菅首相が守ろうとしたものはなにか。国民か政権か、自分自身か?

 先月、横浜港を見下ろすビルから大桟橋に豪華客船が留まっているのをみました。ふと昨年正月のダイヤモンド・プリンセス号を思い出しました。連日のメディアでの報道に、この先ウイルスが広がってしまうのだろうかと心配しましたが、今の日本の現実はその心配をはるか凌ぐ危機的な状況にあります。
 あっという間にウイルスは地球上を席巻しました。しかし日本ではなぜかそれほどでもなかったので、当時の安倍首相は「日本モデルの力を示した」と胸をはりました。しかし案の定根拠のなき過信は、次善の策を遅らせ、代わった菅政権も悪化する事態を想定できず「GoToトラベル、イート」を推進しました。一方で、必要な検査体制は整えず、政府が「ゲームチェンジャー」とばかりに頼りにしたワクチンも提供が遅れました。
 そこへきてデルタ株の出現と拡大です。オリンピックの熱狂でつかの間目をそらすことができた感染状況は、専門家が予測した通り急速に悪化し、感染者の療養施設の確保はできず、自宅療養中で亡くなる人はつづき、コロナ以外で救急搬送先が見つからずに失われる命もでてきました。
 千葉県で感染した妊婦が入院できず自宅で出産した赤ちゃんがなくなるという例は、痛ましい限りでしたが、その経過を会見で説明する地元の保健所の担当者の口調からは「保健所だってぎりぎりの努力をしてるけど限界だ」といった悲痛さが感じられました。医療体制はひっ迫し、保健所業務も限界に達してます。
 わざわざ経過を書いたのは、こうした事態はこの1年半余り専門家によって予想されていたということを強調したかったからです。予測困難な自然災害とは明らかに異なります。だから検査体制、療養施設、野戦病院的な施設、感染源を減らすより具体的な対策を前もってとることができたわけです。しかし、国民が納得するような形では実現されませんでした。
「最悪の事態に備える」というのが、リスク管理の鉄則であり、リーダーがとるべき方策です。それは「逆算の思考」とも言えます。将来起こりうる最悪の事態を想定したときに、どう対処するかをまず考える。そして、その結果から今なにをすべきかを割り出す。その反対が対症療法的な思考です。根本的な問題に向き合うのではなく、いまある症状(状態)にまず対処する、その時々に対応するいわば御都合主義です。
 こうした思考がいかに脆く、犠牲を払うかは先の戦争からいくつも学び取れます。一例をあげれば、唯一の地上戦となり十数万の犠牲者を出した沖縄戦では、日本軍は一刻も早く降伏すべき時点で、大本営を守るという名目で少しでも時間を稼ごうと抵抗しより多くの市民を巻き添えにしていきます。
 敗戦という最悪を想定できるのに、その場しのぎのために犠牲を増やしてしまう。つまり軍が守ろうとしていたのは日本の国民ではなかった。同じように、これまでの経過を見れば、事態の深刻さを政権の責任ととらえられるのを恐れるがゆえに、国民に危機をアピールできず、ひいては先手を打てなかった菅首相が守ろうとしたものは、国民ではなく政権だったのではないでしょうか。
 新学期が始まり子どもの感染が新たに心配されます。遅くとも来月には行われる衆院選では、こうした現状を厳しく見て国民の側にたつリーダーを選出したいものです。(川崎医療生協新聞より)

 


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