Ross MacDonald(ロス・マクドナルド)の言葉②

 千葉県柏市の路上で通りがかりの31歳の男性会社員を殺した男は無職の24歳だった。未来のある何の罪もない人間を殺した罪は一生かかっても償いきれるものではないだろう。

 名古屋駅前で自動車を暴走させて、無差別に13人に重軽傷を負わせた事件の容疑者は30歳の男だった。彼の父親が警察官だったことが報じられ、報道のなかには、親ならまして警察官なら、公衆に対して謝罪すべきだという浅薄な意見があった。

 百歩譲って、よほど幼児期に虐待をしたなど、家庭教育の過程で人格を歪めたような形跡がはっきりとしているなら、そうした意見も容認されるかもしれないが、30歳の人間の犯行に対して、外部が容疑者本人にではなく、親だから警察官だから謝罪せよなどと断罪できるはずがない。

 自分が親で警察官で、常識ある人間だったら言われなくても悔い、謝罪をしたいと誰でも思うだろう。しかしそれは第三者が強制できるものではない。

 車を暴走させた男は幸い死者こそださなかったが、被害者を心身ともに傷つけ、またその家族を傷つけただけでなく、自らの家族を死に等しい状態に追いやったといっていい。通り魔殺人犯の24歳の凶行は、被害者の命を奪い、その家族の命も奪うに等しい残忍な行為であり、同時に自分の家族をも“殺した”に等しい。

 

 彼らはもちろん刑に服するだろうが、さまざまな形で被害をうけた関係者の将来を思うとやるせない。

さむけ2

 

 ロス・マクドナルドは、彼の作品中最高傑作だといわれる「さむけ」(The Chill 1976 小笠原豊樹訳)のなかで、作者とも主人公リュー・アーチャーのつぶやきともとれる言葉でこんなことをいい表している。

「ある種の人間は、自分がこの世に生まれてきたことを償うだけで生涯を費やしてしまうものである」

 妻殺しという無実の罪を着せられ、服役した男をめぐっての言葉だ。ろくでもない夫ではあったが、妻は殺していない。しかし、当時幼い娘が周囲の大人に強制されて、父親が母親を銃殺したと証言したことで、彼は有罪となってしまう。出所した男は、娘に会い自分の無罪を確認させようとしていた。こうした殺人事件が三つかさなって、物語はかなり複雑に展開していく。

 この世に生まれてきたことを償うだけで生涯を終える、とっていはあまりにも運命的すぎるし救いはない。だれだって生まれてきたときは、そんな運命は背負ってなかったはずだ。だが、どこでどうまちがったか、ある時からのちは、償いだけで生涯を費やす、あるいは費やさなくてはならない人生があることも確かだろう。


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さむけ2


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