「右」と「左」の違いを掘り下げる
あるテーマについて、同じよう意見を持つ人たちは、別のテーマについても同じような意見を持つ。原発に賛成だという人は、沖縄の米軍基地も容認するし、首相の靖国神社参拝は賛成で、中国、韓国は反日であると怒り、秘密保護法には賛成する。
反対に原発に反対だという人は、沖縄の米軍基地は県外にもっていくべきだとし、靖国参拝は反対、中国、韓国とはもっと平和的に交渉し、秘密保護法は反対。少し乱暴かもしれないが、だいたいこういう傾向にある。
これらの問題を判断するにあたって、どうやら共通のある基準があり、それに照らし合わせて意見の方向が決まるようだ。その基準とは、「国家」と「個人」の関係についての考え方ではないだろうか。「全体」と「個人」、もう少し抽象化すると「秩序」と「自由」との関係である。
「個人より国家を重んずる」・「個人の自由より全体の秩序を尊重すると考える」か、「国家より個人を尊重する」・「全体の秩序より個人の自由を尊重する」と考えるかの違いが根本にあって、さまざまな問題について意見が分かれているのではないか。
これが俗に「右翼」、「左翼」といわれることに近いのかもしれないが、それは置いても、根源的に違いがあるのなら、その根源について、互いにどうしてそう考えるのかを徹底的に論じあってみたらどうだろうか。新聞やテレビは、一つ一つのテーマについて、いつもその論点をとりあげるだけだ。表層的でありそれでは解決の糸口は見えてこない。
一例をあげれば、原発が安全かどうかの意見の違いも、科学的な見解の相違ではなく、価値観の問題であるという点から論じたろうどうだろう。立派な識者の専門的な解説、分析も掘り下げればある種の価値観から出発していることがわかったりする。極端な話、幼児期の体験が原点だったりすることもないことはない。
価値観の相違について掘り下げて互いに認識し合うことがなければ、いくら議論をしても解決の方向にはすすまず、互いの正当性をぶつけ合うだけの、議論のための議論に終わってしまう。
「あなたはどうしてそういう考え方をするのか」、「そういう意見を持つようになった根本はどこにあるのか」。それを冷静に、徹底的に掘り下げていかなければ、相手のことなどわからないだろう。
わかる必要がないと思う人なのだろう、ただ自説を正当化する意見を延々と吠えている人がメディアによく登場する。そして、それに同調する人は、目を血走らせて拍手喝采を送る。自分のカタルシスのための議論の行く末がどうなるか、歴史に照らせばわかる。
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