屈辱的な事件に怒りはないか

  オスプレイ問題にひきつづきとんでもないことがまた沖縄で起きた。若い二人の米軍兵による日本人女性への強姦致傷事件だ。あるテレビの報道番組が、容疑者の一人の故郷テキサスを訪ね、彼の友人へインタビューをした。
 友人は、容疑者は女性に対してそんなことをする男ではなかったと、容疑者がもともと健全な人格であったことを語った。
 もしその通りなら、彼は軍人になったことが原因で女性を襲うような人間になったのか。それとも、沖縄という異国の基地のまちで、相手が日本人女性だったからたいした罪の意識なく犯行に及んだのか。
 軍人という身分が保護されていると意識していたのか。故郷のアメリカ人の白人女性に対してだったらそんな卑劣なことはしなかったのか。

 いずれにしても、彼らがこれまである程度普通の人間だったなら、これまで米軍兵が引き起こした沖縄での数々の事件とそれに対する沖縄の人の気持ちなどほとんど意識になかったことは容易に想像がつく。
 アメリカは事件について綱紀粛正を強めるというが、根本的解決策としては米軍の大規模な縮小か撤退以外にありえないだろう。それでも事件後ルース駐日米大使は「私にも25歳になる娘がいる、個人的なものとして、多くの人がこの事件に対して抱く怒りを理解している」と、声を詰まらせコメントした。

 また、沖縄県の仲井真知事は「正気の沙汰とは思えない」と、怒りと悲しみの表情を浮かべた。それに対して、野田首相はまず最初に記者に感想を聞かれてなんといったかといえば、「あってはならないこと」だった。
 同胞が屈辱的な乱暴を受けて、こんな紋切り型の言葉しか最初に出てこないのだろうか。気持ちの問題だ。

 この言葉からだけでなく、震災の被災者、拉致被害者、そして沖縄の人たちという生身の人間としての国民の怒りや悲しみを共有して、守っていこうという気持ちが政治家から感じられない。だが、それは政治家からだけでなく国民全体からもあまり感じられない。
 国の安全保障のために、日本のエネルギーの安定供給・経済成長のために・・・。その大義(実際は一部の集団の利益やイデオロギーのカモフラージュでもある)の下に結果として蹂躙されてきた個人としての国民の生活のなんと多いことか。
 沖縄については、この際せめて日本全国の学校教育の現場で沖縄の歴史を必修として、生徒が学ぶようにしたらどうだろうか。 


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アメリカ村近く


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