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新京商業、新京、満州

日曜日, 2月 15th, 2015

中学時代だったか、学校に提出する家族の情報のなかに保護者の最終学歴というのがあった。そのとき私は、父親が「新京商業高等学校」という学校を出たことを知った。

日本にはないような新京と名称から、そんな学校があるのかな、と思っていたくらいであまり気にも留めていなかった。まもなくそれが旧満州国の首都、新京(長春)にあった学校だとわかった。
「親父が、日本にいてもたいしたことないだろうから、満州でも行ってみたらどうかっていうんで行った」と、父は話していた。このときも「へぇー」というくらいで、それ以上そこがどんな学校かなど聞くこともなかった。

戦争に行っていた父親は、朝鮮半島の平壌から最後は逃げてきたなど、ときどきぼそっと戦争体験を話していた。が、まったく興味のなかった子供のころの私は、何かを尋ねることなどなかった。

それから30年以上たって戦争のことや父親の戦時体験などについて、知りたいと思ったときは父は亡くなっていた。愚かと言えば愚か、よくある親子の話といえばそれまでだ。しばらくして父親が所持していた新京商業の卒業アルバムを見つけた。
それは戦時中とは思えないほど立派なもので、校舎や生徒たちの写真がずいぶんと使われていた。正面玄関と思われる前での終業写真をみても、立派な建物で、改めて満州で日本が作り上げようとした意図の一端が感じられた。

新京と新京商業について、もう少新京アルバムし知りたいと思っていたところ、新聞社の人の紹介で新京で生まれ育ったというTさんに会うことができた。Tさん宅を訪れ、いまの新京(長春)にも訪れたことがあるという彼女から、かつての新京のまちの地図や新京商業について、書かれているものを教えてもらった。
それをみると、新京がいかに計画的な人工都市として整備されていたかに驚かされた。新京商業は市街地の中心部に位置していた。日本がつくった主要な建物は、いまもかなり残っていて、新京商業も中国の実験中学という学校としていまも使われていた。

新京商業については、卒業生でシベリア抑留経験がある人が本を著していて、その方と連絡がつき、数年前に訪ねて行ったことがある。埼玉県に住むMさんで、彼は父より一学年下だった。Mさんから新京商業は、昼間部と夜間部があり、私の父は夜間部だったことがわかった。父はどこかで働きながら学校に通っていたようだ。
Mさんの学年は卒業アルバムがないと残念がっていた。アルバムのためにお金をつみたてていたが、制作を頼んでいた東京の印刷所が空襲か何かで焼けてしまったそうだ。

私が訪ねたときMさんは視力を失っていた。私が持参した父が所持していたアルバムについて、どんなことが載っているかをMさんが聞いてきた。
「校舎そばにライラックの花が咲いている写真があります」と、Mさんに言うと、「あー、そうだ。ライラックの花があったなあ」と、懐かしそうに思い出していた。後日、アルバムをコピーしてMさんに送った。

新京商業のみならず新京の学校を母校としていた人たちは、当然のことながら終戦とともに母校は消え、想い出をたどる郷愁の地はなくなった。卒業アルバムだけでも残っていた人は幸運だったといえる。戦争中のことなど何も残さなかった父親が唯一残したのもそれなりの意味があった。

後藤さんの死を超えて~彼だったらどうしてほしいだろう。

月曜日, 2月 2nd, 2015

後藤健二さんの最後の気持ちを想像すると、ただ胸が詰まる。イスラムの敵ではなく理解しようとしてきたジャーナリストとして誠実に行動してきた人間を、死の恐怖に陥れ、そして殺害するという行為を非難しようとすれば、怒りで汚らしい言葉しか見つからない。

では、この怒りを越えて、何ができるか、何をしなければならないか。それは後藤さん、湯川さんの二人の死をどう教訓として生かすかを冷静に考えることではないか。安倍首相は、この行為に対して償わせると言った。
犯罪を行ったものへの償いをさせることに異論はない。強力な特殊部隊などが仮にいたとしたら、イスラム国に潜入し、犯人に天誅を下してほしいくらいだ。ただし、イスラム国だけに限った償いをさせることができるとしたらである。

アメリカや有志連合による空爆をはじめ、対イスラム制裁の軍事行動を強化した時、イスラム国の出方によっては民間人に犠牲者がでることは十分考えられる。後藤さんらとおなじように死に、後藤さんの家族と同じように悲しむ人がたくさんでることになる。
さらに言えば、後藤さんはある使命感と覚悟をもって自ら危険地帯へ赴いたはずだ。これに対して攻撃にさらされた地に暮らすような人々の不幸は、まったく意味も分からず突然訪れるものであり、自分の意思とは関係のないところでただ殺されることになる。そうした事態を招くことは後藤さんの望んでいたようなことではないだろう。

時代を少し遡ってみよう。2001年の9.11以降に、アメリカが行ったタリバン攻撃のためのアフガニスタン空爆、2003年からのイラク戦争で、誤爆などによりいったい関係のない一般市民がどれだけ死んだことか。
2002年7月1日には、アフガン南部への米軍空爆で、結婚披露宴中の人たちを含む民間人が少なくとも48人死亡した。アメリカは「それは事故だ」と、誤爆であることを認めた。これはほんの一例である。
イラク戦争では、アメリカがファルージャ掃討作戦を始めた2004年4月5日から6月3日までの間で戦闘やテロで死亡したイラク人は1100人以上であると当時イラク保健省がまとめている。このうち14歳以下の子供も81人含まれる。これでも一部である。

空爆や市街地での地上戦などを行えば民間人に犠牲がでるのは明らかである。しかしそれがわかっていて実行する。それを日本政府は積極的に支援した。その政府を選んだわれわれは、「正義の戦い」による誤爆によって、まったく戦闘と関係のない民間人が多数死んでも仕方がないと思っていたことになる。

だとすれば犠牲者の遺族は、どう思うだろうか。後藤さんや湯川さんの遺族が悲しむように、多数の人が憤り悲しみ、その怒りの矛先がアメリカとその同盟国、そしてその国民に向いたとしても仕方がないことは、彼らの立場に自分を置いてみればたやすく想像できることだ。つまりわれわれは誤爆などについては間接的に加害者の立場にいる。

そんなことを言っても、日本人全体をいまやターゲットにしているといっているのだから、殲滅しなければ国民、国家が危険にさらされる、という声がかならずでてくる。物事を単純化すればその通りだ。また、単純化は理解されやすい。だがそれは、ただ自分の身が危ないから、まず何とかしたいといっているに過ぎない。それによって誰かが傷ついたとしても見て見ぬふりをする、あるいは考えないという姿勢だ。イスラム国と同様とまではいわないが、似たようなものだ。

では、どうするのか。簡単にはわからない。しかし、まったく誰も傷つけないことは不可能だとしても、最小限に抑えながらイスラム国を弱体化し殲滅に追い込む方法を徹底的に議論してみたらどうだろう。今回、後藤さんを救出するために世界各地でインターネットなどを通じてメッセージが広がった。
こうした手段をつかって、彼らの言語で、いかに彼らが罪深きことをしたかということを健全なイスラム社会の力を借りて世界に発信し続けることなども一つだろう。彼らがいかに非道なことをしたか、後藤さんという貴重な人材を失ったことをわれわれの悲しみや怒りが、イスラム国の人間よりはるかに大きいかを延々と知らしめることだ。
なにやら、自分たちが被害者で、怒りをもって正義を行使するようなことを言っている彼らに、もっと激しい怒りをもって対処することだ。
罪深い、非道な相手に償わせるのはいい。だが、安易な方法で敵対方法にでて、われわれもまた償いを背負うような側に立つことは避けたい。この際、後藤さんだったらどうしただろうか、いま、天国でどうしてほしいと思っているか。それを考えてみようではないか。そしてじっくりイデオロギーを超えて議論を煮詰めてみたらどうだろう。

※  ※
湯川遥菜さんの父親が、後藤さんの死を知り嗚咽していた。息子を殺された悲しみと、息子を助けに行った人が殺されたことへの申し訳なさと悲しみ。息子が人質になったときに、自分の育て方が悪かったと詫びていたが、いったいこの父親になんの謝るべき理由があるのだろう。湯川さんは立派な大人である。二重の悲しみを負ったこの人もまたまぎれもない被害者のひとりである。罪もない人を殺した側が何より責められることを忘れてはならない。