またひとつ美しい海が潰れる 辺野古

辺野古の海岸を埋め立てる工事がはじまった。海に囲まれ美しい渚や海岸線をほこる日本の自然海岸が5割を割ったのは、たしか1980年代だった。

軍備のため、経済のため日本の海岸は埋め立てられてきた。埋め立てのための公有水面埋立法はあるが、ほとんど手続法のようなもので、埋め立てをとめることはできない。

最たるものが原発で、公益、国益の名の下に(実は、それに名を借りていた)ために自然海岸がつぶされてきた。その海岸がもう使い物にならなくなってしまったことを原発事故は教えてくれた。

辺野古埋め立ての報道のなかで、国と沖縄県の対立は深まるばかりです、という言い方がよくされる。まるで他人事のようだ。沖縄には美しい自然をもとめ多くの観光客が訪れる。これはわれわれ日本の、日本人の財産でもある。われわれが美しい国土や自然をどう守るか、なにを引き換えにして、これを失ってもいいのなのかと自分自身に問う問題ではないのか。

北朝鮮の脅威から国土を守る必要がある。そのために米軍の力が必要で、だからアメリカの希望をかなえる必要があり、だから辺野古が必要だというのか。逆に考えてみよう。辺野古でなければいけないのか、沖縄でなければいけないのか。アメリカの希望をかなえなければいけないのか。北朝鮮からの脅威から国土を守るという出発点からさきは、もっと多様な選択肢があるだろう。議論が必要だろう。

かつて入浜権運動というものがあった。兵庫の高砂から生まれたこの運動は、自然海岸が沿岸の工業化などで失われていき、古来より身近な浜や海に親しんできた人びとの権利が損なわれていくことへの怒りであり、その権利を取り戻す運動だった。

辺野古の問題は地元だけの問題ではなく、沖縄だけの問題でもない。埋め立て護岸工事をしたら二度もとへは戻らない。辺野古の海と浜はいまきっと悲鳴をあげている。自然信仰などとくにないが、きっといつか、どこかで自然から手痛い仕返しを受けるような気がしてならない。