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懐かしき師走の高揚

金曜日, 12月 7th, 2012

 デパートをはじめまちなかにクリスマスの飾りが目につき始めた。レコード会社はいつものようにクリスマスアルバムを送り出す。いまそのひとつ、リリースされたばかりのロッド・スチュアートのCD『メリー・クリスマス、ベイビー』を聴きながらこの話を書いている。
 ちょっと濃すぎるパフォーマンスには引いてしまうが、独特のハスキーヴォイスがいい味を出している。彼くらいの大物になるとアレンジャーもミュージシャンももちろん一流で、ムーディーに流れるだけではない、小粋な仕掛けがある。

 こういうアルバムを聴きながら、師走を迎えると複雑な気持ちになる。子供の頃、クリスマスから年を越えて新年を迎える10日間は、なんともいえない温かな高揚感があった。しかしいまは、それほど普段と変わりなく師走が過ぎていく。

 子供の頃、通った幼稚園がバプテスト教会で、キリスト誕生劇などを演じたりしたこともあって、幼い頃から自然とクリスマスがもたらすイベント気分は体にしみついてしまった。あとで思えば、クリスマスは西洋文化への一つの入り口のようなところでもあった。
 ケーキにプレゼント、そしてパーティー。畳とこたつの部屋を飾り付け、ポータブルのレコードプレーヤーで、アンディー・ウィリアムズのうたうホワイト・クリスマスを聴きながら、ケーキの蝋燭に火をつける。部屋の明かりを消して火を吹き消す。そして、クラッカーを鳴らして「メリー・クリスマス!」。

 クライマックスは、プレゼントの交換だろうか。こうしたパーティーは、学校のクラス単位で行われることもあれば、仲のいい友人たち同士集まって、だれかの家で騒いだものだった。
 大人たちも浮かれていた。高度経済成長期、三角帽子を被っていい気分のサラリーマンがまちなかを千鳥足で歩いていた。電車のなかでも三角帽はみかけた。勤め人だった私の父は、家にクリスマスケーキを買って帰ることになっていて、ケーキを持ち帰ったのはいいのだが、酔っ払っていたので箱をつぶしてしまったことがあった。
 ケーキはぺしゃんこ。無様な話だが、それも今思えば、ほのぼのとしてささやかな豊かさの表れだった。

 地元のコミュニティーFMでは、このところずっとクリスマスソングを流している。そのなかでときどき顔を出すのが「蛍の光」。さきのロッド・スチュワートのアルバムにも入っているが、この時季の定番のようだ。
 もともとはスコットランドの民謡で、原題は「Auld Lang Syne(オールド・ラング・ザイン)」。「遠い昔」と言った意味だ。この地の有名詩人ロバート・バーンズがいまにつたわる詩をつけた。日本では、稲垣千頴が独自の詞をつけ、「蛍の光、窓の雪~」と、別れの歌の象徴のように、卒業式などでとりあげられている。

 しかし、「オールド・ラング・ザイン」の歌詞が意味するのは、これとは逆で、旧友と昔のよき日を偲び、杯をあげ、友情を確認するといったものだ。いろいろな有名歌手がうたっているなかで、私は、ジェームズ・テイラー(JT)のクリスマス・アルバム『JAMES TALOR at Chiristmas』(COLUMBIA RECORDS)にあるヴァージョンが気に入っている。
 このアルバム、ナタリー・コールとデュエットの「Baby, It’s Cold Outside」も実に洒落ている。クリスマス・アルバムとしてカーペンターズの『Christmas Portrait』と比べて甲乙つけがたい。
 薄れてしまった師走の高揚感のなか、せめてこうしたアルバムでも少しの間聴き続けてみることにしよう。
   

海辺のコンビニ、いじらしい猫

火曜日, 11月 27th, 2012

 ときどき早朝散歩に出る。国道134号をわたって海沿いの遊歩道を江ノ島の方に向かって自転車でゆっくり走る。見晴らし台までだいたい10分。そこで波のあるときは、サーファーたちをしばらく上から眺めている。

  うねりが来ると、ボードを反転させ態勢を整えてパドルをはじめる。やがて波に押されるが、ここでうまく波をつかまえる者と、何が悪いのか波をつかまえられない者に分かれる。うまくいったボードは波とともにスーッと海面を滑っていく。
 不思議なもので、何度見てもこれは飽きない。どれ一つとして同じ波がないからだろう。とはいってもいつまでもそうしているわけにはいかない。来た道を西へ向かって戻る。晴れた日は、真っ白な砂糖をかぶった洋菓子のような富士山が姿を現す。

 漁港の近くまで戻り、ふたたび国道を渡るとコンビニの前に出る。ときどきここになんとなく立ち寄っては野菜ジュースや肉まんなどを買い、新聞各紙の1面の見出しを見る。

 あるとき、店内に入ろうとすると一匹の猫がいる。どこにでもいるような白と黒っぽい毛がまじった小さな猫だ。早朝で人の出入りはまだほとんどない。猫は、両開きのガラス戸の前のちょうど真ん中に座って、だまってガラス越しに店内を見ている。

 その向こうは、猫にとってはきっと食べ物の宝庫に見えるのだろう。中に入りたいのだろうが、そこは礼儀をわきまえているようでただいじらしくじっと座っている。店内の客が出てきても入れ替わりに入ろうとはせずさっと離れてしまった。しばらくみていると、またしばらくして入り口の近くまでやってきた。
 私は別に猫好きではないが、この猫のしぐさには何か同情を誘うようなものがあった。ショーウィンドウ越しにトランペットをずっと眺めているような黒人少年の逸話をふと思い出した。あれはサッチモのことだったろうか。
 その後もコンビニに行くたびに猫を見かけたが、実はもう一匹似たような大きい猫もいることがわかった。年配の女性の店員に二匹のことを聞いてみると、「野良なんです。でも、いついちゃって」と、優しい顔をした。

 その後、二匹はこのコンビニの飼い猫のようになって、いまではすっかりリラックスして暮らしているようだった。しかし、飼い猫として認められたとはいえ相変わらず節度は守ると見えて、けっして中に入ろうとはせず、ガラス戸の前でじっと中を眺めている。
                            

奄美と月明かり、朝崎郁恵ライブ

月曜日, 11月 12th, 2012

 沖縄を太陽にたとえるなら、奄美大島は月だろう。緑濃く潤いのあるこの島には燦々と降り注ぐ太陽の陽射しより月明かりがよく似合う。その奄美大島にひっそりと寄り添っているのが加計呂麻島だ。
 虫を食った枯葉のようだと、この島に縁の深い作家、島尾敏雄がいいあらわしたように、いくつもの入り江と集落がまわりに点在する。その一つ、花富(ケドミ)で生まれ育った島唄の名手、朝崎郁恵さんは、この11日で77歳の誕生日を迎えた。
「島唄をうたって70年になります」という朝崎さんの喜寿の祝いのコンサートが、同日、池上本門寺で開かれた。
 彼女と取材を通して知り合ってからもう10年になるだろうか。この間、都内をはじめ、奄美大島や加計呂麻島などさまざまな場所で、独特の揺らぎをもつ声による島唄を聴いてきた。
 そもそもは、彼女が歌った「十九の春」のルーツを調べることからはじまり聴き始めたのだが、それを機に長年聴いていると、取材にまつわるさまざまなことが思い出され胸が詰まった。
 
 久しぶりに生で聴く彼女の歌の力は年齢に比してまったく衰えなどない。何度も聴いているから、島唄もすっかり耳になじんでいるし、今回は今年5月にリリースされたアルバム「かなしゃ 愛のうた」から、ベース、ギター、ブルースハープ、楽器とのコラボレーションも実に自然にきこえる。
 バンジョーの城田純二、ブルースハープの松田幸一、ベースの天野SHO、そしてピアニスト吉俣良とともに、うたう島唄「浜千鳥」は、斬新だった。母親を思って泣いている浜千鳥。泣いてばかりいてはだめだよと。
 その気持ちが優しく揺らぐ朝崎さんの声にのり、せつないブルーズとして展開していく。ブルースハープの音色がこの情感を増幅させる。島唄はブルーズでありブルーズは島唄でもあると感じさせる瞬間がある。
 
 その一方で三味線のタナカアツシをバックにした「曲がりょ高頂」という唄はいかにも素朴な島唄らしさがある。人目を避けて暗い山のなかで逢う男女の心を描く。むずかしい島唄だとかつて朝崎さんから教えられたが、奄美の深く暗い山を想像しながら聴いてみた。
 奄美の民謡を吉俣が編曲し、彼女が詞をつけた「あはがり」という曲は、「この世は仮の世」といいながら少ない時間の尊さをうたう。これはNHKの番組「新日本風土記」のテーマにもなっている。
  童謡にも挑戦している彼女は、最後に「ふるさと」を披露した。日本人が心に描くふるさとの原風景が加計呂麻島にはある。合唱のように声を張り上げるのでなく、子守唄のようにやさしくうたいかける。
 しんみりと心に響くのはいうまでもないが、さて、自分のふるさとはどこなのだろうか、まだ、ふるさとと呼べるものがあるのだろうか。そんな寂しさが美しさ裏に隠れて心の穴を吹き抜けていった。

琉球独立

火曜日, 11月 6th, 2012

 またしても沖縄で米兵による事件が起きた。11月1日の深夜、今度は酒に酔った若い米兵が民家に侵入しその家の中学生を殴りケガをさせたという住居侵入・傷害事件だ。前回の強姦致傷事件のときもふくめこれだけ基地があることに起因する問題を目の当たりにしながら、驚くべき反応が日本人のなかにある。
 それは、「沖縄の人には気の毒だが、日本の安全保障のために我慢してもらうしかない」という意見だ。国家の安全保障というが、つきつめれば国家を盾にした自分の身の安全のためだろう。
 加えて、こういう意見の人は自分が一番大事だから自分のところに基地を引き受ける気持ちなど毛頭ない。長年にわたって同じ国民として明らかに不利益を被っている人がいるのに、それを是正しようとしないで成り立つ安全保障は、民主国家としておかしいし、第一だれかの痛みの上に自分の安全を確保して気持ちがいいだろうか。
 日本人に不利益な日米地位協定を見直すことはもちろん、基地の縮小を実現しなければ事態は変わらないだろう。

 沖縄ではいま「琉球独立」の動きさえある。先日、龍谷大学の松島泰勝教授が、毎日新聞のインタビューのなかで、独立も現実的な選択として考えざるを得ないと話している。
 パラオ、ツバル、ナウルといった太平洋に浮かぶ小国のように、沖縄よりはるかに規模が小さくても独立している国を例に挙げるなどし、独立は不可能ではないという。

 昨年沖縄で話を聞いた沖縄国際大学野球部監督の安里嗣則さんは、野球をはじめさまざまなスポーツの大会の開催地として沖縄は国際的に大いなる可能性があるという。
 また、これまで返還されてきた基地は再開発によって基地以上の経済効果を生んでいるという実証データもある。つまり、基地がないと経済的にやっていけないなどというのは乱暴な論だということだ。
 松島教授らは10年に「琉球自治共和国連邦独立宣言」を発表、政治・経済学、国際法、民族学、社会学など幅広い分野で組織する琉球独立総合研究学会が来年度の発足を目指しているという。
 その歴史は古い、琉球独立論の現実性を今後探ってみたい。(9月24日毎日新聞参考)

屈辱的な事件に怒りはないか

火曜日, 10月 23rd, 2012

  オスプレイ問題にひきつづきとんでもないことがまた沖縄で起きた。若い二人の米軍兵による日本人女性への強姦致傷事件だ。あるテレビの報道番組が、容疑者の一人の故郷テキサスを訪ね、彼の友人へインタビューをした。
 友人は、容疑者は女性に対してそんなことをする男ではなかったと、容疑者がもともと健全な人格であったことを語った。
 もしその通りなら、彼は軍人になったことが原因で女性を襲うような人間になったのか。それとも、沖縄という異国の基地のまちで、相手が日本人女性だったからたいした罪の意識なく犯行に及んだのか。
 軍人という身分が保護されていると意識していたのか。故郷のアメリカ人の白人女性に対してだったらそんな卑劣なことはしなかったのか。

 いずれにしても、彼らがこれまである程度普通の人間だったなら、これまで米軍兵が引き起こした沖縄での数々の事件とそれに対する沖縄の人の気持ちなどほとんど意識になかったことは容易に想像がつく。
 アメリカは事件について綱紀粛正を強めるというが、根本的解決策としては米軍の大規模な縮小か撤退以外にありえないだろう。それでも事件後ルース駐日米大使は「私にも25歳になる娘がいる、個人的なものとして、多くの人がこの事件に対して抱く怒りを理解している」と、声を詰まらせコメントした。

 また、沖縄県の仲井真知事は「正気の沙汰とは思えない」と、怒りと悲しみの表情を浮かべた。それに対して、野田首相はまず最初に記者に感想を聞かれてなんといったかといえば、「あってはならないこと」だった。
 同胞が屈辱的な乱暴を受けて、こんな紋切り型の言葉しか最初に出てこないのだろうか。気持ちの問題だ。

 この言葉からだけでなく、震災の被災者、拉致被害者、そして沖縄の人たちという生身の人間としての国民の怒りや悲しみを共有して、守っていこうという気持ちが政治家から感じられない。だが、それは政治家からだけでなく国民全体からもあまり感じられない。
 国の安全保障のために、日本のエネルギーの安定供給・経済成長のために・・・。その大義(実際は一部の集団の利益やイデオロギーのカモフラージュでもある)の下に結果として蹂躙されてきた個人としての国民の生活のなんと多いことか。
 沖縄については、この際せめて日本全国の学校教育の現場で沖縄の歴史を必修として、生徒が学ぶようにしたらどうだろうか。 

沖縄の実態を想像しよう

月曜日, 10月 15th, 2012

  私の家は、三階建てのマンションの駐車場と細い道路を挟んで接している。ここは袋小路なので、マンションに用のある宅配便などは、この駐車場でUターンして出入りする。 小刻みな時間帯で、荷物などを授受できることで、ずいぶん便利になったと思うが、その一方で頻繁に出入りする自動車の音が気になる。はっきりいってうるさいと感じることもしばしばだ。 

 音の問題は個人差はあるが、一度でも飛行機の離着陸する基地のそばに行ったことがある人なら、その騒音は耐え難いものだと身に染みるだろう。日本中のこうした基地、とくに沖縄の普天間周辺の人は、この騒音と日々つきあい、万一事故が起きたらどうしようという精神的な不安と緊張感を抱えてきた。

 いままでさんざんそういう思いをしてきたから、オスプレイの配備についても拒否反応を示すのは当然だろう。特定の軍備についての安全性という問題ではない。戦時中から沖縄が本土の防波堤と位置付けられ、地元では日本軍からも同じ日本人とは別の扱いを受けた記憶をもつ人は少なくない。

 さらに戦後の占領下はもとより、返還後も基地がある事によって起きた米軍兵による犯罪の被害を受け、なおかつ公正な処罰が受け入れられなかったという多くの事実があるのはいうまでもない。
 そういう歴史のなかで、アメリカの要求するままに沖縄に負担が増えるという危惧を及ぼす政策が繰り返されることにがまんがならないという気持ちは、沖縄以外の人でも歴史を知り、現地のことを想像してみれば容易に理解できることだろう。これはイデオロギーでも、政治的な問題ではない。
 
 その深い苛立ちを押し切って先日配備されたオスプレイは、さっそく沖縄で住宅地の上空を飛行した。とんでもない話だ。オスプレイの安全確保策を協議した日米合同委員会は「運用上必要な場合を除き米軍施設・区域内のみで垂直離着陸モードで飛行し、転換モードの飛行時間はできる限り限定する」と合意しているのに、もうこれに反している。

 さらにひどいのは、この合意違反に対する玄葉光一郎外相のコメントだ。彼は、10月5日の閣議後の会見で「沖縄に懸念の声があるので、よく守ってほしいと(米側に)伝えた。これから事例を集めてフォローしなければならない」という。
 まるで他人事のような言い方ではないか。これじゃ沖縄の人が怒るのも無理はない。あれだけ問題になっていながら安全性以前の、普通の約束事すら守られず、それを知っても地元の怒りすら代弁できないのである。

 自分の住んでいるまちや故郷が長年にわたって同じような扱いを受けたら、きっと沖縄でオスプレイ配備に反対する人の気持ちがわかるだろう。国益のために仕方ないなどという論が沖縄の基地問題についてはよく展開されるが、長年にわたって同じ国民の平穏な生活をこれほど犠牲にして成り立つ国益とはなんなのか。 

 そういう安易な国益論が、これまで反対者に“地域エゴ”というレッテルを貼ってきた。あるいは生活者からの発想を、イデオロギー的な信条とみなすことで封じ込めようとしてきた。
 本当の地域エゴというのは、安全とわかっている震災の瓦礫を受け入れようとしない市民や、自分のところには基地の受け入れを拒否するくせに、沖縄の基地負担を仕方ないと考えることだ。
 沖縄をめぐってはいま独立論が話題になっているという。日本の国の沖縄に対する扱いが植民地を扱うようなものに似ているからである。  

TSUNAMI と津波

月曜日, 10月 8th, 2012

  昨年の大震災のあと「TSUNAMI」という歌はとても人前で歌える雰囲気にはなかったし、歌う気分にもならなかった。もちろん歌に罪はないし、歌詞も津波そのものとは関係ない。

 しかし津波によって失われた命の数と遺族の胸を引き裂かれるような気持ちを考えれば、歌という一種のエンターテインメントのなかで聴かされるのは、なんらかの抵抗を感じるのは当然のことだろう。

 2000年にリリースされたサザンオールスターズのヒット曲「TSUNAMI」は、切ないバラードを得意とする桑田佳祐の作品のなかでも、「真夏の果実」と並ぶ秀作だ。切なさ、侘びしさを叫び、やがて諦めのように消えて行く。哀しく美しい曲だ。

 この「TSUNAMI」をテレビやラジオで聴くことになるには、どのくらいかかるのだろうかと、震災直後に思ったことがある。それが今晩たまたまテレビで外国人が日本語のヒット曲を歌い競う番組を見ていたら、アメリカの20歳の男性がこの「TSUNAMI」を歌って優勝した。

 番組を通して見て、彼だけではなく日本語の曲をこんなに愛好して、上手に歌う外国人がいかにたくさんいるのかと驚くばかりだったが、「TSUNAMI」が歌われたのにも驚いた。というのは、番組のなかで先にサザンの別の曲も歌われたので、私は「もし誰かがサザンのTSUNAMIを選曲したら、テレビ局は“待った”をかけるかもしれないな」と思ったりした。
 ところが最後に「TSUNAMI」がすらりと歌われたので、その果敢な挑戦に「おー」と感心したのだった。

 日本人だったらタブー視したり、遠慮していたことを、外国人がさらりと言ったり、行動したりすることはときどきある。時にそれは顰蹙を買うこともあるが、因襲に風穴を開けてくれる役割も果たす。

 津波による惨事を知らないわけはないこの日本ファンの若者が、TSUNAMI(津波)という言葉に、どれほどのことを感じていたのかわからない。だが、彼の熱唱はこの歌の魅力を再び教えてくれた。封印を解いたかのようでもあった。
 
 震災に遭った地方でもこのゴールデンタイムの番組を見ていた人は多かったろう。その人たちはアメリカ人の若者が、素晴らしい歌声と感覚で披露したこのバラードを聴いてどう思っただろうか。
 

変わる人、まち、東京タワー

土曜日, 9月 29th, 2012

 ニューヨークで仕事をする古い友人が17年ぶりに日本に帰ってきたので、都心で昼食を共にすることになった。
「景気が悪いって言っているけど、思ったほど東京は変わってないね」。彼はそう言った。

 私の方は、都心に出るのは一ヵ月ぶりくらいで、その日は都内に泊まり、翌日港区麻布台の外交資料館へ調べ物に出かけた。
 閉館までいて外に出ると風が涼しく気持ちがいい。ぶらぶらと夕暮れ時を飯倉の交差点から神谷町の地下鉄駅まで歩くと、途中小路に入ったところで目の前にどーんと東京タワーを見上げることになった。

 なかなかいいバランスで、いかにもタワーと呼ぶに相応しい尖った二等辺三角形を形作っている。しかし、いつもこのタワーをみるとキングコングかゴジラがまつわりついている図柄が頭に浮かぶ。

 相変わらずなタワーに刺激されたのか、いろいろなものが懐かしくなり、その足で昔なじみの神田の飲み屋へ向かった。時々訪れたスポーツ用品店は、サーフィンからスノボーにメインが切り替わっている。飲み屋を訪ねるのは2ヵ月ぶりくらいだった。

 まだ早い時間一人お客がカウンターにいた。アロハを着た初老の男性だ。ビールを注文し、以前よくこの店で顔を合わせた常連さんの話になった。
「○○さんはよく来ますか?」
「ええ、でも今度いよいよ会社辞めることになったらしいですよ」

 どうやら早期退職のようだが、本人も望んでいたことなので、いまは退職後の計画を練っているらしい。南の方に移住するという話は以前から聞いていた。
「××ちゃんは?」。深夜の常連の女性についてたずねた。
「そうね、最近余り見かけないけど・・・」

 短い間の変化だが、なんとなく時の流れを感じた。そのうちカウンターの客が帰った。長年勤めた会社を辞め再就職先を探しているらしい。

 互いにへたくそながら店主とふたりでサーフィンの話になると、私も知る彼のサーフィン仲間が一人ガン治療のためしばらく海を離れたという。
「いつもインサイドで乗っているのが、アウトサイド(沖)にいるから、どうしたの今日はってきいたら、“最後だから今日はアウトから行くんだって言ってましたけどね」と、治療前の海での様子を、店主がやさしく語った。

 大きく見ればそれほど変わらない東京で、人の生活は日々変わり続けている。台風が近づいている。波は上がって海はクローズになる。   

密航船水安丸、移民、O.ヘンリー

月曜日, 9月 17th, 2012

 20世紀のはじめに、主に丹後半島からアメリカ南フロリダに、“農業開拓”のために入植した話を調べているのだが、当時の海外への入植、移住がどのような社会背景で実行されたのかがいまひとつピンと来ない。
 そこで専門家に尋ねようと、移民問題に詳しい知人の神田稔さんを頼ったところ、立命館大学の河原典史教授を紹介された。河原さんは近代の移住漁民について、特に朝鮮、台湾、そしてカナダに渡った日本人について、歴史地理学から研究されているという。

 まだメールでお尋ねしたばかりなのだが、河原さんから新田次郎著の「密航船水安丸」のことを教えていただいき、さっそく読んでみた。19世紀の終わりから20世紀にかけて宮城県からカナダのバンクーバーあたりに漁業移民としてわたった日本人の実話をもとにした物語だった。
 グループをつくって事業を始めた主人公が郷里に戻り、さらに仲間を募って事業を拡大しようと夢を膨らますところや、すでに移民して成功した話を聞いて、“よし自分も”と決意し、渡航する人たちの姿が描かれている。
 
 フロリダに入植した事例も、本書のようにリーダーがいて郷里へ戻って地縁、血縁で人材を募り、集団で渡航する。おそらく夢と理想に燃えて新天地へ足を踏み入れたのだろう。その辺りの事情があくまで推測だが、「密航船水安丸」から理解できた気がした。

 ところで、フロリダ入植のリーダーは酒井釀といって、入植計画を立てたときはニューヨーク大学に留学中だった。20世紀の初めのことだ。19世紀後半からニューヨークは産業、文化が花開き活況を呈し20世紀に入りさらに繁栄する。
 このころニューヨークには日本人の実業家や学者などによる社交倶楽部、日本倶楽部が誕生する。酒井釀も活気を帯びたマンハッタンのなかに学生として身を置き、実業家としての夢を膨らませていたようだ。

 彼の気持ちを推測する上でも、当時のニューヨークの様子について調べてみようと思うが、まったく別の目的でたまたま図書館で借りた「『最後の一葉』はこうして生まれた-O.ヘンリーの知られざる生涯」(齋藤昇著、角川学芸出版)が参考になった。

「最後の一葉」、「賢者の贈り物」など、ウィットとペーソスに満ちた珠玉の短編の数々を創作した作家、O.ヘンリーは、ちょうどこの時期にニューヨークで彼の代表作を書いている。
 ビジネスの華やかな成功譚も数多くあれば、貧しい移民やスラムの生活もあるニューヨークで、彼は人間を観察し、哀しく温かみある物語を読者に届けた。本書によれば、ニューヨークに来た当初、彼はユニオンスクエアのアパートに暮らしていたという。これは当時酒井譲が通った大学からそう遠くない。

 もしかしたらどこかで二人はすれ違っているかもしれない。想像を膨らませると、事実が物語として見えてくるから不思議だ。

靖国と「十九の春」

金曜日, 9月 7th, 2012

 沖縄県の八重山諸島の一つ西表島に戦時中日本軍が駐留していた。可能ならば当時そこにいた軍人を探しあてたい。そういう目的で恵比寿の防衛省・防衛研究所の資料閲覧室を訪ねた。
 戦時中沖縄に駐留する日本軍の概要をどうしらべるかここで教えてもらったが、個別の部隊についての具体的な情報を知りたければ靖国神社の“資料館”へ行った方がいいと言われ、翌日九段下の靖国神社へ足を運んだ。

 8月の終わり、参道はほとんど日影ができない陽射しのきつい午前11時ごろだった。境内に靖国会館という建物があり、その一階が靖国偕行文庫という資料館だった。館内で目的を告げると、担当の方が親切に沖縄の日本軍、そして石垣島を中心とする八重山の日本軍に関する資料や“戦友会”のリスト見せてくれた。

 西表にいた日本の軍人にたどりつくには、そこにどのような部隊がいたかを調べるのはあたりまえだが、実際その人たちの所在をつかむには、“戦友会”に頼るしかないのだ。しかし、どこの部隊にも戦友会があるわけではない。小さな部隊はある可能性が少ない。

  また、現在ある最新の名簿は10年ほど前のもので、部隊によってはその後連絡がつかなくなったことも十分考えられる。残念ながら西表にいたと特定できた部隊(船浮陸軍病院、第四遊撃隊第四中隊など)に限った戦友会などはみつからなかった。 
 仕方なく石垣島にいた部隊の一部や沖縄本島に配属されていた部隊の戦友会を調べて帰ってきた。

 なんのためにこんなことをしているかと言えば、「十九の春」という歌のルーツを探るためである。このルーツ探しを「『十九の春』を探して」(講談社)というノンフィクションにまとめたのが2007年。この時点では結局そのルーツはわからないままだった。
 調べてみればみるほどそれが雲をつかむようなことだとわかったが、出版後もルーツにつながるかもしれない情報を得たままで未調査のことが二つあった。その一つが、戦中に兵庫県尼崎の紡績工場で働いていた沖縄出身の若い女工がこのメロディーを歌っていたという事実だった。
 そしても一つが、西表島で日本の軍人が戦中にこのメロディーを歌っていたという事実である。もしそうだとしたら軍人はどこでこの歌を知ったのか、だれに教えてもらったのか。そういうことがわかるかもしれない、そう思って靖国へと向かったのだった。
 
 正直言って、戦友会を手がかりに少しでも前に進むのだろうかと心細い限りである。それでも試してみたくなるのは、ここまで調べてきた意地のようなものがあるからだが、それ以上に、実は調べる過程でいろいろな知的副産物があるからである。
 今回も日本の沖縄の日本軍についてある程度知ることができた。また、軍人の間で歌われている“軍歌”や“愛唱歌”についてものすごいコレクターがいることがわかった。

 元軍人はかなり高齢である。これからあまり時間を置かずに、沖縄にいた日本軍の戦友会にコンタクトをとってみようと思う。果たしてどれだけの元軍人に連絡がつくか。そしてあのメロディーを聴いたことがあったという人に出会うことがあるかどうか。