気味の悪い進行 コロナ第3波

 コロナ禍がほぼ一年続いて、ここにきて薄気味悪さが増している。感染が拡大の事実そのものはもちろん気味悪い。しかしそれにも増して気味が悪いのが、事態が悪化していく可能性があったことは予測できたのに、その悪化の様をただ見てきたような感じがしていることだ。
 メディアも感染者の数の増加と医療現場の悲鳴を報じつづけるといった「現状報告」が主で、なぜ備えられなかったのか、備えるためにはどうすべきだったのかといったといったその先の報道があまりみられない。だから何度も医療関係者の悲鳴を聞くのがつらくなってくる。
 専門家は、GoToキャンペーンの前からこの冬には感染の拡大は予想されるといっていた。これにGoToが加わればなおさらであった。GoToキャンペーンについては、旅行産業を救うという点で有効だったので、この政策の是非については別に議論するとしても、悪影響についても想定を覚悟の上の実施だったはずである。だから、備えが必要だった。にもかかわらず最悪のケースでの医療体制への支援、そしてキャンペーンの中止など人の活動制限について計画的な備えがあったのかどうか疑問だ。

           最初から個人の努力の問題ではない

 11月27日、政府の感染症対策にあたる分科会の尾身茂会長は、「個人の努力だけに頼るステージは過ぎた」という認識を示した。しかしそもそも、ウイルス感染の問題が個人の努力だけで解決できる話ではないのは明らかだし、国がなにをすべきたかが最初から問われていた。
 にもかかわらず、検査体制の拡充の問題一つとっても明確な方向性を打ち出せないままだ。クラスターの追跡に伴うPCR検査ではなく、感染者の把握を大規模に行う検査については、偽陽性、偽陰性の問題があるためその有効性の有無について議論があったが、煮詰めた議論もされず、結局検査は増えたが感染状況を把握する検査にはほど遠いものである。一部の積極的なクリニックの努力に負っている部分もある。
 医療体制については、第一波のときに医療従事者のマンパワーの不足が心配され、現場を離れている看護師などを呼び寄せるなど医療スタッフの確保を進めるべきという提案が出されたが、その後どうなったのか。いま病床数の不足と同様に懸念されている。軽症者の療養施設についても対応できるのか心配だ。

           堂々と国民に説明できないのか

 これらすべてなんらかの検討はされていないはずはないだろうが、その形跡が国民には見えない。この点は、もう一つの気味の悪さを意味する。国のリーダーがコロナ禍に対する明確なビジョンを国民に直接示さないということだ。ドイツ、イギリス、ニュージーランドなどの首相が国民に方針を語り、示すのとは大違いで、日本では専門家の口を借りて遠回しに妥当な政策を暗示するか抽象的な努力目標を語るばかりだ。それも原稿を読み上げる形で。
 確たる気持ちがあれば、自然と言葉は内から出てくるものだから、そういうものがないと判断されても仕方ない。オリンピック開催についての「人類がウイルスに打ち勝った証として世界に発信」というフレーズも借りてきた言葉のようだ。極めつけは第三波の拡大時に首相が訴えた「マスク会食のすすめ」だ。これは保健所の担当者レベルがする注意喚起であり、一国の首相が示すべきものとは次元がちがうだろう。

            漠然としか感染リスクを示せない
 
 もう一つ気味の悪いことがある。感染の危険度が具体的に見えないことである。いったい感染者の割合はどのくらいなのかがわからない。また、感染のメカニズムもそれほどはっきり示されているとは思えない。
「マスクをつけて会食する」など個人に求める対策は、同席者が感染者だというのが前提だ。「人と見たら泥棒と思え」ではないが、「人をみたら感染者だと思え」というわけである。であれば会食する人数が多ければ、感染者に出遭う確率は高くなる。また、ウイルスは取り込む量が多くなれば感染のリスクは高まるといわれているので、長時間に及ぶ会食などの接触はリスクを高めることになる。
 では、どの程度の割合で感染者はいるのだろうか。どういうところにいるのか。これらについては行った検査の範囲内でしか示されていない。ただ先日、テレビで感染の疑いのある人を診療しているある医師が、どこにでも感染者はいる可能性はあると話していたように、追跡できるような段階を過ぎ、市中のどこに感染者がいてもおかしくない状況になっていると推定される。
 言い換えればリスクは漠然としているので、楽観的な人と慎重・悲観的な人ではかなり反応は異なることになる。政府が「勝負の3週間」と注意喚起した(どの程度国民に伝わっているのかは疑問)あとの休日の渋谷では、若者が集団でマスクもせずに戸外で飲み会をして騒いでいた。観光地や観光イベントもそれなりの人手でにぎわっている。一方で、感染者は増え続け医療機関の逼迫度は増している。
 地域を限ってでも徹底した検査によって感染の実態をつかむべきだとの意見は多かったが結局、こうした検査は行われなかったことが感染のリスクを具体的に示すことができないことにつながったのではないか。

         検査の議論を煮詰めることなく過ごした

 こうした徹底した検査については、「偽陽性の割合(確かな率は不明?)の問題から、多くの偽陽性者を隔離・保護することはできない。偽陰性の問題をどうするのか」という理由からの反対論が少なくなかった。偽陽性者の保護を人権上の問題からできないという意見については、すでにコロナ禍で多くの人権が制限されていて、こうした制約が公共の利益と照らし合わせて不合理だとは言えないだろう。また、保護施設が確保できないのでは、という問題は科学より政治・行政の問題であり、議論の方向が異なる。偽陰性の問題は、「陰性と判定されても100%確かなものではない」と、言い含めるしかないことは、これまでの検査と同様である。
 徹底検査の必要の有無の議論を煮詰めることなく、状況をやり過ごしている間に、陽性者は目に見えない形で市中に広がっていったと推測される。「偽陽性の者をあぶりだしては混乱をきたす」という論は、見方を変えれば陽性者の実態を把握することなく、結局誰が感染しているかわからない状況に導いたに過ぎないとはいえないか。
 
             楽しむ人と苦しむ人 

 さらに気味の悪いことがある。繰り返しになるが、一部の人による感染抑制に反する行為は何ら規制がないから、第一波のころから相変わらず野放しになっている。また、余裕のある人は旅行に出かける。その反対に医療機関や保健所で働く人が疲労困憊していく。
 自由に楽しんでいる人がいる一方で、苦しんでいる人がいる。こうしたことは何もいまはじまったことではなく、世の中はそもそもそういうものだが、楽しい個人の行為がまわりまわって他者を苦しめるという構図が明らかになるなかで、こうした状況を見せつけられるというのは気持ちのいいものではない。
 感染を抑制することと経済を回すことという両立しにくいテーマを実現するには、容認せざるを得ない制度もあるだろうが、誰かを苦しめて自分の自由や欲望を満たすということを一個人としてどう考えていくかという問題は別だ。今議論になっているカジノの問題がこれに似ている。例えば横浜市が推進するように、ギャンブル依存症の人への影響はあっても、財政上からカジノは必要という考えの是非だ。
 将来の市の財政のため必要だという横浜市の意見は一見もっともだが、財政上豊かになることが大事なのではなく、市民の生活が豊かになる(お金だけで計れ部分もあるという意味)ことが大事だということを考えれば、社会に負荷を与えず(誰かを苦しめず)に、財政上プラスになるような道を探る努力はまず第一だ。
 GoToキャンペーンも、確かに経済効果という点では有効だろう。だからといって国にとってこの時期にこれを実施したのは必要で正しい政策だったと評価を下すのは、国家の安全保障のためには沖縄に負担を強いてもしかたないといった乱暴な意見に通じる。官僚的な上から目線の安易な国益優先論だ。負担や苦汁を味わう同胞をできるだけ少なくする中で別の方策もないものかと考えるのが第一だ。
 この点は、ダム開発、原発建設、リニアモーター建設など、国益や経済効果といったお題目は掲げられるが、真の意味での公共の利益にあたるか疑問な巨大事業の進め方にも共通する。

           やがて自分の首を絞めることになる

 GoToイートも、ほかに方法はなかったのだろうか。要は居酒屋をはじめ飲食店をどうやったら当面救済できるかがテーマだが、どこに感染者がいるかわからない状況で、会食がもっともリスクが高いといわれているときに、「マスク会食」といった個人の努力レベルを頼りに「お得だからお店に行こう」と背中を押してもリスクが高すぎる。
 それよりまずは、資金を提供したうえで、アクリル板の設置や収容客数の制限、飲食時間の制限など具体的な指針を示し、これを遵守してもらい、少しでも顧客が安心して来られるようにする。守らなければペナルティを科すくらいでないと効果はないだろう。もし、このまま感染が拡大し続ければ欧米で行われているような営業禁止という措置に踏み切らざるを得ないだろう。そうなる前に、厳しいガイドラインと経済支援をセットにした方策が有効ではないだろうか。
「要請」のレベルでは、対応はバラバラになり、従ったものがバカを見るようなことになり、事業者間の軋轢も生じかねない。国民同士が反目し合うことの愚は、アメリカの例を見れば明らかだ。
 飲食業に従事する人の生活を支援するという意味では、航空業界で働く人が当面他業界で仕事を得たように、他業界で迎え入れるということも考えられる。コロナ禍で、多くの業界、業種が苦境に陥っているなかで、食品関係、ホームセンターなど業績を伸ばしている業種も少なくない。こうした業界で受け入れることも国は後押ししたらどうだろう。
 さらに言えば、企業だけでなく国民ひとり一人が、コロナで苦境にあえぐ業種や人を支援するための寄付ができるようにしたらどうだろう。国や自治体が支援するのはもちろんだが、多少なりともゆとりのある人はそのゆとりの度合いに応じて、支援してはどうだろう。いま、誰が感染してもおかしくない状況にあるなか、こうした支援はめぐりめぐって自分たちを助けることになる。
 ナチス・ドイツの時代、ルター派牧師で反ナチ運動をしたマルティン・ニーメラー の有名な言葉(詩)を思い出す。「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから」ではじまり、最後は、「私が攻撃された時、私のために声を上げてくれる人は、誰一人残っていなかった」で終わる。
 自分には直接関係のないことだと、不合理や正義に反することから目を背けていると、やがて自分がそうした目に遭った時、もはや手遅れだということである。自分は感染していないし、医療関係者でも飲食関係の仕事をしているものではない、と傍観していると知らないうちに自分にとっても手遅れになることがあるということを自戒を込めて覚えておきたい。


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