Archive for 1月, 2015

朋あり遠方より来る、また楽しからずや~野毛

月曜日, 1月 26th, 2015

フロリダにいる古い友人と横浜・野毛で会った。ハリウッドフェスティバル・オーケストラというバンドのドラマーとして、新年早々から全国各地を回っている途中、オフを利用して夜訪ねてきてくれた。
奥さんが日本人で、日本にも一時住んでいた彼は、小ぢんまりした居酒屋と酒を好むアイリッシュ系の50代だ。前回に会ったときは、青物横丁の赤ちょうちんで、はじめてホッピーを味わった。これが意外にも気に入っていたようで、今回も野毛の赤ちょうちんでホッピーから始まった。

フロリダのニュー・スミュルナビーチという、ケープカナベラルにちかい小さな町で暮らす彼によれば、最近町に寿司レストランができたいという。「日本では安くておいしいものがいっぱいあるのに、どうしてマクドナルドに人が行くのか不思議だ」という。
ホッピーのあとは熱燗にうつり、カツ煮などをつまみに話ははずんだ。ではもう一軒ということになり、目移りするほどの居酒屋が集まる野毛の路地に出た。少し迷った挙句、ミュージシャンの彼が興味を持つだろうと思い、ジュークボックスの置いてある古いバーへ案内した。

「山荘」というそのバーは、以前同じ野毛の別の場所で長年営業してきたが、家主とオーナーの都合で閉店せざるを得なくなった。ところが顧客のなかから新しいオーナーが現れ、これまでどおりの店長のもと今の場所に移して再開となった。
喜んだのは常連で、以前より狭くなったその店は、いついってもカウンターはほぼ埋まっている。ジュークボックスには1960年代、70年代のドーナツ盤が入っている。多くはお客さんが持ち込んだものらしい。「ママス&パパス:夢のカリフォルニア」「ミーナ:砂に消えた恋」「長谷川きよし:別れのサンバ」など、なかなかうれしいラインナップだ。
100円で2曲、200円で5曲かけられる。ボタンを押して選曲する、出てくる音はけっこう重量感があって聴きごたえがある。
「これはたぶん60年代のものだよ」と、ジュークボックスに両手を置いた友人が感心する。「ボビー・へブ:サニー」がBGMでかかると、「いい曲がつづくな」と、再び関心。
ゴーヤチャンプルーをつまみに、二人でサッポロビールの瓶を3本空けると、10時ごろだった。込み合う店を出て、最後にジャズ喫茶「ちぐさ」へ案内した。日本で最も古いといわれるこの店も一度閉店したことがある。それを顧客が惜しんで“復活”させたという話は有名だ。

ちぐさ外

店内には、年配の男性が二人。ひとりは畳のような大きさのスピーカーを正面にじっくり聴いている。もうひとりは文庫本を片手に横を向いて、難しい顔をしていた。ジェイムソンが品切れだったので、二人して「山崎」をロックで。
友人は、いまかかっているレコードのジャケットを見に席を立って、店の若い男性に何か聞いていた。有名な「モントルー・ジャズフェスティバルのビル・エバンス」がかかると、友人の知り合いがかつて、ビル・エバンスのトリオに参加していた話などをしてくれた。
しばらくすると、60歳前後の外国人男性3人が入ってきた。ちょっとくたびれたビジネスマン風である。
「ナニジンかな」
「ジャズ喫茶なんて入ってくるのはドイツ人じゃないか」
などと二人でいいながら、彼らの動向をみていると、注文は英語だったが会話はフランス語だった。店内の客は日本人3人、フランス人3人、アメリカ人1人。どれも60歳前後の男という、インターナショナルではあるが枯れている。

静かに聴いているフランス人に帰り際、「どうしてこの店に来たのですか」と、話しかけてみた。するとひとこと、「By Chance(偶然)」だという。
偶然でも、ジャズのカフェに入ろうなんていうのは、古いジャズファンなんだろうな。友人は、外に出ると満足げに、ちぐさの写真を撮っていた。あと数日の滞在だという友人は、そろそろ妻に頼まれたものを買わなくてはならないという。
ラーメンだというから、どんなものかと思ったらこれだといってメモを見せてくれた。そこにあったのは「マルちゃん正麺」の文字だった。冷たい空気の夜だったが、ちょうどいい酔い心地で桜木町駅へと向かった。悪くない日だった。

テロと誤爆、そして人質

金曜日, 1月 23rd, 2015

フランスでのテロ事件に次いで、シリアでの日本人人質事件。アメリカをはじめとした先進諸国が封じ込めようとした勢力が、形を変えてテロを拡大させてきた。

何の罪もない人間を殺害する狂った暴力には、怒りと嫌悪を覚えるが、一方で果たしてそうした暴力はテロ組織からのものだけなのかという思いが浮かぶ。

暴力を受けたのが先進国の人間だったり、その行為が先進社会で起きた場合、当然反響は大きくなる。しかし、たとえばアフガニスタンやイラクなどで、アメリカやそれに同調する側が一帯となって行ったテロ掃討作戦などによる現場の実態は、よくわからないのがほとんだ。

自分の目から遠いところで起きている、あるいは、心情的に遠い人たちについて起きている悲劇に対して、人は関心が薄くなるのが常だ。だから、たとえば反テロ攻撃で、空爆して、誤爆だったということで何の関係もない住人が死んだり傷ついても、ひどい話だとは思っても、何十万人もの人がデモをしたり国際社会が一斉に怒りをあらわにすることもない。

犠牲者の家族にしてみれば、正義の戦いのための「誤爆」か、テロ行為によるものかは関係ない。ただそんな目に遭わせた側に憎しみが募るだけだろう。遠いところにいる人たち、なじみのない人たち、力のない人たち、そういう人たちの被害が、どれだけそうでない人たちと比べて世界に届けられたのか。

だが、そういう人たちのことを取材して広く知らせようとしたのが、今回人質になった後藤健二さんだった。このことをどう考えたらいいのか。

窓ガラスの汚れ、ピースとハイライト  2015年元旦

金曜日, 1月 2nd, 2015
fuji015

元旦、茅ケ崎市西浜海岸からみる富士山(09:55)

 

大晦日に自宅のガラス窓を拭いた。最初に外側から布で拭いて汚れをとる。つぎに内側から汚れを拭き取る。それでもよく見るとまだ汚れている。外から拭くと、あれ?汚れが落ちない! 汚れているのは内側なのか。いや、やっぱり外側か。

ガラスの汚れの原因が内か外かを見極めるのは実にむずかしい。ふと、これは人と人との議論や意見の違いと似ていると気づいた。ぶつかり合ったとき、互いにその原因は相手にあると考えて、自分が正しいと主張する。だが、ガラス窓の汚れの原因がどちらの側にあるのかわからないように、誤りは自分の側にあるかもしれないのだ。

自己の正当性を声高に主張する、つまり自分の側のガラスは汚れていないと言い張る議論がここ数年際立っているような気がする。

この夜、NHK紅白歌合戦で、久しぶりに登場したサザンオールスターズ。桑田佳祐の歌う「ピースとハイライト」の歌詞が意味深だ。

♪ 今までどんなに対話(はな)しても
それぞれの主張は変わらない。

♪ いろんな事情があるけれど
知ろうよ互いのイイところ

自分の主張の正しさを譲らずに、意見を戦わせる。いくら対話をしても主張は変わらない。でも、違いをみとめて、相手がなぜそういうことをいうのか、相手の事情やいいところも理解しようとしてみたらろうだろう。そんな気持ちをやさしく訴える。
理想主義と言えばそれまでだが、いつからか、理想を掲げる人を「甘っちょろい」とか、「現実を見ていない」と、見下すような風潮がある。確かに理想だけを標榜して、それに至る現実的なプロセスを考えない意見は弱い。しかし、問題に対峙した時、理想のない対応策は、力のない淋しい現実主義とはいえないだろうか。

桑田は、ポップなメロディーにのせて時々、社会的な言葉をのせる。音楽のもつ力を発揮して、わかりやすい言葉で理想を語る。人々にまずは互いを知り合うようにと。切なく、セクシーな言葉とメロディーが真髄のサザンには、こういうサウンドもあるのだ。
ますます世の中は、自分と意見の異なる世界へ不寛容になっている。もう一度原点に立ち返って腹を割って語り合ってみようというサザンのメッセージは、この時代に意味が深い。嫌いなやつや意見が合わないやつはいる。でも、どうして相手はそう考えるのか、まずは考えてみたらどうだろう。
ガラスの汚れから桑田の歌へ。そして明けて2015年。ガラスの汚れを落とすように、対立は時折立場をかえて原因を探ってみたいものだ。(敬称略)