沖縄の実態を想像しよう

  私の家は、三階建てのマンションの駐車場と細い道路を挟んで接している。ここは袋小路なので、マンションに用のある宅配便などは、この駐車場でUターンして出入りする。 小刻みな時間帯で、荷物などを授受できることで、ずいぶん便利になったと思うが、その一方で頻繁に出入りする自動車の音が気になる。はっきりいってうるさいと感じることもしばしばだ。 

 音の問題は個人差はあるが、一度でも飛行機の離着陸する基地のそばに行ったことがある人なら、その騒音は耐え難いものだと身に染みるだろう。日本中のこうした基地、とくに沖縄の普天間周辺の人は、この騒音と日々つきあい、万一事故が起きたらどうしようという精神的な不安と緊張感を抱えてきた。

 いままでさんざんそういう思いをしてきたから、オスプレイの配備についても拒否反応を示すのは当然だろう。特定の軍備についての安全性という問題ではない。戦時中から沖縄が本土の防波堤と位置付けられ、地元では日本軍からも同じ日本人とは別の扱いを受けた記憶をもつ人は少なくない。

 さらに戦後の占領下はもとより、返還後も基地がある事によって起きた米軍兵による犯罪の被害を受け、なおかつ公正な処罰が受け入れられなかったという多くの事実があるのはいうまでもない。
 そういう歴史のなかで、アメリカの要求するままに沖縄に負担が増えるという危惧を及ぼす政策が繰り返されることにがまんがならないという気持ちは、沖縄以外の人でも歴史を知り、現地のことを想像してみれば容易に理解できることだろう。これはイデオロギーでも、政治的な問題ではない。
 
 その深い苛立ちを押し切って先日配備されたオスプレイは、さっそく沖縄で住宅地の上空を飛行した。とんでもない話だ。オスプレイの安全確保策を協議した日米合同委員会は「運用上必要な場合を除き米軍施設・区域内のみで垂直離着陸モードで飛行し、転換モードの飛行時間はできる限り限定する」と合意しているのに、もうこれに反している。

 さらにひどいのは、この合意違反に対する玄葉光一郎外相のコメントだ。彼は、10月5日の閣議後の会見で「沖縄に懸念の声があるので、よく守ってほしいと(米側に)伝えた。これから事例を集めてフォローしなければならない」という。
 まるで他人事のような言い方ではないか。これじゃ沖縄の人が怒るのも無理はない。あれだけ問題になっていながら安全性以前の、普通の約束事すら守られず、それを知っても地元の怒りすら代弁できないのである。

 自分の住んでいるまちや故郷が長年にわたって同じような扱いを受けたら、きっと沖縄でオスプレイ配備に反対する人の気持ちがわかるだろう。国益のために仕方ないなどという論が沖縄の基地問題についてはよく展開されるが、長年にわたって同じ国民の平穏な生活をこれほど犠牲にして成り立つ国益とはなんなのか。 

 そういう安易な国益論が、これまで反対者に“地域エゴ”というレッテルを貼ってきた。あるいは生活者からの発想を、イデオロギー的な信条とみなすことで封じ込めようとしてきた。
 本当の地域エゴというのは、安全とわかっている震災の瓦礫を受け入れようとしない市民や、自分のところには基地の受け入れを拒否するくせに、沖縄の基地負担を仕方ないと考えることだ。
 沖縄をめぐってはいま独立論が話題になっているという。日本の国の沖縄に対する扱いが植民地を扱うようなものに似ているからである。  


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