Archive for the ‘名言, Witty Remark’ Category

Ross MacDnaldの言葉③~「動く標的」から

木曜日, 4月 3rd, 2014

 ロス・マクドナルドの作品のなかで、最初に映画化されたのが「動く標的(The Moving Target)」だ。1966年に公開されたこの映画では、主人公、リュウ・アーチャーをポール・ニューマンが演じている。

 映画は、原作から想像されるアーチャー像との違いに違和感はあるが、舞台の南カリフォルニアの風土や生活様式などはこういうものかとリアルにつたわってくるのも確かだ。

動く標的①

 映画の話は別の機会に書くとして、この作品はリュウ・アーチャーが登場する長編シリーズの第一作である。久しぶりに66年初版の創元推理文庫(井上一夫訳)を読んでみると、アーチャーが若く、行動的でタフでハードボイルド色が濃いことに驚いた。

 一読者としてアーチャーのプロフィールが改めてよくわかった。彼はこのとき36歳で6月2日生まれの双子座。なぜ、警察をやめて探偵になったのか、どうして探偵のような仕事についたのかがわかる。

 失踪した実業家の夫の捜索を依頼された彼は、依頼人の娘を車に同乗させながら、彼女と交わす会話のなかで、自分について語る。霧が晴れて青空が広がるカリフォルニアの丘陵を走る。無鉄砲で魅力的なこの娘とこんな会話がある。


「アーチャー何に追っかけられているの?」 彼女がからかうような調子でいった。
(略)
「ちょっとしたスリルが好きなんだ。自分で制御できる、馴化された危険というやつだね。自分の命はこの手で握っているんだぞという、力を握ったような感じを与えてくれるし、そいつは決して失わないということもわかっている」
(略)
「それで、きみはどうしてそんなにつっ走ったんだね」
「退屈したときにとばすのよ。自分をだますようにしてね。なにか新しいものに出くわすぞと思わせるのよ。むき出しの光り輝いている、路上の動く標的とでもいうようなものよ」

 このあとアーチャーは、あまり度が過ぎるとひどい目に遭うぞと威かす。すると彼女は気にもせず訊いてくる。アーチャーが切り返す。

「男の人って、みんなヴィクトリア時代の遺物みたいなところがあるのね。あなたも、女は家庭にいるべきだと思っているの?」
「わたしのうちにはいないほうがいいと思うね」

 妻に愛想をつかされて離婚したアーチャーらしい。女性は家にいるべきか、どうか。もっともらしい“問い”は、いつしか定型化する。しかし、そもそも“問い”自体がおかしいこともある。「いるべきかどうか」より「いたほうがいいか、いなほうがいいのか」、さらにいえば、「わたしと一緒にいたほうがいいのかどうか」                                  ※

 この文庫本を電車で立って読んでいたら、向かいで座っていた娘がときどき本の方を見上げる。文庫本の表紙のカバーは、映画化されたときのポール・ニューマンの古い写真だったので、それが気になっていたのか。しかし、電車を降りた後しばらくして本を広げてみて気がついた、裏表紙は艶めかしい女の写真

ミランダ

だった。

 これも映画のなかからのカットのようで、アーチャーと会話を弾ませたミランダ・サンプスンの姿態だ。演じたのはPamela Tiffin。60年代風に髪を盛り上げ、胸のあたりがV字のメッシュになっている黒い水着らしきものを着ている。あー、おそらくこれだ。いまどきみかけないこのファッションに“なんだろあれ”と、怪しげに思ったのだろう。

 

 

Ross MacDonald(ロス・マクドナルド)の言葉①

月曜日, 10月 28th, 2013

この夏から、ロス・マクドナルド(Ross Macdonald)を再び読み直してみた。作品によっては3度目になるものもある。ハード・ボイルド・ミステリーとして、ただでさえ込み入ったストーリーの彼の作品は、2度目に読んでもほとんど既読の感がない。
「南カリフォルニアをこんなふうに描いた作家はいなかった」と、批評された彼の世界は、青い空と光り輝くビーチと海のカリフォルニアを舞台に、心に闇を抱えた人たちが織りなす仕方のない哀しさを描く。
主人公、リュウ・アーチャー(Lew Archer)は、事件を追う中でその人たちの心と生活のなかに入り込み、やがて出てくる。彼は深く思い、考え、そして訊ねる。ロス・マクドナルドがアーチャーに語らせる言葉には、この世と人間に対する真実がこめられはっとさせられることがある。
また、アーチャーの目と心を通して描かれるカリフォルニアとアメリカは、光がつくる陰がつきまとっている。
陰を見たがらない人、無視しようとする人、それに気がつかない人には、知ることがない陰=真実を明かす。辛くても哀しくても「本当のことなのだ」、と目をそらさない人がアーチャーとマクドナルドに惹かれるのだろう。

「ドルの向こう側」(The Far Side of The Dollar 1965年、菊池光訳)の最後にこんなくだりがある。一連の殺しの真犯人としてリュー・アーチャーに追い詰められたミセス・ヒルマンが、逮捕前に自害させる機会を与えて欲しいとアーチャーに頼む。しかし彼は「間もなく、警察が来る」と、それを断る。

彼女は言う。
「きびしい人ね」
アーチャーが応える。
「きびしいのは、私ではないのです、ミセス・ヒルマン。現実が追いついたのにすぎないのです」

この先、ときどきリュウ・アーチャーの言葉を紹介していきたい。

誤った「理解」

木曜日, 5月 17th, 2012

 人はなかなかわかり合えない。人間は歳をとってもあまり進歩しない。ちかごろ常々そう思う。

 だから、ある本のなかで紹介されていた哲学者ヘーゲル(1770~1831)の言葉に出合ったときは“深い”と膝をたたいた。
 ヘーゲルの言葉といえば、「理性的なものは現実的である。現実的なものは理性的である」などが有名だが、こんな意味深なことも言っていたのだ。
 曰く、
「わたしのすべての弟子のうちで、たったひとりだけがわたしを理解した。そして、そのひとりは、わたしを間違って理解した」

 間違った理解も理解のうちなのか。わかるとはなんなのだろう。