経済成長神話、だれか説明してくれないか

 世の中には、ずっと疑問に思っていても、あまりにも根源的な問題なので提起しづらいことがある。「経済成長」はその最たるものだ。成長戦略だとか、経済を成長させるため、という言葉はほんとうによく聞かされる。

「自然環境や資源の保護」との関係で言えば、「経済成長」がつづけば、資源も自然環境も失われていく。「いやそんなことはない、自然エネルギーの促進や省エネ技術の進化によって、それは防ぐことができる」などとよく言われるが、こういうことを言う人は、本気でそう思っているのだろうか。
「成長を暗黙のうちに是とする」、言い方を換えれば、「あまり根源的なことを考えても仕方ない」、あるいは「考えられない」といった、思考の停止が根底にあるのではないか。                                       

 景気がよくなればエネルギーもより必要となる。そうすればどのような形であれ電力開発は進む。これまで原子力をはじめ火力、水力でも成長に伴う需要増をまかなうために発電所はつくられてきた。これにともない自然海岸や自然な河川は少なくなっていった。
 経済成長とは概ねそういうことなのだ。だから、一方で自然保護、環境保護を謳いながら、経済成長をしないことが問題だというのはおかしなことなのだ。今世間で言われているような成長は、意図するかどうかは別としても、紛れもなく自然資源・環境を食いつぶして達成されのである。

 日本の近代化をとってみても、近代化=経済成長にともなって自然環境がどれだけ変化(劣化)したことか。一例を挙げれば、自然海岸は80年前後に50%を切っている。50数個できた原発の立地は、すべて長閑でほとんど手つかずの自然海岸だった。我々は自然海岸を失うことと引き替えにエネルギーと経済成長を得てきた。
  
  私は個人的にはできる限り自然を保護してほしいと願う。しかし、便利で効率のいい経済的に豊かな社会のために自然をある程度(あるいは、かなり)損失しても仕方ないという考え方があるのも理解できる。しかし、環境を保護しながら経済成長を半永久的に求めて行けること、求めて行くことが当然だというような考えは理解できない。

 よく考えれば矛盾する「考え」でも、それぞれがもっともらく見える「考え」だったりすると、人は深く考えなかったり、あるいはそれとなく矛盾を察知しても思考を掘り下げて問題に気がつくことを本能的(感覚的に)恐れ、立ち入らなかったりする。掘り下げて本質的な問題が露呈したら、簡単には解決できないからだ。
 それぞれが問題と思ったら、個々に取り上げ「なんとかしなければ」ととりあえず言ってみる。ジャーナリズムの悪しき面はここにあり、その方が簡単だし受け手にもわかりやすいし、おそらく提唱する自分でもわかりやすからだろう。
 
 根本的な問題ほどジャーナリズムをはじめ大衆を議論に巻き込む側には難題である。「極端な金融緩和が経済成長につながるのか」などといった一見専門的で難しく思われるテーマより「経済成長と自然保護は矛盾しないのか」といった根源的なテーマの方がはるかに難しいのである。
 しかし、専門的だが表層的なテーマに精通する方が、はるかにお金になるし、日々の生活にすぐ影響するからジャーナリズムのなかでは受け入れられやすい。原発の是非の議論でもそうだった。
 原発について賛成、反対の意見の違いは 安全性についての意見の相違だけでなく、経済成長(経済的豊かさ)に対する見方、さらに掘り下げれば「豊かさとは何か」についての見解の相違についてを問う、深い議論が交わされてしかるべきだった。が、残念ながらこうした「テーマ」を掲げて議論を促したところはなかった。

 仮にこういう議論をしていくと、価値観の相違が浮き彫りなる。たとえば、ひとつのもっともらしい意見の根源は、「組織のなかでの自分の地位の保持」や「自然崇拝」だったりする。それらが悪いというのではもちろんない。
 でも、そこまで掘り下げて徹底的に議論することで、考えの優劣は別にして、いろいろな価値観をむき出しにしてみることは、互いを理解するという点で必要なのではないだろうか。平和で民主的な社会なら幸いそれができるのだから。


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