大衆という裸の王様 コロナが映し出す社会

 都内に住む知人が、発熱が4日ほどつづいたので、新型コロナウィルスの感染を疑い、都が示したマニュアルに従いコールセンターに電話した。応対した人は、かかりつけの医師に診てもらうようにいった。いないというと、最寄りの診療所へ行くことを勧められた。

 その通りのすると、医師は「なんでうちに来たのか」と訝し気にいい、肺のレントゲンをとり、肺炎ではないと診断した。知人は念のためどこかでPCRの検査をしてほしいというと、私には判断できないと医師は答えた。仕方なく自宅マンションに帰ったが、心配なので再度コールセンターに電話した。応対した人があまりにも不親切だったので、上司にかわってもらうと、丁寧ながらも重症者でないと検査はできないと説明する。体もだるいので知人は、ただ自宅でじっとしていることにした。幸い一人暮らしだったからよかったが、感染の疑いは晴れたわけではないので、部屋からでることができなくなった。

 おそらくこうした人はかなりいるのではないか。この場合、同居する家族がいて、まして家が狭かったり家族が多かったりして接触が避けられないようであれば大変なことになったろう。本当は感染していなくても疑いがあれば身動きがとれなくなる。その一方で、一人暮らしでも人によっては外に出てしまう人、食糧確保のため出ざるをえない人もいるだろう。この人がもし感染者であれば他にうつす可能性はある。いずれの場合でも、PCRが行われていれば避けられることだ。しかし、これができないのが現状だという。

 結果として、感染者の実態を表わすことにならないだけでなく、非感染者の行動を阻害し社会活動を停止させる。しかし、これも 国の方針であえてそうしているのか、またはせざるを得ないというのであれば、せめてその理由と実態を明らかにして、国民に説明をする必要がある。診療所や病院が困惑をあらわにし、患者を惑わすことのないように、医療機関や保健所が統一した理解ができるようにしなくてはまずいだろう。

 どうも、一連の国の対策や方針について、明確な内容がメッセージとして国民に聞こえてこない。困難なときこそ、なにができてなにができないかを明らかにし、そのうえでみんなで課題を共有していく必要がある。それなら、できないことについても納得がいくしあきらめもできる。

 ほんらいならこれは当然国のリーダーの役割であるのはいうまでもない。が、残念ながら今のリーダー安倍首相が語る方針と対策は、マスクを着けて読み上げる原稿でしかない。顔をあげて国民を真正面に見据えて話す力強さはない。ドイツのメルケル首相などとは大違いだと感じている人は多いだろう。

 しかし、怒り嘆いているばかりでは仕方ない。首相がそうできない理由を追及し、その問題点をなんとか除去して前に進む道をさぐりたい。国が何かしてくれるということを待つのでなく、国をうごかす声をあげたい。それができなければ、批判されるべきは首相だけではない、だまってみている国民もまたそうである。メディアも首相や政府、厚労省を批判しても国民は批判しない。それはタブーだからだ。大衆を敵に回すことを大衆で支えられているメディはもっとも恐れる。しかし、あえていえば、大衆こそが「裸の王様」なのだ。

 

  

 

 


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