妻。日本人同士のなかでまた血が流れる。実際に戦後のブラジル日本人移民社会で数多くの事件があったという。

 情報から隔離され、事実に目をそらし神話を妄信する。それは不安の裏返しでもあるのだが、そこにつけ込むように訴えるカリスマ的な人物による扇動がある。
 不安なときの人の心は弱く、こうした扇動になびいていく。そして、冷静に対応するような言動を弱虫となじり、同胞の中に敵を作っていく。

 いまの日本でも、似たようなムードはなにかことあるごとに頭をもたげる。個人的な国家観の表出にすぎないものを“国益”などと安易に呼び、「わが国の国益とはなにかを考えないといけない」などという言葉は要注意だ。

 先の戦争はもちろんのこと、原発計画も沖縄の基地も国益の名の下であったことだけいえば十分だろう。そんなことを考えさせられた映画だった。  

ただの酒屋よ!

金曜日, 8月 17th, 2012

 ちょっと少し黙っていてくれないか―。オリンピックの男子サッカーの試合を見ていて、実況中継があまりに能弁なので、思わず口に出してしまった。サッカーに限らず、とにかく競技の最中にアナウンサーは、ひっきりなしに話している。

 競技の内容を追って、ときどき選手のバックグランドなどを織り込むのならいいが、中継を盛り上げたいのか、感情的な言葉や精神論をゲームの進行中にあれこれ言われると鬱陶しい。

「下を向いているときではありません」とか「ようやく見えてきたメダルに向かって・・・」といったようなことを延々と話している。 

 テレビをはじめマスコミの宿命なのか、とにかく盛り上げようという意図が強すぎはしないか。仕掛けたい気持ちはわかるが、みんながほんとうはそれほど感動したり盛り上がっていないのに、過剰に盛りたてるのは痛々しい。アンデルセン童話の「裸の王様」のようだ。ほとんどの人が嘘だとわかっていても煽動者にうまくのせられ、真実を口に出せない。

 そんな作られた感動の嘘くささに見事に冷や水を浴びせた例を最近テレビで見て、痛快だった。演出=フィクションを砕く事実=ノンフィクションの心地よさといってもいい。それはあるニュース番組で取り上げられた宅配酒屋チェーンの「カクヤス」についてレポートのなかにあった。

 24時間、缶ビール一本から配達するというカクヤスの店舗なかで、ゲイバーが多く深夜までににぎわう新宿二丁目の実情を番組は伝えていた。配達の若い男性がちょっとバーでからかわれたりするといったお話やバーの“ママ”のコメントも紹介されていて、いかにこの地域でカクヤスが重宝されているかがわかった。

 そしてレポートの最後で、別のゲイバーのママを訪ねたレポーターがママにマイクを向けた。話題の酒屋チェーンがなるほど人気がある、ということを再度視聴者に知らせ、盛り上げて番組をしめようとして尋ねたのだろう。

「あなたにとって、カクヤスさんとはどんな存在ですか」。確かそんなことをきいた。するとママである彼は、一瞬「ン?」という感じで間を置いてちょっとぶっきらぼうにこう言った。
「ただの酒屋よ」

 これには笑った。だからこの手のママはいい。こちらの勝手な想像だが、いろいろな偏見にさらされても自分のスタイルを通してきた者が持つ、体制に媚びない率直さがあるからこういう言い方ができるのだろう。
 あえて尋ねる側の期待をはずしてシニカルに構えることの“受けねらい”もあるだろうが、相手に迎合して本意でもない答えをしない、本音の気持ちよさがある。

 レポーターとしては「(カクヤスは)水や空気と同じ、なくてはならない存在よ!」とでも、期待したのだろうか。でも冷静に考えれば、互いに商売。「ただの酒屋」である。この言葉、「うちもただのゲイバー」という、奥に自負を秘めた謙虚な姿勢もうかがい知るからまたいいのだ。(川井龍介)
 

青森、122対0 の青春

木曜日, 7月 12th, 2012

 今年もまたこの時期青森にやって来た。夏の高校野球、青森大会で県立木造高校深浦校舎という小さな学校の野球部の試合を取材するのが目的だ。
 いまから14年前、深浦校舎はまだ分校ではなく、深浦高校として独立していたが、その野球部は、夏の大会で、名門東奥義塾と対戦し「122対0」という前代未聞のスコアで敗れた。

 なぜこんな結果になったのか。そこから野球部はどう立ち直ったのか、それらを地域の実情などとあわせて、私はノンフィクションとしてまとめた(「122対0の青春:講談社文庫)。

 それ以来、ほぼ毎年のように夏の彼らの奮闘ぶりを観戦してきた。その途中で学校は分校化され存続が危ぶまれほど生徒数は減少、現在は全校生徒数が74人だ。しかし野球部は指導者にも恵まれ、このところ強豪でないかぎり一勝をものにするまでに成長した。
                              

 日本海側、秋田県と接する西津軽の深浦町から、およそ二時間半をかけて、2台のワゴン車を指導の先生自ら運転して、今年は12人の部員たちを大会会場の青森市営球場まで連れてきた。
 この春入部した1年生も含めて、相変わらずここの生徒たちは、別の学校から赴任する先生が驚くほど純朴である。開会式を終えた彼らは、外野席で開幕試合を観戦しに行ったが、他校の野球部が大人数で芝生に腰を下ろしていたのに対して、ほとんどが後ろのフェンスにもたれて立っていた。遠慮していたのだろうか。

 だが、見た目と中身とはずいぶんちがう。素朴で静かで、ときに頼りなげではあるが、どこか芯の強さのようなものがあることを、長年見ていてわかる。それは練習のたまものかもしれないが、都市部の生徒が日頃経験しないような真冬の横殴りの雪のなかの通学や、決して豊とは言えない地域の生活のなかで育まれてきたもののような気がする。

 11日の大会開会式のあと、大会本部で14年前の試合を観戦していたある野球部の元監督と当時の試合についてあれこれ話をした。この試合で青森大会の多くの記録が生まれた。一つあげれば11打数連続安打がある。
 攻めた方もよく攻め続けたが、同様に守る方もよく最後まで守った。
「都市部の生徒だったら、とても最後まで続けなかったと思う。私が監督だったチームでも無理だったと思いますよ」
 元監督は、そう言って眼を細めた。         

誤った「理解」

木曜日, 5月 17th, 2012

 人はなかなかわかり合えない。人間は歳をとってもあまり進歩しない。ちかごろ常々そう思う。

 だから、ある本のなかで紹介されていた哲学者ヘーゲル(1770~1831)の言葉に出合ったときは“深い”と膝をたたいた。
 ヘーゲルの言葉といえば、「理性的なものは現実的である。現実的なものは理性的である」などが有名だが、こんな意味深なことも言っていたのだ。
 曰く、
「わたしのすべての弟子のうちで、たったひとりだけがわたしを理解した。そして、そのひとりは、わたしを間違って理解した」

 間違った理解も理解のうちなのか。わかるとはなんなのだろう。