Archive for 9月, 2012

変わる人、まち、東京タワー

土曜日, 9月 29th, 2012

 ニューヨークで仕事をする古い友人が17年ぶりに日本に帰ってきたので、都心で昼食を共にすることになった。
「景気が悪いって言っているけど、思ったほど東京は変わってないね」。彼はそう言った。

 私の方は、都心に出るのは一ヵ月ぶりくらいで、その日は都内に泊まり、翌日港区麻布台の外交資料館へ調べ物に出かけた。
 閉館までいて外に出ると風が涼しく気持ちがいい。ぶらぶらと夕暮れ時を飯倉の交差点から神谷町の地下鉄駅まで歩くと、途中小路に入ったところで目の前にどーんと東京タワーを見上げることになった。

 なかなかいいバランスで、いかにもタワーと呼ぶに相応しい尖った二等辺三角形を形作っている。しかし、いつもこのタワーをみるとキングコングかゴジラがまつわりついている図柄が頭に浮かぶ。

 相変わらずなタワーに刺激されたのか、いろいろなものが懐かしくなり、その足で昔なじみの神田の飲み屋へ向かった。時々訪れたスポーツ用品店は、サーフィンからスノボーにメインが切り替わっている。飲み屋を訪ねるのは2ヵ月ぶりくらいだった。

 まだ早い時間一人お客がカウンターにいた。アロハを着た初老の男性だ。ビールを注文し、以前よくこの店で顔を合わせた常連さんの話になった。
「○○さんはよく来ますか?」
「ええ、でも今度いよいよ会社辞めることになったらしいですよ」

 どうやら早期退職のようだが、本人も望んでいたことなので、いまは退職後の計画を練っているらしい。南の方に移住するという話は以前から聞いていた。
「××ちゃんは?」。深夜の常連の女性についてたずねた。
「そうね、最近余り見かけないけど・・・」

 短い間の変化だが、なんとなく時の流れを感じた。そのうちカウンターの客が帰った。長年勤めた会社を辞め再就職先を探しているらしい。

 互いにへたくそながら店主とふたりでサーフィンの話になると、私も知る彼のサーフィン仲間が一人ガン治療のためしばらく海を離れたという。
「いつもインサイドで乗っているのが、アウトサイド(沖)にいるから、どうしたの今日はってきいたら、“最後だから今日はアウトから行くんだって言ってましたけどね」と、治療前の海での様子を、店主がやさしく語った。

 大きく見ればそれほど変わらない東京で、人の生活は日々変わり続けている。台風が近づいている。波は上がって海はクローズになる。   

密航船水安丸、移民、O.ヘンリー

月曜日, 9月 17th, 2012

 20世紀のはじめに、主に丹後半島からアメリカ南フロリダに、“農業開拓”のために入植した話を調べているのだが、当時の海外への入植、移住がどのような社会背景で実行されたのかがいまひとつピンと来ない。
 そこで専門家に尋ねようと、移民問題に詳しい知人の神田稔さんを頼ったところ、立命館大学の河原典史教授を紹介された。河原さんは近代の移住漁民について、特に朝鮮、台湾、そしてカナダに渡った日本人について、歴史地理学から研究されているという。

 まだメールでお尋ねしたばかりなのだが、河原さんから新田次郎著の「密航船水安丸」のことを教えていただいき、さっそく読んでみた。19世紀の終わりから20世紀にかけて宮城県からカナダのバンクーバーあたりに漁業移民としてわたった日本人の実話をもとにした物語だった。
 グループをつくって事業を始めた主人公が郷里に戻り、さらに仲間を募って事業を拡大しようと夢を膨らますところや、すでに移民して成功した話を聞いて、“よし自分も”と決意し、渡航する人たちの姿が描かれている。
 
 フロリダに入植した事例も、本書のようにリーダーがいて郷里へ戻って地縁、血縁で人材を募り、集団で渡航する。おそらく夢と理想に燃えて新天地へ足を踏み入れたのだろう。その辺りの事情があくまで推測だが、「密航船水安丸」から理解できた気がした。

 ところで、フロリダ入植のリーダーは酒井釀といって、入植計画を立てたときはニューヨーク大学に留学中だった。20世紀の初めのことだ。19世紀後半からニューヨークは産業、文化が花開き活況を呈し20世紀に入りさらに繁栄する。
 このころニューヨークには日本人の実業家や学者などによる社交倶楽部、日本倶楽部が誕生する。酒井釀も活気を帯びたマンハッタンのなかに学生として身を置き、実業家としての夢を膨らませていたようだ。

 彼の気持ちを推測する上でも、当時のニューヨークの様子について調べてみようと思うが、まったく別の目的でたまたま図書館で借りた「『最後の一葉』はこうして生まれた-O.ヘンリーの知られざる生涯」(齋藤昇著、角川学芸出版)が参考になった。

「最後の一葉」、「賢者の贈り物」など、ウィットとペーソスに満ちた珠玉の短編の数々を創作した作家、O.ヘンリーは、ちょうどこの時期にニューヨークで彼の代表作を書いている。
 ビジネスの華やかな成功譚も数多くあれば、貧しい移民やスラムの生活もあるニューヨークで、彼は人間を観察し、哀しく温かみある物語を読者に届けた。本書によれば、ニューヨークに来た当初、彼はユニオンスクエアのアパートに暮らしていたという。これは当時酒井譲が通った大学からそう遠くない。

 もしかしたらどこかで二人はすれ違っているかもしれない。想像を膨らませると、事実が物語として見えてくるから不思議だ。

靖国と「十九の春」

金曜日, 9月 7th, 2012

 沖縄県の八重山諸島の一つ西表島に戦時中日本軍が駐留していた。可能ならば当時そこにいた軍人を探しあてたい。そういう目的で恵比寿の防衛省・防衛研究所の資料閲覧室を訪ねた。
 戦時中沖縄に駐留する日本軍の概要をどうしらべるかここで教えてもらったが、個別の部隊についての具体的な情報を知りたければ靖国神社の“資料館”へ行った方がいいと言われ、翌日九段下の靖国神社へ足を運んだ。

 8月の終わり、参道はほとんど日影ができない陽射しのきつい午前11時ごろだった。境内に靖国会館という建物があり、その一階が靖国偕行文庫という資料館だった。館内で目的を告げると、担当の方が親切に沖縄の日本軍、そして石垣島を中心とする八重山の日本軍に関する資料や“戦友会”のリスト見せてくれた。

 西表にいた日本の軍人にたどりつくには、そこにどのような部隊がいたかを調べるのはあたりまえだが、実際その人たちの所在をつかむには、“戦友会”に頼るしかないのだ。しかし、どこの部隊にも戦友会があるわけではない。小さな部隊はある可能性が少ない。

  また、現在ある最新の名簿は10年ほど前のもので、部隊によってはその後連絡がつかなくなったことも十分考えられる。残念ながら西表にいたと特定できた部隊(船浮陸軍病院、第四遊撃隊第四中隊など)に限った戦友会などはみつからなかった。 
 仕方なく石垣島にいた部隊の一部や沖縄本島に配属されていた部隊の戦友会を調べて帰ってきた。

 なんのためにこんなことをしているかと言えば、「十九の春」という歌のルーツを探るためである。このルーツ探しを「『十九の春』を探して」(講談社)というノンフィクションにまとめたのが2007年。この時点では結局そのルーツはわからないままだった。
 調べてみればみるほどそれが雲をつかむようなことだとわかったが、出版後もルーツにつながるかもしれない情報を得たままで未調査のことが二つあった。その一つが、戦中に兵庫県尼崎の紡績工場で働いていた沖縄出身の若い女工がこのメロディーを歌っていたという事実だった。
 そしても一つが、西表島で日本の軍人が戦中にこのメロディーを歌っていたという事実である。もしそうだとしたら軍人はどこでこの歌を知ったのか、だれに教えてもらったのか。そういうことがわかるかもしれない、そう思って靖国へと向かったのだった。
 
 正直言って、戦友会を手がかりに少しでも前に進むのだろうかと心細い限りである。それでも試してみたくなるのは、ここまで調べてきた意地のようなものがあるからだが、それ以上に、実は調べる過程でいろいろな知的副産物があるからである。
 今回も日本の沖縄の日本軍についてある程度知ることができた。また、軍人の間で歌われている“軍歌”や“愛唱歌”についてものすごいコレクターがいることがわかった。

 元軍人はかなり高齢である。これからあまり時間を置かずに、沖縄にいた日本軍の戦友会にコンタクトをとってみようと思う。果たしてどれだけの元軍人に連絡がつくか。そしてあのメロディーを聴いたことがあったという人に出会うことがあるかどうか。