優先順位と社会科学

 社会も個人も、常になにか課題を抱えている。数え上げたらきりがないし、ことの重要さにおいて甲乙つけがたいものもたくさんある。しかし、それでも人は一度にたくさんの問題に同じように向かうことはできない。

 だから優先順位というのが大切になる。力の入れようの順番だ。社会で言えば、福島原発の汚染水処理の問題が日本でいま一番力を入れるべき課題だろう。だが、これまでの東電と国の対応をみれば、とても最優先に値するほど全力で対処しているとは思えない。

  東電も国も当事者意識が十分ではない、などと識者もマスコミも批判する。しかし、なぜ十分に対応できなかったのか、その根本原因を見極めないと今後の対応も変わらないだろう。
 
 本来は、最優先課題であれば国がいち早くリーダーシップをとって対処すべきだ。一民間企業の東電に任せられるはずがない。一企業の失敗を国が、国民が肩代わりするのはおかしいなどと言うのは、瀕死の病人を前にして、「日頃の健康管理がなっていないからだ」と、説教をするようなものだ。

 だれの責任だろうが、まずは全力で対処する、法整備もする、そのための負担であれば国民の多数は納得するだろう。しかし、それをしないで東電に任せておいて、ようやく国が腰を上げて対処するという。それもオリンピック招致のために本腰を入れるような感がある。恥ずかしい限りだ。

 もとをたどれば、戦後の長年の自民党政権のときに計画をつくりあげ、推進してきたのが原発建設である。これに関わった政官財(ときにマスコミも含まれた)の共同利害が適正な批判を受けることなく、進めてきた責任は大である。これには一部有権者の責任もあるが、原発事故後との各調査委員会の報告でも明らかなように、原子力ムラといわれる馴れ合いの仕組みのなかで独善的に進められてきた過ちは、政策に関与したものの責任である。
 
 しかし、これをもって「私たちに責任があった」として、立ち向かう姿勢は見られない。逆に、真摯に対応することが、責任があることを認めてしまうかのようにとられるのを恐れるように、中途半端な対応をする。だから、国に責任があるのか東電に責任があるのか曖昧なままになる。
 
 こうしただれも責任をとらない仕組み、集団責任という名の、無人格なものや制度に責任を負わせているような仕組みは、先の戦争の責任を詰め切れない日本社会の体質のようだ。この体質とそれに基づく、社会政策の仕組みを変えないといつも同じ対処の仕方になる。政策決定の公正な仕組みと、失敗や過ちを犯したときの責任の取り方をはっきりさせることが求められているのではないか。

 難しい原発の設計ができてもタンクからの水漏れすら防げない事実は、科学技術の問題ではない。予見できていても、あるいは、こうすべきであるということが想像できても、それを実行しない、実行しなくても済む仕組みと体質があるのだ。これを徹底的に解明する必要があるだろう。
 安全対策に欠陥があったという単純な問題ではない。社会の仕組みに欠陥があるのだ。原発の安全性などの問題についても、自然科学の議論ではなく社会科学的なアプローチで問題の本質をえぐり出す必要がある。

(写真は浜岡原発)
 


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浜岡


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