大和コロニー フロリダ、移民、日本人

「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)をこのほど出版しました。ざっと、あらすじをまとめると、以下のようになります。

表紙

フロリダ州に20世紀の初めから大和コロニーとよばれる日本人の入植地があったことはほとんど知られていない。しかし、戦後もこの地で農業をつづけた京都府宮津市出身の森上助次が、地元に寄贈したことがもとで、現地には広大な日本庭園と日本文化を紹介する「The Morikami Museum and Japanese Gardens」(以下モリカミ)が建設され、いまも多くの人々が訪れている。この寄付が縁で、宮津市とフロリダのデルレイビーチ市とは姉妹都市の関係になっている。

なぜ、ここに日本人が移民したのか。20世紀のはじめ、アメリカ国内は未開発の地が広がっている時代、フロリダ州では大西洋岸に延びる鉄道敷設計画が進められ、リゾート開発が始まった。ロックフェラーとともにスタンダード石油を経営した実業家で大富豪のヘンリー・フラグラーが企画したこの計画にともない、開発と同時に入植者を呼び込む動きが広がった。
これを知ったのが、当時実業家を目指してニューヨーク大学に留学中の酒井醸だった。宮津藩士の息子に生まれた酒井は、義兄で丹後縮緬商の沖光三郎に財政的な支援を得て、南フロリダに集団移住を計画し日本人のコロニー(入植地)をつくろうとした。そこで、ニューヨークの知人らに声をかけたほか、郷里の宮津に帰り人材を募集して現地入りしたが、そのなかのひとりが森上助次だった。
大和コロニーと名付けられた日本人村では、野菜や果物をつくり、鉄道を利用して全米に販売し栄えたこともあった。しかし、環境面で耕作はきびしく、農業自体は大きな成功にはいたらなかった。また、1920年代にはフロリダの土地ブームもあって土地を売って農業から離れるものも多く、のべ140人ほどが暮らしたコロニーは衰退。戦争で土地も接収され、コロニーは解体した。

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

しかし、森上助次ほか数人だけは現地の周辺に残った。助次は一時は恐慌で全財産を失うなど苦労しながらも土地を少しずつ買いためていった。その一方で農業を続け生涯質素な暮らしをしながら、独身を貫き、また日本にも帰国せず現地で89歳の生涯を終えた。
助次がアメリカへ来た理由の一つはプロポーズした相手への失恋だった。彼女のことを生涯忘れられなかった助次は、晩年思い焦がれた人と文通をすることができた。彼女もそんな助次の思いを懐かしい想い出として受け止めた。
助次が寄付した土地をもとにした公園の広さは約200エーカー(約24万坪)で、湖を中心にして6つの区域に分かれる。一周はおよそ1・2キロくらいの散歩道。瓦屋根の本館があり日本の美術品が展示、茶室や225人収容のシアターもある。コロニーの歴史や日本の生活様式なども展示している。
正月の餅つき、お盆の精霊流しや花火など季節の催事を行い、年間を通して、生け花教室や茶道教室、日本料理や日本の庭作りを紹介。日本語教室などといった教育的なプログラムも組み、地域の人に日本文化を広め交流を図っている。

 

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

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私がこの事実に興味をもったのは、ひとつにはアメリカがまだ発展途上で、フロリダの開発がオイルビジネスで成功した大富豪の手によって進められ、これに呼応した日本側の移住、入植プロジェクトもまた生糸産業、縮緬産業による富がつぎ込まれたという、ともに大きな時代背景があったことです。もうひとつは、酒井醸のようなインテリの理想と、失恋が動機で右も左もわからず入植した森上助次のような「農民」の、個人としての生き方の魅力です。
大きな時代の流れと制約のなかで、個人の夢や理想はどう動いていくのか。移民という冒険を通して見えてくる時代と社会と、個人の意志と運命が交錯するところにこの“物語”の醍醐味があるような気がする。