Author Archive

ワラビと訃報

水曜日, 6月 26th, 2013

 夜中や早朝にかかってくる電話に、いい話はない。この時間、電話が鳴ると胸騒ぎがする。この日は朝9時ごろになって、早朝に携帯に着信があったのに気づいた。親戚からの電話だった。かけ直してみると、従姉妹が亡くなったという。いやな予感はあたるというか、いい予感などあまりもったことがないから分からない。悪いとは聞いていたが、まだ59歳、これほど早いとは。翌々日、弔いのために東北・秋田新幹線から在来線に乗り継ぎ、静かな町に降りた。

  さっそく線香をあげにいき、親族と話をしたあと、亡くなった彼女の兄夫婦に誘われて夕食をともにすることになった。案内されたのは、品がよくこぎれいな料理屋。稲庭うどんのついた“御膳”を頼むと、「ワラビ食べますか」と従兄弟がいう。出てきたのは、小鉢に入ったゆでたワラビで、すーっとまっすぐきれいにまとまっている。生姜が上にのっていてる。こうしてワラビを食べるのは久しぶりだな、とぼんやりしながら口に入れると、その食感に「昔この秋田の田舎で食べたな」という記憶が蘇った。

 味覚で過去を思い出すというのは、あまりなかったことなのでこのこと自体が新鮮でもあった。田舎は母親の実家があったところで、子供の頃はときには夜汽車に揺られながら夏休みによくやってきた。母は兄弟姉妹が多いので、いとこの数も多く、彼らと賑やかによく遊んだものだった。亡くなった彼女もその一人だ。

 いまは実家はなくなり、いとこたちもほとんど田舎を離れた。みなそれぞれに忙しいようで、今回も顔を見ることはなかった。思い出話をしようにも、相手のいないなかで一泊して戻ってきた。ワラビのさわやかな食感だけが過去へのつながりとして残った。

カリフォルニアの空の下で

金曜日, 5月 24th, 2013

 サンフランシスコから車で東へ向かい、1時間ほどでカリフォルニア州の州都サクラメントに着く。27年前、一度だけ長距離バスで旅をしていたとき立ち寄ったことがあるこの町で、このほど私は三日間を過ごした。
 宿泊したのは、日本人のTさんのお宅だった。Tさんは戦後夫とともに日本から布教のためにやってきて、サクラメントで“教会”を立ち上げた。7人の子どもを育てあげ、夫が亡くなったあとは責任者となって活動を続けてきた。

  彼女は知人に頼まれて、日系アメリカ人に関わるあるイベントに参加する私のために宿を提供してくれたのだった。滞在中取材に出ていた私は、なにかの食べ物にあたったのか、お腹をこわし熱を少し出してしまった。心配した彼女は、おかゆをつくってくれたりドクダミ茶を煎じて飲ましてくれたりした。食事のことだけでなく、私は教会に招かれ“お祈り”もしていただいた。
 おかげで1日休んだだけでほぼ回復した私は、なんとか次の取材地に向け出発することができた。その朝、Tさんは「おかずを入れると、日中は暑くて傷むといけないので、おにぎりだけにしました」と、おにぎりの弁当をつくってくれた。
 
 カーナビのないレンタカーを借り、乾いた空気を突き抜ける陽射しの下、なだらかな起伏のつづくカリフォルニアのハイウェイを走った。かつて日本人のコロニーがあったというリヴィングストンという町一帯は、いまも当時と変わらずアーモンドやももなどの作物が広がっている。
 そこで小学校や小さなミュージアムを訪れたり、日系人のお宅を訪問したりして、数時間を過ごすとすでに6時過ぎになっていた。翌朝にはサンフランシスコを発つことになっていたので、この夜は空港近くのホテルに泊まることにしていた。迷うことなくドライブしても3時間はかかるだろう。

 Tさんと一緒に暮らす7男のRさんが、インターネットで調べて紙に打ち出してくれた、空港まで言葉だけの“道案内”を頭にたたき込み、これをハンドルと一緒に

片手に持ちながら、99号からはじまりいくつものハイウェイを乗り換えながらアクセルを踏み続ける。
 アメリカでハイウェイを走るといつも思うことなのだが、100キロほどの速度で数車線の車の流れに乗り、茫漠たる大地をひとりハンドルを握っていると、何ともいえない寂寥感に襲われる。どうしてかなのか。大げさに言えば、自分の歩んできた道を何かにたとえるなら、この状況に似ているのかもしれない。
 
 そんな甘っちょろいセンチメンタリズムにも浸りながら、一度だけ間違えただけで、たいしたロスもなくなんとかホテルにたどり着いたときはすっかり暗くなっていた。サンブルーノというこの場所は、この夜かなりの強風で、ホテルのカウンターにいたインド系の女性は、「これはサンブルーノの風よ」と、よくあることとばかりにそっけない顔をしていた。
 予約した「禁煙」の部屋は、確かに今は禁煙かもしれないが古いタバコの臭いが染みついていた。カウンターの女性の顔を思い出すと、いまさら換えてくれというのも面倒だ。キングサイズのベッドが二つ。無駄に広く、窓ガラスの隙間を突く風の音もあってか、寂寥感はここにも漂う。 

 強風のなか夕食を食べに行く気にもならない。が、幸いなことに、Tさんがつくってくれたおにぎりがほとんど残っていた。海苔で巻いた小ぶりのものが4つ。これに昆布となにか野菜のような佃煮が少し添えられていた。
 こんな部屋でも紅茶のティーバッグがある。お湯が沸くのも待たずにおにぎりを一つ口にすると、梅干しが顔を出した。すでにいただいたことがあるTさん自家製のものだ。ドクダミ茶も自家製で、教会の敷地内でドクダミを育てて乾燥させているという。
 これに関してはおもしろい話があって、Rさんによれば、ドクダミをいっぱい生育している様子はマリファナ(大麻)に似ているらしく、パトカーが通りがかりに止まっては、訝しげに見て匂いを嗅いでいく。彼が説明して納得して帰ったこともあったという。

 おにぎりのありがたさをしみじみ感じひとつひとつ口にしていると、不覚にも途中で佃煮の一片を落としてしまった。それは古びたマットの上にあった。一瞬間をおいて、すぐにそれをつまみ上げるとバスルームに行き、水道水でよく洗った。そして再びおにぎりと一緒に噛みしめた。
 強風が窓を突く音は続いたが、この夜は早く眠りにつくことができた。

経済成長神話、だれか説明してくれないか

火曜日, 4月 30th, 2013

 世の中には、ずっと疑問に思っていても、あまりにも根源的な問題なので提起しづらいことがある。「経済成長」はその最たるものだ。成長戦略だとか、経済を成長させるため、という言葉はほんとうによく聞かされる。

「自然環境や資源の保護」との関係で言えば、「経済成長」がつづけば、資源も自然環境も失われていく。「いやそんなことはない、自然エネルギーの促進や省エネ技術の進化によって、それは防ぐことができる」などとよく言われるが、こういうことを言う人は、本気でそう思っているのだろうか。
「成長を暗黙のうちに是とする」、言い方を換えれば、「あまり根源的なことを考えても仕方ない」、あるいは「考えられない」といった、思考の停止が根底にあるのではないか。                                       

 景気がよくなればエネルギーもより必要となる。そうすればどのような形であれ電力開発は進む。これまで原子力をはじめ火力、水力でも成長に伴う需要増をまかなうために発電所はつくられてきた。これにともない自然海岸や自然な河川は少なくなっていった。
 経済成長とは概ねそういうことなのだ。だから、一方で自然保護、環境保護を謳いながら、経済成長をしないことが問題だというのはおかしなことなのだ。今世間で言われているような成長は、意図するかどうかは別としても、紛れもなく自然資源・環境を食いつぶして達成されのである。

 日本の近代化をとってみても、近代化=経済成長にともなって自然環境がどれだけ変化(劣化)したことか。一例を挙げれば、自然海岸は80年前後に50%を切っている。50数個できた原発の立地は、すべて長閑でほとんど手つかずの自然海岸だった。我々は自然海岸を失うことと引き替えにエネルギーと経済成長を得てきた。
  
  私は個人的にはできる限り自然を保護してほしいと願う。しかし、便利で効率のいい経済的に豊かな社会のために自然をある程度(あるいは、かなり)損失しても仕方ないという考え方があるのも理解できる。しかし、環境を保護しながら経済成長を半永久的に求めて行けること、求めて行くことが当然だというような考えは理解できない。

 よく考えれば矛盾する「考え」でも、それぞれがもっともらく見える「考え」だったりすると、人は深く考えなかったり、あるいはそれとなく矛盾を察知しても思考を掘り下げて問題に気がつくことを本能的(感覚的に)恐れ、立ち入らなかったりする。掘り下げて本質的な問題が露呈したら、簡単には解決できないからだ。
 それぞれが問題と思ったら、個々に取り上げ「なんとかしなければ」ととりあえず言ってみる。ジャーナリズムの悪しき面はここにあり、その方が簡単だし受け手にもわかりやすいし、おそらく提唱する自分でもわかりやすからだろう。
 
 根本的な問題ほどジャーナリズムをはじめ大衆を議論に巻き込む側には難題である。「極端な金融緩和が経済成長につながるのか」などといった一見専門的で難しく思われるテーマより「経済成長と自然保護は矛盾しないのか」といった根源的なテーマの方がはるかに難しいのである。
 しかし、専門的だが表層的なテーマに精通する方が、はるかにお金になるし、日々の生活にすぐ影響するからジャーナリズムのなかでは受け入れられやすい。原発の是非の議論でもそうだった。
 原発について賛成、反対の意見の違いは 安全性についての意見の相違だけでなく、経済成長(経済的豊かさ)に対する見方、さらに掘り下げれば「豊かさとは何か」についての見解の相違についてを問う、深い議論が交わされてしかるべきだった。が、残念ながらこうした「テーマ」を掲げて議論を促したところはなかった。

 仮にこういう議論をしていくと、価値観の相違が浮き彫りなる。たとえば、ひとつのもっともらしい意見の根源は、「組織のなかでの自分の地位の保持」や「自然崇拝」だったりする。それらが悪いというのではもちろんない。
 でも、そこまで掘り下げて徹底的に議論することで、考えの優劣は別にして、いろいろな価値観をむき出しにしてみることは、互いを理解するという点で必要なのではないだろうか。平和で民主的な社会なら幸いそれができるのだから。

格子戸をガラッと開けると・・・

金曜日, 4月 12th, 2013

 暗い小路にたつ小さな木造の平屋。すりガラスの入った格子戸の向こうで楽しげな声がする。思い切ってガラッと引いてみると、「いらっしゃい」と明るい声で出迎えてくれた。まずはひと安心。これがうわさの居酒屋か。

「おひとりですか」。奥の小上がりの小さな膳の前かカウンターを勧められた。両脇の客にちょっと詰めてもらってカウンターに入り込む。白髪のおかみさんのほか、小さなカウンターの向こうには若い女性二人と少し年上の女性が、にこやかな顔でせっせと手を動かしている。給仕に回っているのは背の高い青年だ。総勢5人。孫とおばあちゃんといったスタッフ構成だ。
 店の規模にしては手が多い。それだけの客がいつも入っているのだろう。何しろ開店前から客が並ぶ。閉まる時間は早く、酒は3杯まで。ヨッパライは入れない。情報では確か創業は1940年代。

 まずは「ビールをください」と言ってみると、「大ビンでいいですか」と返されたので、頷いたが周りを見ると小ビンが主流のよう。一番搾りと一緒にやってきたのはお通しだが、これが3点セット。おから、タマネギの酢漬け、そして皮つきのピーナッツと豆菓子。長年のしきたりなのだろう。

 品書きのようなものは見回したがない。「メニューありますか」などときくのは野暮だろう。コハダのつまみがあるとは聞いていたので「コハダありますか」と、きくと「ハイ」と青年は実にさわやか。
 グラス片手にじろじろと店内を見回す。黒ずんだ板張りの天井。カウンター上の天井からは和風の照明が下がり、点滅させるひもが垂れ下がる。建具は古くもちろん木製。奥の小上がりにあるガラス窓の向こうにいい色合いの緑が見える。

 壁や長押の上には、この店の常連かあるいは訪れた有名人の色紙などがずらりと並んでいる。そのなかにも登場しているが、ここでは酒は灘の櫻正宗と決まっているようだ。最初にビールを頼んだときも、同時に日本酒のためと思われるコップが運ばれてきた。これもしきたりなのだ。
 
 カウンターの上に大きな土瓶が二つ置いてある。酒を頼むと若い女性のうちの一人が、それをもって上の方からカウンターのコップめがけてピンポイントで酒をつぐ。インド料理屋で滝のように注がれるチャイを思い出した。なみなみと注がれたぬる燗の櫻正宗は、さっぱりとしていてやさしい。
 左隣の男性客が湯豆腐のようなものを食べている。しばらくすると青年が「どうぞ」と同じものを置いて行った。「あ、それは頼んでいませんが・・・」と戸惑っていると、「みなさんにお出しすることになっています」と、丁寧に応える。どうやら酒をおかわりすると自動的に出てくる仕組みになっているようだ。
 温かい豆腐にシラスとネギがのっていて、よく見ると鱈が入っている。鱈豆腐か。これは自宅で作ってみたくなる。

 閉店も近くなり、少しすいてきたので、何気なくおかみさんに話しかけると、気軽につきあってくれ、「昔はこのあたりに憲兵隊があってね」などとかつての横浜・野毛の様子やご自身のことを教えてくれた。こちらもどこから来たのか多少自己紹介。
 楽しいときも束の間、ここが潮時と席を立つと、「まっすぐおかえんなさいよ」と、おかみさん。笑ってごまかし、気分よく野毛の飲み屋街へ足を向けた。大正11年生まれだというおかみさんの店は武蔵屋という。

万年筆と身上申告書

土曜日, 3月 16th, 2013

 筆記用具をなかなか捨てられない。赤や黒のボールペン、赤鉛筆、普通の鉛筆、シャープペンシルにサインペン・・・。わが家では整理棚や小物入れの中にまとめてしまってある。 仕事柄ずいぶんと彼らにはお世話になった。だからなかなか捨てられない。文字を「書く」ことが少なくなりキーボードで打ち込むのが大半になったいまもだ。一番使わないのにとくに捨てられないのが万年筆だ。

 大事にしていていたわけではないが、高校か大学時代に父親にもらったもので、パーカーというブランド品だったのでとっておいた。当時でいえば“舶来の品物”だ。細かい格子模様でいぶし銀の色艶だが、本来はもっときれいな銀色だったのかもしれない。それほど外見はみすぼらしくなってしまった。

 しかし、本体を握ってみると、細身の割にずっしりと重く金属のいい質感が伝わってくる。急にこれで文字を書いてみたくなった。文具屋に行くと、かつて使っていたパーカーのブルー・ブラックのインクカートリッジはまだ売っていた。5本で500円余。

 このペンにインクが通るのは30年ぶりくらいになる。果たしてペン先は傷んでいないか、心配しながらカートリッジを差し替えてしばらくしてノートにペン先を滑らせると、これがなかなかなめらかに走る。多少太めなところは変わりなく、男性的な味わいの文字になる。
 以来、気をよくして机の上でノートに書くときは、ボールペンの代わりにしばしばこの万年筆を使っている。古いオーディオ機器などと同じように、捨てられずにとっておいたものが再び役に立つというのはうれしいものだ。
                 ※
 大正生まれの父親が亡くなってもう20年近くたつ。父の書く字が、なんとなく自分の字と形が似ていることにある時気がついた。自分と似た筆跡も手がかりとなって、父の若いころのことで、知らなかったことが最近わかった。
 父が十代で満州の新京にある商業学校へ行き、そののち徴兵されて再び満州に趣き、最後は朝鮮の平壌にいたことは昔聞かされていた。しかし、戦時中でそれ以外のことは知らなかった。戦争に関わる古くさいことなど、高度経済成長期の子供だった私にはなんの興味もなかったし、父の方もそういう相手に話す気にもならなかったのだろう。

 恥ずかしながら最近になって、戦時中の父のことを調べてみようと思いたった。歳のせいかもしれない。兵籍について県の地域保健福祉部生活援護課というところに問いあせたところ「身上申告書」なる書類のコピーが送られてきた。兵役についていた者の引き揚げ時の記録だ。
 そこで初めて私は、父が所属していた部隊や配属先、そして終戦の翌年、仁川を出て博多港に上陸したことを知った。記録は1枚の紙に手書きで記されていた。よくみると父が自分で書いたとものに違いなかった。筆跡に見覚えがある。
 私が誕生する10年ほど前のこと、当時23歳だった父が書いた文字は、56歳になったいまの私が、パーカーで記す文字とどこか似ていた。

長い老後とバカンス

金曜日, 3月 8th, 2013

 ちかごろ80代の人が珍しくなった。90歳を超える人もちらほらみかける。親戚でも94歳の伯母がいるが、この人はマンションで一人暮らしをしている。人の悪口ばかりいっているのが元気の秘訣のようで、頭と口はまだまだよく回るからたいしたものだ。

「あたしは、老人ホームなんて絶対いやだね」と、よく言っている。団体生活にはなじめないだろうし、若いころから美容師で、一人で美容院を切り盛りしてきた働く女性だったので自立心も人一倍強い。
 おとなしくて静かなお年寄りを期待されるようなホームはまっぴらごめんというわけだ。
 
 確かに日本の老人ホームは、かつてとずいぶん変わったとはいえ、まだまだお年寄りを子ども扱いしているところがある。
「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれて当たり前だと思っている人は多いだろうが、「○○さん」と、名前で呼んでくれと言いたい人もいるはずだ。

 先日ある特別養護老人ホームに行ったら、くだけた人間関係を出そうとしているのか、「~でいいじゃねぇか」といった言葉遣いを男性職員がしていた。耳も遠くなっている人が多いとはいえ、聞いていて気持ちのいいものではなかった。
 まだできて間もないホームで、内装も無垢の木を使ったりして温かみを出そうとしている。しかし、どうもホームの内部の雰囲気は殺風景だ。ホームは入所者にとってはおそらく“終の住処”だ。それは自分のホーム(家)であるはずだ。病院とは違うし、リハビリをするための施設でもない。

「特養」の絶対的な不足を補うように雨後の竹の子のようにいま有料老人ホームができている。こぎれいなこうしたホームですら、豪華かどうかは別にして、“アットホーム”な感じを受けない。
 本気で“ホーム”を演出する力と、それを支える確たる思想がないからだろう。どうやって人生の最後の場所を居心地よく作り上げるのか、高齢者への福祉とはどうあるべきかを考え尽くしているのか、といった疑問が出てしまう。

 

 函館で「旭ヶ丘の家」という老人ホームをつくった、フランス人神父のフィリップ・グロードさんは、「老後はバカンスだ、ホームは老人にとってバカンスを過ごす所です」と宣言し、“大人のホーム”を完成させた。
 昨年のクリスマスの日、グロードさんは85歳で亡くなった。十数年前何度かそこを訪ね神父さんに話をきいた。

 寿命が延びると同時に、多かれ少なかれ障害をもって長い老後を過ごさなくてはいけない。心身ともに衰えていく中で、最後の居場所はどんなところになるのだろうか。

 (参考)「老いはバカンス ホームは休暇村―グロードさんと旭ヶ岡の家」(旬報社)

雪の室蘭、クラシックな心地よさ

金曜日, 2月 22nd, 2013

 雪も悪くなかった。室蘭の夜、さらさらと降る雪のなかを歩いていると、気持ちが落ち着いた。地元の方には申し訳ないが、昼間でも寂れた感のある旧市街。夜ともなれば、人気はまったくない。活気をつけようとしているのだろうが、通りに流れる音楽はかえって寂寥感を濃くする。

 減価償却をとっくに済ませたような商店のレトロな店構えが暗がりにうっすら見える。暗くなりポツン、ポツンと灯る明かりは居酒屋で、私はその一つを訪ねるために雪道に足を取られないようにゆっくりと歩いた。
 
 ごくまれにタクシーが静かに過ぎて行く。この町を初めて訪れた人なら、このあたりで居酒屋へ入ろうなどとは思わないだろう。私は何度かここへは来ているので、一般に古い鉄の町などと言われる室蘭の奥の深さと魅力の一端を知っている。


 確かに寂れてはいる。しかし、妙に落ち着くのだ。誤解を恐れずに言えば、少々古くて寂れているだけならどこにでもあるが、それも程度を超すとクラシックになる。存在に味が出てくる。
 新しい町や商店街のなかには、若いタレントが無理にはしゃいで場を盛り上げようとする不自然さや痛々しさがある。見た目はこぎれいでも、簡単なプラスチック模型のようだ。すぐに組み立てられるが、時を経ても味は出ない。

 近頃よく思うのは、新しいものはお金があればつくり出すことはできるけれど、古いものは新たにつくり出すことはできないということ。昔の写真や音楽など、過去の記録は今残っているものに頼るしかない。古いだけで宿る価値がある。
 街並みや家も同じだ。もちろんまったく古いままにしておくことはできないが、その風情をそのままに修正していくことはできるだろう。
                      ※   ※   ※
 目指す居酒屋の灯りを見つけ、一歩中に入ると外とはうってかわって賑わいがある。案内された奥の座敷には、かつて取材でお世話になった元室蘭市役所の方たちが顔を揃えて待っていてくれた。
         
 日本中がバブル経済で浮かれ、東京の地価が暴騰していたとき、この室蘭では地価が下がっていた。取り残された感があった。が、それを逆手にとって、市職員の有志がいっそのこと「土地を東京で売ろう」と発案、市の分譲地を都心で売るため上京し、チラシを配って宣伝した。
 その結果、高級車1台分で住宅地が購入できるところや、北海道の自然に惹かれ「室蘭に行ってみようか」と、現地視察を経て住みついた人もいる。それを取材したのを機に、何年かに一度室蘭を訪れることがあった。

 室蘭という地名は、アイヌの言葉で「小さな下り坂」を意味する「モ・ルエラニ」から来ているという。なるほどそのとおりまちには小さな坂があり、場所によってはそこから海が見える。明治になり国策として室蘭に製鉄所などができ、海沿いが一気に工場群と化したのだが、それ以前の古い室蘭の写真をみると、なんとも穏やかな光景が広がっていた。
             ※   ※   ※
 久しぶりの再会で酒も進みテーブルを囲んでの熱い議論も飛び出し、実に楽しいひとときだった。店を出て解散となったが、まっすぐホテルに帰るのも惜しく、知っている近くのバーの戸を開けた。
 壁にギターが掛かりクラシックなロックが好きなマスターがいるはずだった。が、この時はマスターも客も誰もいない。「こんばんはー」と、声を響かせたが返事はなし。
 仕方なく外へ出て、歩き出すと小路に「地酒」と提灯が見える。暖簾をくぐると、看板に偽りなく、さまざまな地酒がリーズナブルな値でならぶ。熱燗を頼み、そのあとで佐渡の北雪という超辛口を一合飲んだ。しっかりしたお通しとあわせて二千円でおつりが来た。


 
 仕切り直しにと再びバーを訪ねると今度はマスターが立っていて、「すいません、ちょっとでていて」という。いい感じのルーズさだ。30分ほど話をすると、中年カップルが来てカラオケをはじめようとしたので、それを潮にホテルに戻った。

 古い町は雪に被われて一見すると眠っているようでも、実は小さな灯りの奥には息づかいがある。それを魅力だと感じるのは、私がときどきやってくるよそ者だからだろうか。

情報過多と機会過剰~受験シーズンに

土曜日, 2月 2nd, 2013

 受験シーズンまっさかりである。「センター試験」なるものを経験したことのない世代、あるいは受験生が家族にいなかった人にとっては、昨今の入試は非常に複雑に見えるのではないか。
 私はいまちょうど親戚の受験生を預かっているのでようやく理解できたが、複雑なだけでなくどうもその仕組みや受験業界に違和感を覚える。ひと言でいうと、情報過多・機会過剰にみえる。

 その理由は以下の通りである。今の大学受験生は、大きく言えば「センター試験」という全国共通の試験と各大学が行う独自の試験の両方、あるいはどちらか一つを受ける。
 センター試験では、その成績を“自分の持ち点”として、いくつもの大学に挑戦することができる。もちろん一つひとつに受験料が必要になる。
 従って、一回の試験で同時にいくつもの大学に合格することがある。これで行きたいところへ決まれば御の字だが、センター試験は個々に大学が行う一般受験に比べて難易度が高いので、多くの人が同じ大学の一般試験も並行して受ける。
 また、大学によって後期日程試験などといって再度挑戦できる仕組みを設けているところもあって、前半で失敗した人や前半で日程が合わなかった人が受けることができる。いろいろあるが、とにかく受験チャンスが広がっている。

 チャンスが多ければ、挑戦してみようという気になるのが人情で、「下手な鉄砲も~」といっては失礼だが、とにかくあれもこれも受ける人が出てくる。これは一見いいことのように見えるが、物事にはつねにプラスとマイナスがありこれもまた例外ではない。
 当然受験料は膨れあがる(大学側からすれば収入が増える)。さらにあれこれ受けられるということは、なかにはそれほど興味がない大学や学部でも、とりあえず受けてみるかという話にもなる。

 だいたい高校でも予備校でも大学選びを社会との関係で教えるようなことはしていないので、大学名や偏差値偏重で指導する。「○○大学は商学部より文学部の方が君には受かりやすいよ」というようなアドバイスを平気でする。
 受験生も学部の内容など吟味していないから、そんなものかという気になる。こうなると、受験している大学、学部はバラバラで、果たして自分がなにを勉強したいのかなど本質的な問題はどこかへいってしまう。
 自分の希望や意志は揺らいで、気持ちに芯がなくなる。情報に適応して自分がかわってしまう。チャンスが多すぎるということはこういうマイナス面がある。

 受験だけではない。昨今の就活では景況の厳しさもあるが、とにかくやたらめったら数多くの会社にアプローチする。数十の会社を受けるのは当たり前のようだ。それもエントリーとかいってインターネットでアプローチだけは簡単にできるから試してみる。

 こんなになったらわけがわからなくなるので、その情報を整理してまことしやかに指南するコンサルタント業者が“活躍”する。自分で決められればいいものを心配のあまり、こうした業者に金を払って解決しようとする。受験の話に戻れば、高校が十分に機能しないから予備校や塾に金を払う。

 情報は多く、チャンスも広がっている。別の言い方をすると手段だけは増えている。そしてそれは金で買える。工作にたとえれば道具だけは腐るほどある。金を使えば立派な道具が手に入る。でも、何を作ったらいいか決まっていない。そんな状況にいまあるのではないか。
 これはなにも受験、就職だけではなく、我々の社会のありとあらゆる面で言える。電子機器をはじめ科学技術に支えられた素晴らしい道具やそれを使った仕組みで複雑なことや大量なものを処理することができる社会で、私たちはいま目的と内から出てくる意志を失いつつある。

最後の年賀状

金曜日, 1月 18th, 2013

 この正月にいただいた年賀状をみると、表の宛名ほほとんど印刷された文字で、手書きものは数えるほどだった。手書きの文字はそれぞれ癖があり、差出人の名前を見る前に、「この美しい筆跡は・・・」とか「ミミズののたくったような字はたしか○○だ」などと、時に懐かしさを感じたものだった。

 風貌や体型はかなりかわっても、筆跡というのはそれほど変わらないものだ。手書きの文字はきれいだろうが下手くそだろうが、人間的な息づかいと人となりが伝わってくる。それを思い出すから、逆に印刷された文字はなんとも味気なくみえる。
 裏面の挨拶もたいていは印刷だ。ひと言でも手書きの文字があれば、温かみもあるのだが、すべて印刷文字となれば、差出人と個人的に向き合った気がしない。こうして賀状はますます形式化していくのだろう。
 
 手書きで私の住所と名前が記されてた賀状のなかに、これまでいただいた賀状にはなかった文面をみつけて少々はっとした。それは、この賀状が最後になるという挨拶を兼ねた一文だった。
「つきましては誠に勝手乍ら、以後年賀状の儀、失礼させていただきたく、よろしくお願い申し上げます」とあった。
 差出人のAさんは今年84歳。7回目の干支の巳年を迎え、どうやら高齢を理由に賀状の挨拶はこれを最後にし、転居など今後の通知も遠慮したいということだった。

 高齢になれば人付き合いなど鬱陶しくなることはよく聞くし、まだ50代の自分もその気持ちは多少理解できる。しかし私がこの賀状にはっとしたのは、Aさんのこれまでの生き方を知っていたので、文面から潔さのようなものを感じたからだった。
 Aさんは会社をリタイアすると、妻とともにヨーロッパに居を構え、そこを拠点に数年かけて大好きな美術鑑賞のための旅をした。名作の本物をその目で確かめ味わってきた。目的を達成したのちは、この間他人に貸していた都内のマンションに戻り、趣味をみつけて静かに暮らしてきた。

 子供はいるが、成人したら自分で暮らしなさいと自立させた一方、老後はできるだけ子供たちの世話にならないようさまざまな面で段取りをしてきた。日本の葬儀の形式的な面を嫌い、自分が死んでも葬儀はしない。生前の意思として万一の時についても「尊厳死」を選び、亡くなった後の実務的なことまで、処理してもらうよう契約をしてある。
 その流れからすれば、高齢になり自分の意思がはっきりすしているうちに、「これにて年賀状の儀は最後とする」という決断をしたのだろう。
 
 ある年になって、事情があって賀状が出せなくなったり出すのが面倒になったところで、だれに迷惑をかけるわけではない。しかし、賀状をもらえばやはり礼儀として返事を出さないわけにはいかない。また、事情を知らずにAさんに賀状を出してしまう友人、知人のことを考えると申し訳ないという気持ちもあるのだろう。
 Aさんは、最後の年賀状のなかで、あれもこれもみなさまのおかげです、と感謝の言葉を述べている。

 人は自分の寿命はわからないし、将来など予測もできない。だから、流れに身を任せていくという生き方もある。しかしAさんは、できる限りある種の方針をもって、さまざまな場面に対処してきた。言い方を替えれば、意志を持って「決める人生」を貫いてきた。
 だからこれにて賀状を最後にすることを決めたのである。もう賀状をいただけないかと思うとさびしい気はするが、新年早々、清々しさをいただいたと思うことにした。

世界三大“当たり前”ー 元旦の海と病院

水曜日, 1月 2nd, 2013

 元旦の湘南海岸は穏やかで、適度なサイズの波に“初乗り”するサーファーたちが集まった。空気は澄み富士山もくっきりと青空に映えた。私は自転車で茅ヶ崎海岸を江ノ島の方に向かい、ヘッドランドといわれる広い浜に下りた。陽の光が粒のように反射する海面に浮かび、波をとらえて滑るサーファーたちを眼を細めてしばし眺めていた。
 こういう瞬間だけは気が休まる。「やっぱり海はいいね、自然はいいな」と、まったく“ベタな”な言葉が浮かんでくる。

 家に戻り、「のんびりとしたいい正月だ」などと家人にいいながら、ふと、元日でも働いている人はたくさんいるし、さらに、病院で正月を過ごす人もかなりいるんだろうなと、この気分を味わえない人たちに同情した。
 そんなことを思ったからではないだろうが、夕方になってとんでもないことが起きた。車で小一時間ほど離れた所に住む母親がなんと入院することになってしまった。80歳を過ぎている母親は年末に、やたらと眠りはじめ、おかしいことを言うようになったという。

 近頃物忘れが激しくなり、コミュニケーションもややうまくとれないことがあったし、認知症の疑いをもっていたので、それが形を変えて表に出たのか、と最初は思った。しかし、少し頭が痛いといっていたこともあったので、心配になり病院に連れて行くと、「CTを撮った方がいいでしょう」ということになり別の大きな病院へ。
 結果は、脳内で出血していることがわかり即入院、集中治療室に入った。一時はどうなることかと思ったが、一夜明けて幸い容態は安定し、会話もできるし体の麻痺などもないようだったのでまずは安心したが予断を許さない状況にはある。

 母親は、元旦の午前中もほとんど眠っていたので、せっかく用意したおせち料理も食べないまま、入院。しばらくして「お腹がすいた」といい、翌日の朝も出された食事に、「これしかないの?」とがっかりしていたようだが、まだ“食い意地”が正常に残っているところでこれも一安心ではあった。
 おそらく本人にとっては、出産以外では初めての入院で、それも元旦ということで「なんでこんなことになったのか」と、訳がわからず混乱したようでもあった。

 昨年は、親しい友人、知人が4人入院して、手術を受けた。私は暮れに胃と大腸の内視鏡の検査を受けた。ひょっとするとどこか悪くて、自分も手術なんて事になるのかもしれない。そんな心配もしていたが結果は大きな異常はなく、少し安心して年を越したが、こういう形で元旦から“入院”が身近なものになってくるとは・・・。まったく人生は予想外な事がいつも起きる。

 二日の天気は晴れたが、一転して南風が砂浜を巻き上げるほど吹いた。一方、母親の容態は安定した。「自然の美しさ」、「健康の大切さ」、そして「世の中何が起きるかわからない」という、世界の“三大当たり前”をしみじみ感じた年の初めであった。