欲望と自由の果ての肥満

 なんでアメリカにはこんなにデブばかり多いんだろう。ずいぶんまえから思っていたが近年さらに進行しているのではないか。
 空港のロビーで目の前を行く人を目で追ってみた。
 デブ、普通、デブ、すごいデブ、普通、普通、普通、デブ・・・。だいたいこんな感じだ。体型など、人をみてくれで判断し偏見をもってはいけないのは重々承知だ。しかしこれだけ肥満が増えると、それを生む社会の問題として考える必要がある。
 
 子供にまで肥満化が蔓延しているのは明かな国民的健康上の危機だ。太っていることを表す英語には、一般によく使われるfat のほかに丸々とぽっちゃりしたという意味のchubby、そしてでっぷりとして肥満であることを意味するobese(オビース)などがある。
 これでいうと、オビースがまれではなくなっている。性別、人種、年齢を問わず太っている。世の中、異常なものが多くなれば、これがスタンダードになってくるから恐ろしい。
 その恐ろしさの原因は、レストランに行けば明らかだ。とにかくまず量が多い。加えてフライものや肉類が目立つし、甘いものでも「ジャバニーズラージ」が「アメリカンスモール」だ。

                

 食べる量(エネルギー)と、消費される量を差し引きすれば、残る量が多くなりそれがたまっていき、贅肉などになっていることが単純に計算されると思う。
 だから、わかっていて、食欲を抑えられないか、別に抑える必要がないと思っていることの証だろう。体が重く肉がたまってもいい、食べたいものは食べるという欲望を優先しているのだ。

 ところで、欲望を抑えないという点では、食欲にかぎったことではなく、なにかをやりたいという欲望についてアメリカという社会は積極的に認めている。それは「欲望」という概念が、言い換えれば「自由」でもあるからだ。
 欲望=自由を求めることは正義であり、その反対の「禁欲」はあまり理解され尊重されることはない。控えめであることは美徳になりにくい。そういう人を決して悪くはいわないが、そんなことしたら損をするという風潮が社会にある。
 食いたいものをとくかく腹いっぱい食い、いいたいことをいい、やりたいことをやる。自由の謳歌だ。しかし、むずかしいのは人は自由を完全にマネジメントできない。すべて自由にしていいといわれたらどうなるだろう・・・。

 また、アメリカの「食」についていえば、自由に食べているようで、フード産業の提供する圧倒的な力に、実は食い物にされているところがある。小学校で甘いソフトドリンクなどを止められない理由はそこにある。ビジネスもまた限りなく自由だ。
  
 自由だと思って欲を追究していっているようで、実はもっと大きな自由を求める力が差し出す限られた選択肢のなかで、得られる自由の極大化が肥満なのかもしれない。太っているのか太らされているのか。よく考えると恐ろしくもある。
 こういう仕組みの社会をもつアメリカという国が牽引する、さまざまなグローバルスタンダードに、われわれがついていこうとしていることに大いなる疑問がわく。


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