Archive for 2月, 2013

雪の室蘭、クラシックな心地よさ

金曜日, 2月 22nd, 2013

 雪も悪くなかった。室蘭の夜、さらさらと降る雪のなかを歩いていると、気持ちが落ち着いた。地元の方には申し訳ないが、昼間でも寂れた感のある旧市街。夜ともなれば、人気はまったくない。活気をつけようとしているのだろうが、通りに流れる音楽はかえって寂寥感を濃くする。

 減価償却をとっくに済ませたような商店のレトロな店構えが暗がりにうっすら見える。暗くなりポツン、ポツンと灯る明かりは居酒屋で、私はその一つを訪ねるために雪道に足を取られないようにゆっくりと歩いた。
 
 ごくまれにタクシーが静かに過ぎて行く。この町を初めて訪れた人なら、このあたりで居酒屋へ入ろうなどとは思わないだろう。私は何度かここへは来ているので、一般に古い鉄の町などと言われる室蘭の奥の深さと魅力の一端を知っている。


 確かに寂れてはいる。しかし、妙に落ち着くのだ。誤解を恐れずに言えば、少々古くて寂れているだけならどこにでもあるが、それも程度を超すとクラシックになる。存在に味が出てくる。
 新しい町や商店街のなかには、若いタレントが無理にはしゃいで場を盛り上げようとする不自然さや痛々しさがある。見た目はこぎれいでも、簡単なプラスチック模型のようだ。すぐに組み立てられるが、時を経ても味は出ない。

 近頃よく思うのは、新しいものはお金があればつくり出すことはできるけれど、古いものは新たにつくり出すことはできないということ。昔の写真や音楽など、過去の記録は今残っているものに頼るしかない。古いだけで宿る価値がある。
 街並みや家も同じだ。もちろんまったく古いままにしておくことはできないが、その風情をそのままに修正していくことはできるだろう。
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 目指す居酒屋の灯りを見つけ、一歩中に入ると外とはうってかわって賑わいがある。案内された奥の座敷には、かつて取材でお世話になった元室蘭市役所の方たちが顔を揃えて待っていてくれた。
         
 日本中がバブル経済で浮かれ、東京の地価が暴騰していたとき、この室蘭では地価が下がっていた。取り残された感があった。が、それを逆手にとって、市職員の有志がいっそのこと「土地を東京で売ろう」と発案、市の分譲地を都心で売るため上京し、チラシを配って宣伝した。
 その結果、高級車1台分で住宅地が購入できるところや、北海道の自然に惹かれ「室蘭に行ってみようか」と、現地視察を経て住みついた人もいる。それを取材したのを機に、何年かに一度室蘭を訪れることがあった。

 室蘭という地名は、アイヌの言葉で「小さな下り坂」を意味する「モ・ルエラニ」から来ているという。なるほどそのとおりまちには小さな坂があり、場所によってはそこから海が見える。明治になり国策として室蘭に製鉄所などができ、海沿いが一気に工場群と化したのだが、それ以前の古い室蘭の写真をみると、なんとも穏やかな光景が広がっていた。
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 久しぶりの再会で酒も進みテーブルを囲んでの熱い議論も飛び出し、実に楽しいひとときだった。店を出て解散となったが、まっすぐホテルに帰るのも惜しく、知っている近くのバーの戸を開けた。
 壁にギターが掛かりクラシックなロックが好きなマスターがいるはずだった。が、この時はマスターも客も誰もいない。「こんばんはー」と、声を響かせたが返事はなし。
 仕方なく外へ出て、歩き出すと小路に「地酒」と提灯が見える。暖簾をくぐると、看板に偽りなく、さまざまな地酒がリーズナブルな値でならぶ。熱燗を頼み、そのあとで佐渡の北雪という超辛口を一合飲んだ。しっかりしたお通しとあわせて二千円でおつりが来た。


 
 仕切り直しにと再びバーを訪ねると今度はマスターが立っていて、「すいません、ちょっとでていて」という。いい感じのルーズさだ。30分ほど話をすると、中年カップルが来てカラオケをはじめようとしたので、それを潮にホテルに戻った。

 古い町は雪に被われて一見すると眠っているようでも、実は小さな灯りの奥には息づかいがある。それを魅力だと感じるのは、私がときどきやってくるよそ者だからだろうか。

情報過多と機会過剰~受験シーズンに

土曜日, 2月 2nd, 2013

 受験シーズンまっさかりである。「センター試験」なるものを経験したことのない世代、あるいは受験生が家族にいなかった人にとっては、昨今の入試は非常に複雑に見えるのではないか。
 私はいまちょうど親戚の受験生を預かっているのでようやく理解できたが、複雑なだけでなくどうもその仕組みや受験業界に違和感を覚える。ひと言でいうと、情報過多・機会過剰にみえる。

 その理由は以下の通りである。今の大学受験生は、大きく言えば「センター試験」という全国共通の試験と各大学が行う独自の試験の両方、あるいはどちらか一つを受ける。
 センター試験では、その成績を“自分の持ち点”として、いくつもの大学に挑戦することができる。もちろん一つひとつに受験料が必要になる。
 従って、一回の試験で同時にいくつもの大学に合格することがある。これで行きたいところへ決まれば御の字だが、センター試験は個々に大学が行う一般受験に比べて難易度が高いので、多くの人が同じ大学の一般試験も並行して受ける。
 また、大学によって後期日程試験などといって再度挑戦できる仕組みを設けているところもあって、前半で失敗した人や前半で日程が合わなかった人が受けることができる。いろいろあるが、とにかく受験チャンスが広がっている。

 チャンスが多ければ、挑戦してみようという気になるのが人情で、「下手な鉄砲も~」といっては失礼だが、とにかくあれもこれも受ける人が出てくる。これは一見いいことのように見えるが、物事にはつねにプラスとマイナスがありこれもまた例外ではない。
 当然受験料は膨れあがる(大学側からすれば収入が増える)。さらにあれこれ受けられるということは、なかにはそれほど興味がない大学や学部でも、とりあえず受けてみるかという話にもなる。

 だいたい高校でも予備校でも大学選びを社会との関係で教えるようなことはしていないので、大学名や偏差値偏重で指導する。「○○大学は商学部より文学部の方が君には受かりやすいよ」というようなアドバイスを平気でする。
 受験生も学部の内容など吟味していないから、そんなものかという気になる。こうなると、受験している大学、学部はバラバラで、果たして自分がなにを勉強したいのかなど本質的な問題はどこかへいってしまう。
 自分の希望や意志は揺らいで、気持ちに芯がなくなる。情報に適応して自分がかわってしまう。チャンスが多すぎるということはこういうマイナス面がある。

 受験だけではない。昨今の就活では景況の厳しさもあるが、とにかくやたらめったら数多くの会社にアプローチする。数十の会社を受けるのは当たり前のようだ。それもエントリーとかいってインターネットでアプローチだけは簡単にできるから試してみる。

 こんなになったらわけがわからなくなるので、その情報を整理してまことしやかに指南するコンサルタント業者が“活躍”する。自分で決められればいいものを心配のあまり、こうした業者に金を払って解決しようとする。受験の話に戻れば、高校が十分に機能しないから予備校や塾に金を払う。

 情報は多く、チャンスも広がっている。別の言い方をすると手段だけは増えている。そしてそれは金で買える。工作にたとえれば道具だけは腐るほどある。金を使えば立派な道具が手に入る。でも、何を作ったらいいか決まっていない。そんな状況にいまあるのではないか。
 これはなにも受験、就職だけではなく、我々の社会のありとあらゆる面で言える。電子機器をはじめ科学技術に支えられた素晴らしい道具やそれを使った仕組みで複雑なことや大量なものを処理することができる社会で、私たちはいま目的と内から出てくる意志を失いつつある。