Archive for 6月, 2012

時計台とNo-No Boy

木曜日, 6月 21st, 2012

 最初にその時計台を見たのは1986年の夏だった。以来、シアトルの街を訪れるたびにその塔を目にするとなぜかほっとする。King Street Station という駅舎の上に建てられたこの街のシンボルは、1906年以来周囲が変わろうと孤高の存在を示してきた。

 時計台の東には、戦前は日系移民がつくりあげた日本人町が賑わいをみせた。が、それも昔のこと。戦後は日本人町は姿を消し、近くにはInternational District と呼ばれるようになった、中華街や日本食のスーパー「Uwajimaya」が東洋的な雰囲気の一画を形成している。
 この時計台から歩いて数分、坂道を登ったところに「Panama Hotel」というかつて日本人が経営した古いホテルがある。一階がカフェになっているのだが、ここにはずいぶん前からシアトルでの日系移民の足跡を知る、写真やかつての移民の所持品などがなどが展示されている。

 このホテルは、昨年、日本でも翻訳が出版された小説「Hotel on the Corner of Bitter and Sweet」を象徴する場所になったことで、いまではさまざまな人が訪れるようになったようだ。日本では「あの日、パナマホテルで」と題したストーリーは、太平洋戦争を挟んでの、日系アメリカ人の少女と中国系アメリカ人の少年との切ない恋の行方を描いている。

 カフェに入ると、これまで何度か話をしたことがある白人女性のオーナーが、「ロジャー・シモムラが来ているわよ」と、ひとりぽつんとノートPCに背を向けている彼のところに案内してくれた。日系2世の画家で、大学でも教鞭をとった有名人である彼は、日系人としての立場から作品を発表し、発言をしている。
 私は、日系2世としてたった一冊の小説を残したシアトル生まれのジョン・オカダと彼の作品「No-No Boy」についてこの10年くらい調べていることを話した。

 ジョンの兄弟であるフランク・オカダと親しかった彼は、興味深く私の話を聞いてくれて、「ジョンは非常にミステリアスだ」と静かに言った。40代で亡くなったジョンのことを知る人がいまはもうなく、別れ際に「何かわかったことがあったら連絡しますよ」と、私の名刺を受け取ってくれた。

 一部実話を元にしたと思われる小説、「No-No Boy」の中心舞台は、時計台のすぐ近く、かつての日本人町周辺だった。この町を彷徨いながら主人公のイチローは、「日系人である自分は、いったい何者なのだと」と、心の叫びを繰り返す。私は何者で、どう生きるべきか。イチローの問いはいつの時代の若者も抱える普遍的な苦悩でもあった。

 いまはもう日系2世と言われる人がほとんどいなくなった。歴史の証人が消えていく。訊けるものならあの時計台に訊いてみたいものだ。

写真結婚とシアトルの眠れぬ夜

火曜日, 6月 19th, 2012

 シアトルからフェリーで40分ほど、穏やかな内海を走りベインブリッジ・アイランド(Bainbridge Island)に到着する。出迎えてくれた竹村義明さんの車に乗って、日系人ゆかりの地を案内してもらい、その後、彼が集めた日系移民一世などに関する私設の資料館を見せてもらった。 
 竹村さんは1956年に西本願寺が海外に布教のために送った「開教使」として渡米、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンなどで、日本から移民した人たちや日系人と関わってきた。水辺に建つ高台の自宅は、西を向き、その遙か向こうは日本へとつづくという。(★写真)周囲からは鳥のさえずる声くらいしか聞こえない。

 さまざまな資料のなかかに明治、大正時代に渡米してきた日本人が携えていた「日本帝国海外旅券」があった。当時のパスポートである。2枚の旅券はある夫婦のものであり、その発行の日付から最初に夫が渡米し、つづいて妻が渡米したことを物語っていた。
 そして、この二人が“写真結婚”であることが裏面に記載された「Photo Marriage」という英語からわかった。当時、日本人移民のなかでしばしば行われていた結婚の形である。互いに相手の写真だけを見て結婚を決めていたが、なかには実際とはずいぶんと違った写真を見せられ困惑した例もあったようだ。

 異国の地へ単身赴く。それも会ったこともない人のところへ嫁ぐという人生の選択をした、あるいはせざるを得なかったこうした女性たちは、当時何を思っていたのだろうか。いや、ほとんどの人があれこれ思う間もなく、ただひたすら働き生活していくしかなかったのかもしれない。
 仮に生活に嫌気がさして別れたくても、別れられるような状況にはなかっただろう。しかし、そうした苦労のうえに築かれた家族と生活が今日の日系アメリカ人の土台になっている。ある調査によれば、アメリカの日系人は現在もっとも恵まれた状況にあるという。

 当時アメリカでは、この写真結婚が非人間的だと批判されたことがある。当然だろう。できれば実際に相手を確かめて、そして家庭の事情などではなくて自由意志で結婚するのがいいのに決まっている。しかし、自由に選択した結果が必ずしもうまくいかないことは、日本でもアメリカでも現代の離婚事情が示している。

 大きな制約のなかで強いられる努力の結果が、ときに自由な意志に基づく行為の結果より勝っていたことがあるのは皮肉なものだ。まだ日本を発って2日目の夜中、時差ぼけで眠れぬシアトルのホテルで、写真結婚の事実からそんなことに思い至った。 

防犯カメラと三面鏡

土曜日, 6月 16th, 2012

 地下鉄サリン事件などで手配されていた容疑者の逮捕までの過程で、防犯カメラの存在がずいぶんと話題になった。カメラは、ふだんは気がつかない都市部のさまざまところに設置され、われわれは、しばしばカメラで正面から、そして後ろからと、いろいろな角度でとらえられている。

 もし、自分が映ったその映像(画像)を見せてもらったら、「へぇー、俺ってこんな感じで動き回っているんだ」とか、「私の歩き方は後ろから見るとこんななの?」といった新鮮な驚きがあるだろう。
 日頃自分が向き合う自分は、たいていは正面からみた鏡の中の姿だ。一方向からの平べったい自分でしかない。
 しかし、かつての日本人、特に女性は三面鏡で自分の後ろ姿や横からの姿を眺めていた。あるいはアップにした髪や襟足などを手鏡をつかって気にしていた。
 こんな話を床屋でしていたら、
「そうですね、女の人でももう少し襟足をきれいにした方がいいんじゃないかなって思う人がたまにいますね」
 と、それほど自慢できる後ろ姿ではない床屋の店長がいう。

 電車にのれば、相変わらず他人の前で化粧をしている女性をよく目にする。先日、東海道線の電車に乗っていると、ボックスシートの女性が周りを人で囲まれているなかで化粧をはじめた。すぐ近くで立っていたので嫌でも目に入ってくる。

 なにやら頬に塗っているようだったが、そのうち口の前を片手で隠して、もう一方の手に何かを持って、少し顔をゆがめている。これを繰り返している。なぜ化粧で顔がゆがむのかとおもっていると、毛を抜いていたのだった。目の前では初老の男性が文庫本を読んでいる。彼もいたたまれない気持ちだったろう。ここまでくると、露出狂から受ける被害に近い。

 彼女は30歳前後の普通のOLに見える。他人によく見られたいと思って化粧というものはするはずだが。それとも、ただの自己満足のためか、彼氏や彼女など特定の人のためなのだろうか。

 いま三面鏡のある家はどのくらいあるのだろう。他人を見る目は厳しく多角的になっている。その一方で自分を見る目は単純で、薄っぺらな自分しかとらえていない。 彼女を見ていた私もそういう目だったのかもしれない。

海の家から金魚売りまで

木曜日, 6月 14th, 2012

 地元の海岸を散歩すると、海水浴場で“海の家”の建築がはじまっていた。梅雨のどんよりした空の下で、骨組みをあらわした家の向こうで海に浮かぶサーファーの姿が見える。

 だれがどういう権利で海の家というのは成り立っているのかという疑問はあるが、できてみれば短い夏の風情として親しまれる。

 昨年は「3.11」の影響で、控え気味だった営業も今年はそれなりの客入りをねらい力が入っているという。この小さな海水浴場で昨夏、「海の家でラーメンでも食べようか」と、出かけていき、昔ながらのさっぱりしたラーメンを注文した。そして、まずはその前に冷えた水をガラスのコップでぐいっといきたいところだった。

 ところが、ただの水はないという。自販機で買わなくてはならないそうだ。なんとなく釈然としないままラーメンだけを食べて帰った。
 家で昔の海の話をしていて、「そういえば昔は風鈴を売りに来る人がいたわね」という話しになった。「そう、金魚売りもいた。“きんぎょえー、きんぎょー”ってね」。エアコンはなかったけれど、こういう涼しげな風物があった。
 風鈴売りも金魚売りもいつごろから姿を消したのだろうか。 

深夜の悩みとラジオデイズ

日曜日, 6月 10th, 2012

 ラジオの深夜放送全盛時代、ティーンエイジャーはラジオのディスクジョッキー(DJ)に対して、はがきを書いたり、電話でラジオでながす曲をリクエストした。そして人気のDJには“人生相談”、“悩みの相談”をもちかけたりした。
 DJはこれらに真摯に答え、ラジオの前の同世代の男女は、深夜でなければ考えられないようなシリアスな話しに耳を傾けていた。今は亡き、野沢那智、土居まさるなど、いろいろなDJがはがきを読み上げ、結構真剣にリスナーに語りかけていた。

 こういうDJのなかで一人だけ絶対にこうした相談事にかかわらない人がいた。もっとも年齢の高い、糸居五郎だ。「ゴーゴーゴー、イトイゴロー、ゴーズオン」という決まり文句で、流行音楽とは一線を画して、独自な選曲でファンキーな曲を流していた。音楽について職人気質の人だった。

 彼が亡くなってからあるテレビ番組彼のことを特集していた。その中で印象的だったのが、彼が若者からの人生相談などを一切受けなかった理由である。正確には忘れたがこんなことを言っていた。
「だって、リスナーにとって私はラジオの向こうのただの他人ですよ、その私になにがこたえられます?」

 彼がいなくなってから30年近くたつが、いまの若い人は、いや年配者もか、誰かとつながりをもちたくてしかたがないようで、フェイスブックなどでネットワークを広げている。そして、さまざまなネット上の掲示板で悩みをこぼしあい、どこの誰かわからない人に答えを求めている。

 当時に比べれば格段に相談する手段や相手は増えた。今夜もどこかの誰かが、どこの誰ともわからない人に人生の悩みを打ち明けている。無責任ゆえに気軽に、明日になったら忘れるような問いと答えがネット上を行き交っている。 

スカイマークと公共性

木曜日, 6月 7th, 2012

 安全上のトラブルが相次いだ航空会社スカイマークの顧客対応が話題になった。

「機内での苦情は一切受け付けません。ご理解いただけないお客様には定時運航順守のため退出いただきます。ご不満のあるお客様は『スカイマークお客様相談センター』あるいは『消費生活センター』等に連絡されますようお願いいたします」と明記した文書を機内で顧客向けに置いていた。
 サービスの質も金次第という精神の極みのようだ。商売上のポリシーなのだろうが、常識のなさを露呈したのが、消費生活センターへ苦情の矛先を振り分けたことだ。

 お客に自分の店のトイレはつかわせず、となりの公衆トイレをつかってくれと言っているレストランのようなものだ。
 公共に対する認識が著しく欠如していて恥ずかしい。それでいて常識はなくても消費生活センターの存在を知っているところがずる賢さを示している。これに対して同センターはスカイマークに抗議、同社も謝罪して関係文書を回収したという。
 
 公的機関は広く誰のものでもあるが、個人のためにあるわけではない。図書館はみんなのものだが、だからといって借りた本に書き込みなどはしてはいけない。自分のものでありみんなのものであるものについては、自分だけのものより丁寧に扱うことで公共社会は質が高くなる。
 

小さな靴が片方落ちたとき

月曜日, 6月 4th, 2012

 偶然だが、ここ数ヵ月で子連れの若い母親に3度同じことで、手助けをしたことがある。いずれも駅のホームか構内でのこと。抱きかかえている小さな子供の履いていた靴が、片方脱げて下に落ちてしまった。そこに居合わせたので、手のひらにおさまるほどの靴を拾って、子供に履かせてあげた。

 母親たちは小さな子を抱きかかえていると同時に、オムツとかいろいろ詰め込んだ大きなバッグを持ち歩いている。おまけにもう一人お兄ちゃんやお姉ちゃんを連れているときがある。これでは靴が落ちても戸惑うばかりですぐには拾えないのだ。私だけでこれだけ遭遇しているので、世の中あちこちで小さな靴はよく落ちるのだろう。

 子供の靴ということで思い出したのは、ブラジル生まれの洒落たポップス、ボサノヴァを創った一人、作曲家でピアニストのアントニオ・カルロス・ジョビン(Antonio Carlos Jobim)について実妹が著した「アントニオ・カルロス・ジョビン―ボサノヴァを創った男」(エレーナ ジョビン著、青土社)。

 このなかに決断力のある毅然とした彼の祖母にまつわるエピソードがある。彼女にまだ小さな子供がいたころ。リオ・デジャネイロの路面電車に子供連れでのっていたとき、子供の一人が足を揺すっていて片方の靴を電車の外に飛ばして舗道の上に落としてしまった。
 そのとき、彼女はとっさに屈み込んで、子供のもう一方の靴を脱がせてすぐにそれを舗道の上に投げた。どうしてそんなことをするの、と聞かれた彼女は、「こうすれば、あの靴を拾った人がちゃんと靴をはけるでしょ」と言った。

 靴を落としたことを嘆いていないで、すぐにその困難な状況のなかでも最善の策を見つける。片方失うだけならただの損失だが、二つ失えば誰かの役に立つ。この話のすごいところは、自分にとっては損失でも、誰かの利益になればよかったと思えるところか。これをとっさに判断する、なかなかできないことだ。

Robin Gibb, The Bee Gees が逝く

土曜日, 6月 2nd, 2012

  ビージーズ(The Bee Gees)のロビン・ギブ(Robin Gib)が亡くなった。62歳だったという。3兄弟で構成されるビージーズのなかで、初期には彼がメインのボーカルをつとめていた。
 ビブラートがきかせた高音。繊細な歌い方で、叙情的なメロディを表現した。
 I Started A Joke という歌。震えるような声で、耳に手を当てて歌っていたのが印象的だった。

 70年代後半からのディスコブームのなか、彼らはそれまでのイメージを一新させ、ジョン・トラボルタ主演の映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックを歌い、世界的な大ヒットをとばした。その記録は84年のマイケル・ジャクソンの「スリラー」が塗り替えるまでつづいた。
 グルーヴ感溢れるこれらの歌は実に心地いい。しかし、はやり彼らの初期の作品に惹かれる。
 Feel I’m going back to Massachusetts
 とはじまる1967年の「マサチュセーッツ」。フラワームーヴメントの時代、西海岸に憧れて多くのアメリカの若者が向かった。この歌の中にも、「サンフランシスコまでヒッチハイクしようとした」という歌詞が出てくる。
 でも、心はマサチューセッツにあったのか。日本でこれほどマサチューセッツという地名を広めた歌はないだろう。郷愁を誘うメロディとストリングスの音。ここでもロビン声が揺れながら響く。
 ロビンの双子の兄、モーリスはすでに他界し、一番上の兄バリーだけが残った。
当時発売されたシングルのドーナツ盤(ポリドール、370円)で「マサチューセッツ」を聴いてみた。3分にも満たないが、懐かしく美しいメロディだ。