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後藤さんの死を超えて~彼だったらどうしてほしいだろう。

後藤健二さんの最後の気持ちを想像すると、ただ胸が詰まる。イスラムの敵ではなく理解しようとしてきたジャーナリストとして誠実に行動してきた人間を、死の恐怖に陥れ、そして殺害するという行為を非難しようとすれば、怒りで汚らしい言葉しか見つからない。

では、この怒りを越えて、何ができるか、何をしなければならないか。それは後藤さん、湯川さんの二人の死をどう教訓として生かすかを冷静に考えることではないか。安倍首相は、この行為に対して償わせると言った。
犯罪を行ったものへの償いをさせることに異論はない。強力な特殊部隊などが仮にいたとしたら、イスラム国に潜入し、犯人に天誅を下してほしいくらいだ。ただし、イスラム国だけに限った償いをさせることができるとしたらである。

アメリカや有志連合による空爆をはじめ、対イスラム制裁の軍事行動を強化した時、イスラム国の出方によっては民間人に犠牲者がでることは十分考えられる。後藤さんらとおなじように死に、後藤さんの家族と同じように悲しむ人がたくさんでることになる。
さらに言えば、後藤さんはある使命感と覚悟をもって自ら危険地帯へ赴いたはずだ。これに対して攻撃にさらされた地に暮らすような人々の不幸は、まったく意味も分からず突然訪れるものであり、自分の意思とは関係のないところでただ殺されることになる。そうした事態を招くことは後藤さんの望んでいたようなことではないだろう。

時代を少し遡ってみよう。2001年の9.11以降に、アメリカが行ったタリバン攻撃のためのアフガニスタン空爆、2003年からのイラク戦争で、誤爆などによりいったい関係のない一般市民がどれだけ死んだことか。
2002年7月1日には、アフガン南部への米軍空爆で、結婚披露宴中の人たちを含む民間人が少なくとも48人死亡した。アメリカは「それは事故だ」と、誤爆であることを認めた。これはほんの一例である。
イラク戦争では、アメリカがファルージャ掃討作戦を始めた2004年4月5日から6月3日までの間で戦闘やテロで死亡したイラク人は1100人以上であると当時イラク保健省がまとめている。このうち14歳以下の子供も81人含まれる。これでも一部である。

空爆や市街地での地上戦などを行えば民間人に犠牲がでるのは明らかである。しかしそれがわかっていて実行する。それを日本政府は積極的に支援した。その政府を選んだわれわれは、「正義の戦い」による誤爆によって、まったく戦闘と関係のない民間人が多数死んでも仕方がないと思っていたことになる。

だとすれば犠牲者の遺族は、どう思うだろうか。後藤さんや湯川さんの遺族が悲しむように、多数の人が憤り悲しみ、その怒りの矛先がアメリカとその同盟国、そしてその国民に向いたとしても仕方がないことは、彼らの立場に自分を置いてみればたやすく想像できることだ。つまりわれわれは誤爆などについては間接的に加害者の立場にいる。

そんなことを言っても、日本人全体をいまやターゲットにしているといっているのだから、殲滅しなければ国民、国家が危険にさらされる、という声がかならずでてくる。物事を単純化すればその通りだ。また、単純化は理解されやすい。だがそれは、ただ自分の身が危ないから、まず何とかしたいといっているに過ぎない。それによって誰かが傷ついたとしても見て見ぬふりをする、あるいは考えないという姿勢だ。イスラム国と同様とまではいわないが、似たようなものだ。

では、どうするのか。簡単にはわからない。しかし、まったく誰も傷つけないことは不可能だとしても、最小限に抑えながらイスラム国を弱体化し殲滅に追い込む方法を徹底的に議論してみたらどうだろう。今回、後藤さんを救出するために世界各地でインターネットなどを通じてメッセージが広がった。
こうした手段をつかって、彼らの言語で、いかに彼らが罪深きことをしたかということを健全なイスラム社会の力を借りて世界に発信し続けることなども一つだろう。彼らがいかに非道なことをしたか、後藤さんという貴重な人材を失ったことをわれわれの悲しみや怒りが、イスラム国の人間よりはるかに大きいかを延々と知らしめることだ。
なにやら、自分たちが被害者で、怒りをもって正義を行使するようなことを言っている彼らに、もっと激しい怒りをもって対処することだ。
罪深い、非道な相手に償わせるのはいい。だが、安易な方法で敵対方法にでて、われわれもまた償いを背負うような側に立つことは避けたい。この際、後藤さんだったらどうしただろうか、いま、天国でどうしてほしいと思っているか。それを考えてみようではないか。そしてじっくりイデオロギーを超えて議論を煮詰めてみたらどうだろう。

※  ※
湯川遥菜さんの父親が、後藤さんの死を知り嗚咽していた。息子を殺された悲しみと、息子を助けに行った人が殺されたことへの申し訳なさと悲しみ。息子が人質になったときに、自分の育て方が悪かったと詫びていたが、いったいこの父親になんの謝るべき理由があるのだろう。湯川さんは立派な大人である。二重の悲しみを負ったこの人もまたまぎれもない被害者のひとりである。罪もない人を殺した側が何より責められることを忘れてはならない。

テロと誤爆、そして人質

フランスでのテロ事件に次いで、シリアでの日本人人質事件。アメリカをはじめとした先進諸国が封じ込めようとした勢力が、形を変えてテロを拡大させてきた。

何の罪もない人間を殺害する狂った暴力には、怒りと嫌悪を覚えるが、一方で果たしてそうした暴力はテロ組織からのものだけなのかという思いが浮かぶ。

暴力を受けたのが先進国の人間だったり、その行為が先進社会で起きた場合、当然反響は大きくなる。しかし、たとえばアフガニスタンやイラクなどで、アメリカやそれに同調する側が一帯となって行ったテロ掃討作戦などによる現場の実態は、よくわからないのがほとんだ。

自分の目から遠いところで起きている、あるいは、心情的に遠い人たちについて起きている悲劇に対して、人は関心が薄くなるのが常だ。だから、たとえば反テロ攻撃で、空爆して、誤爆だったということで何の関係もない住人が死んだり傷ついても、ひどい話だとは思っても、何十万人もの人がデモをしたり国際社会が一斉に怒りをあらわにすることもない。

犠牲者の家族にしてみれば、正義の戦いのための「誤爆」か、テロ行為によるものかは関係ない。ただそんな目に遭わせた側に憎しみが募るだけだろう。遠いところにいる人たち、なじみのない人たち、力のない人たち、そういう人たちの被害が、どれだけそうでない人たちと比べて世界に届けられたのか。

だが、そういう人たちのことを取材して広く知らせようとしたのが、今回人質になった後藤健二さんだった。このことをどう考えたらいいのか。

負けるなローラ :池に落ちた犬に石を投げる社会

タレントのローラに同情する。バングラデシュ国籍の父親が詐欺の疑いで逮捕されたことで彼女は「本当に申し訳ありません」と謝罪した。
父親の不始末をなぜ娘が謝る必要があるのだろうか。出来の悪い父親をもったことは彼女のにとって不幸で、彼女はむしろ被害者だ。自分がひどい目に遭っているのに、自分のせいでないことに頭を下げなくてはいけない。そしてそれを当たり前のことのように思っている世間がある。

犯罪者の家族は、なぜ責任を感じる必要があるのだろうか。たとえば、秋葉原の無差別殺人のKの弟は自殺した。弟が兄の人格に人殺しをするまでの悪影響を与えたわけはない。こうした兄を持った弟はむしろ被害者である。それが自殺に追い込まれる。

佐世保の同級生を殺害した少女の父親もまた自殺した。父としての責任と苦しみから逃れられなかったのか。この場合、彼女を一人暮らしさせていたとかいろいろ責任を問われる報道があった。
責任がないわけはない。しかし、殺人を犯すまでのことを予想できただろうか。親の教育責任という点では、世の中虐待を含めてひどい親は腐るほどいる。その子供たちが凶悪な犯罪を犯すとは限らない。
自殺した父親に対して、「責任逃れ」という批判の声が上がった。確かにそうかもしれないが、死に至る苦しみなど顧みられることはない。
近しい人間の罪と自死との関係という点では、STAP細胞研究の笹井芳樹教授の事件も同種だ。責任の重みに耐えられず自殺したのか。彼は自殺に追い込まれるほどひどいことをしたのだろうか。中学生の息子に暴力をつづけ自殺に追いやった父親が逮捕された。自殺してしかるべきはこういう人間だが、こういう人間に限って自殺などしない。

この世には犯罪者の家族は数えきれないほどいる。責任を負う必要もないのに責任を感じ、後ろめたい思いで暮らす人がどれほどいることか。それは運が悪かったということなのか。彼らの多くもまた被害者である。

それを世間は、池に落ちた犬に石を投げつけるような態度にでる。冷たい社会ではないか。

戦争論、地獄変、高橋和巳

 

 戦争を振り返る季節を迎え、ヒロシマ、ナガサキの原爆記念日が来て、被爆の惨状が思い起こされ平和への願いが語られる。

重要なことだが、その一方でいまもどこかで戦争があり被害がつづいている。ガザではこうしている間にも子供たちが傷ついている。そして攻撃の手を緩めないイスラエルを否認しはしないアメリカにわれわれ日本は同調している。

69年前の惨禍を痛む被害者でありながら、当時は圧倒的な加害者であり、いまも間接的な加害者であるかもしれないわれわれは、ヒロシマ、ナガサキを語るときに同時にそのことに触れなければ説得力ある平和への願いとはいえないのではないか。

われわれは真に戦争を検証し反省してきたのだろうか。半世紀も前のエッセイ「戦争論」で作家高橋和巳は、ヒロシマの原爆慰霊塔の石碑に刻まれた言葉、
「安らかに眠ってください。あやまちはくりかえしませぬから」

に、強い違和感を示している。いったい何を過ったというのか。戦争は過失ではない、国家的確信犯罪であると断罪する。総じて国民が何かを過ったのではなく、国家が犯した罪である。しかしそれはいとも巧みに戦後政治的な領域で処理されてしまった。
繰り返すが、半世紀前にいわ れたことである。

戦争や紛争の報道をみつづけるのが嫌になってくる。ガザの子供らへの爆撃の様子をいかに臨場感をもって伝えられても、それを止める手立てがなにもないからだ。もう現状報告だけならやめてくれといいたくなる。その後でなにか個人ができることをマスコミは示してくれないか。
日本政府は何をしていているのか、その政府に対策を取らせるためにわれわれは何ができるのか、報道の域を超えているかもしれないが、なにか個人にできることを示してもらえないだろうか。凄惨な状況をリアルにただ眺めているに過ぎず、すぐそのあとにビールでも飲みながらバラエティー番組に興じ、どこかで己の平和を感じ取っているのでは、他人の不幸を肴にしているのとおなじである。

高橋和巳は、1965年に「見る悪魔」と題したエッセイのなかで、ヴェトナム戦争における日本のジャーナリズム作品についての“齟齬感”を語る。ヴェトナム戦争に対して行為者としての自分の無力を認めながら、表現者としての姿勢を問い詰めるなかでのことだ。
齟齬感の在処は、ひとことでいえば、書かれる側、見らえる側の立場、視点と表現者のそれとの乖離である。たとえば広島の慰霊塔の前で焼香する遺族の顔を30センチばかりの至近距離でとらえるカメラについて、「人々がなにか大事なことを考え落としている事実は否めない」と警鐘を鳴らす。

地獄変

高橋は、芥川龍之介の小説「地獄変」を思い出して、この乖離について語る。それは、酷いものでも平然と 芸術として描く老画家が、最後は大殿様の命よってだが、自分の寵愛する娘が焔に焼かれて苦しみ死ぬ姿 を描写し芸術とする悪魔的な精神のあり方を書いたものだ。ここから芥川のテーマである芸術至上主義を考えさせ、議論も引き起こされるが、高橋は別の角度から問題を提起する。
「老画家が娘の焼け死ぬのを描写している時、焼け死ぬ当の娘がどういうつもりで父を睨み返していたかということを私たちは常に考えおとしがちなのである」
ガザで爆撃に傷ついた子供をカメラがとらえる、ということは子供もまたカメラを見るかもしれない。その子はどういうつもりで見返していただろうか。
地獄変の老画家は、その“地獄絵”を描き終えたのち、自ら命を絶つ。見続けるだけのわれわれは、やがてこの老画家のようにならないともかぎらない。

大雪と無人店舗

 滅多にない首都圏の大雪は、滅多にない予想外の出来事をいくつももたらした。知人の家では、屋根から落ちた雪が隣家の駐車場の屋根を壊し、隣人が“どうしてくれる?”と、苦情を言ってきた。確かに知人の家から雪は落ちたのだが、降雪は自然現象でその量はよくあるとはいえないほど大量だった。

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横浜・馬車道付近で

 道路に雪が積もれば、通行のじゃまになるから雪かきをしなくてはいけない。わが家の近所でも、どこもみんな出てきて慣れない雪かきをしていた。自分のためでもあるが、自分の家の前だけ雪が残っていては、近所に迷惑がかかるから仕方のないところもある。

 こういうとき雪かきをしていないところが顰蹙を買うのはいうまでもない。商店街をみると、個人商店はほとんどみな店先がきれいになっているが、都市部で私が見た範囲では事業ではかなりの雪を残しているところがあった。

 そして、もっとも最後まで雪が残っていたのは、消費者金融の無人店舗だった。現場には会社の人間はいないからしかたがないとはいえ、わざわざ雪かきに来るような気の利いたことはしないのだろう。
電車に乗れば、車内の広告モニターでは、頻繁に“金貸し”の宣伝が流れ、有名俳優たちが登場するお手軽な金融のポスターがよく目立つ。多額の宣伝費を使って派手にそしてチャーミングに商売を演出するこのビジネスには、雪かきのことなど頭にない。

 地方都市の駅周辺にはもうずいぶん前から潰れた商店のあとに、ポツンポツンと無人の金貸しコーナーが、どぎつい色の看板を出している。いつまでも雪が残るのは、そういう看板の前なのだろう。

「右」と「左」の違いを掘り下げる

あるテーマについて、同じよう意見を持つ人たちは、別のテーマについても同じような意見を持つ。原発に賛成だという人は、沖縄の米軍基地も容認するし、首相の靖国神社参拝は賛成で、中国、韓国は反日であると怒り、秘密保護法には賛成する。

反対に原発に反対だという人は、沖縄の米軍基地は県外にもっていくべきだとし、靖国参拝は反対、中国、韓国とはもっと平和的に交渉し、秘密保護法は反対。少し乱暴かもしれないが、だいたいこういう傾向にある。CIMG1915

これらの問題を判断するにあたって、どうやら共通のある基準があり、それに照らし合わせて意見の方向が決まるようだ。その基準とは、「国家」と「個人」の関係についての考え方ではないだろうか。「全体」と「個人」、もう少し抽象化すると「秩序」と「自由」との関係である。

「個人より国家を重んずる」・「個人の自由より全体の秩序を尊重すると考える」か、「国家より個人を尊重する」・「全体の秩序より個人の自由を尊重する」と考えるかの違いが根本にあって、さまざまな問題について意見が分かれているのではないか。

これが俗に「右翼」、「左翼」といわれることに近いのかもしれないが、それは置いても、根源的に違いがあるのなら、その根源について、互いにどうしてそう考えるのかを徹底的に論じあってみたらどうだろうか。新聞やテレビは、一つ一つのテーマについて、いつもその論点をとりあげるだけだ。表層的でありそれでは解決の糸口は見えてこない。

一例をあげれば、原発が安全かどうかの意見の違いも、科学的な見解の相違ではなく、価値観の問題であるという点から論じたろうどうだろう。立派な識者の専門的な解説、分析も掘り下げればある種の価値観から出発していることがわかったりする。極端な話、幼児期の体験が原点だったりすることもないことはない。

価値観の相違について掘り下げて互いに認識し合うことがなければ、いくら議論をしても解決の方向にはすすまず、互いの正当性をぶつけ合うだけの、議論のための議論に終わってしまう。

「あなたはどうしてそういう考え方をするのか」、「そういう意見を持つようになった根本はどこにあるのか」。それを冷静に、徹底的に掘り下げていかなければ、相手のことなどわからないだろう。

わかる必要がないと思う人なのだろう、ただ自説を正当化する意見を延々と吠えている人がメディアによく登場する。そして、それに同調する人は、目を血走らせて拍手喝采を送る。自分のカタルシスのための議論の行く末がどうなるか、歴史に照らせばわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 安っぽい美意識~国家と国民

元日の午前10時ごろ、自転車で近くの神社をまわった。小さな鳥居と短い参道のある神社やコミュニティーセンターの一角にある社、そして交差点の角の御稲荷さんなど、それぞれに小さないながらも地域の住民に支えられながら新年を迎えて装いを整えている。

無数にある地域の神社や仏閣に、今年も多くの人がさまざまな願いを胸に訪れている。こうした光景をみると、地域の人々が自分たちのものとして社(やしろ)を守ってきたことで地域の安らぎや平和が培われてきたことを痛感する。

こういうことを言うと、「いや、国家が安全だから、国が守られているからこそ、個人生活の安全が保障されている」といった意見が立ち上がってくる。わが国の首相もおなじである。そして、結果として国家全体の安全のためには、個人は多少犠牲になっても仕方ないという理屈ができあがる。

だから、沖縄の米軍基地により永年にわたって被害を受けてきた住民は、我慢を強いられても仕方ないということになる。原発建設も似たところがある。原発がつくられる周囲は、エネルギーの安定供給といった、公共の利益のためにリスクを受忍してもらいましょうとなる。

首相は、国家がまず大事だと信じているので、その国家のために戦い亡くなった人を祀ってある神社はなんとしても参拝する。ここにはA級戦犯も合祀されている。東京裁判をどう評価するかは別にしても、少なくとも国家・軍の指導的な立場にある人間が、その責任をとらなくていい、あるいは一般国民と同様のレベルで戦争の責任がある、などと考えている人は非常に少ないだろう。

また、「国家のため」と言われて死んだ軍人も民間人も無数にいる。そのなかにはもちろん不本意ながら命を落とした人が腐るほどいる。彼らが生きていたら、あるいは彼らの遺族が、A級戦犯を国を代表する首相が参拝することに、嫌な思い、悲しい思いをするのは想像に難くない。
他国がどう評価するかと言う前に、自国の国民に嫌な思いをさせてまで参拝する価値がどこにあるのか。喜んでくれる人がいることを優先するより、悲しい人の気持ちを斟酌すべきではないのか。それなくして彼が描く「美しい国」など、安っぽい美意識を額縁に入れたようなものである。

純粋に英霊の冥福を祈ることは何の異論もない。どうぞご自分一人でひっそりと隠れて参拝し冥福を祈ればいいではないか。参拝したということを世に知らしめたいというのは、英霊のためのではなく、自身の美意識への陶酔ではないか。

「美しい国」という目標をリーダーが掲げることにも異論はない。しかし、そのために個人個人が地道に作り上げようとする“美しい生活”が阻害されるなら、そのどこが美しいのだろう。国家はなくても人は生きるが、人のいない国家などない。
原発対策など喫緊の課題が頓挫しているとき、己の美意識に固執して靖国参拝に情熱をかける時間があったら、街角にひっそりと佇む社をめぐってみてはどうか。

猪瀬直樹、大衆、権力 

馬脚を現す。猪瀬直樹・東京都知事の人品骨柄について、これほどぴったりくる言葉はないだろう。彼が権力志向の強い男で、そのための振る舞いがいかに醜いものであったかということは、多くの人が感知していたところだが、それが今回の5000万円問題で、白日の下に晒された。

醜態の例はあまたあるが、一つだけあげれば、都知事選でテレビでの選挙広報収録時、自分で収録時間を勘違いしておきながら、時間内におさまらなかったことに腹を立て、番組関係者どなりつけたことがあった。女性関係でも、その醜態は知られている。

さて、問題はこんな人格の人間がどうして都知事になれたのかということだ。投じた都民は「そんな男だとは知らなかった」ということになるのだろうが、近くにいた人間、メディアの人間だったら知っていたはずだ。その意味で、一部の週刊誌を除いて、メディアの責任は大きい。

そしてもう一つは、石原慎太郎・前知事の後継者として支持を得ていたということが大きいだろう。良くも悪くも美意識の強い石原氏からすれば、「男として猪瀬というのはなんと魅力のないのことか」と思っていたのではないだろうか。、
しかし、部下としては有能でかつ自分にすり寄ってくる。そうなると、“使える奴”ということになる。問題はここにある。組織のなかで、部下には威張りちらしたり、ずる賢いく人望がなくても、米つきバッタのように強い者にはへりくだる人間は、上司にとっては非常に使いやすく無碍にできないところがあるものだ。

だが、これをみて末端の不満は高まり、組織は徐々に腐っていく。「あんなやつがどうして出世するのか」という例を多くの会社員のみなさんは知っているだろう。多くの人が上司をもち、かつ部下も持っている。猪瀬氏のような人間の本質を上司の側からも、また部下の側からも見抜く力が問われている。

優先順位と社会科学

 社会も個人も、常になにか課題を抱えている。数え上げたらきりがないし、ことの重要さにおいて甲乙つけがたいものもたくさんある。しかし、それでも人は一度にたくさんの問題に同じように向かうことはできない。

 だから優先順位というのが大切になる。力の入れようの順番だ。社会で言えば、福島原発の汚染水処理の問題が日本でいま一番力を入れるべき課題だろう。だが、これまでの東電と国の対応をみれば、とても最優先に値するほど全力で対処しているとは思えない。

  東電も国も当事者意識が十分ではない、などと識者もマスコミも批判する。しかし、なぜ十分に対応できなかったのか、その根本原因を見極めないと今後の対応も変わらないだろう。
 
 本来は、最優先課題であれば国がいち早くリーダーシップをとって対処すべきだ。一民間企業の東電に任せられるはずがない。一企業の失敗を国が、国民が肩代わりするのはおかしいなどと言うのは、瀕死の病人を前にして、「日頃の健康管理がなっていないからだ」と、説教をするようなものだ。

 だれの責任だろうが、まずは全力で対処する、法整備もする、そのための負担であれば国民の多数は納得するだろう。しかし、それをしないで東電に任せておいて、ようやく国が腰を上げて対処するという。それもオリンピック招致のために本腰を入れるような感がある。恥ずかしい限りだ。

 もとをたどれば、戦後の長年の自民党政権のときに計画をつくりあげ、推進してきたのが原発建設である。これに関わった政官財(ときにマスコミも含まれた)の共同利害が適正な批判を受けることなく、進めてきた責任は大である。これには一部有権者の責任もあるが、原発事故後との各調査委員会の報告でも明らかなように、原子力ムラといわれる馴れ合いの仕組みのなかで独善的に進められてきた過ちは、政策に関与したものの責任である。
 
 しかし、これをもって「私たちに責任があった」として、立ち向かう姿勢は見られない。逆に、真摯に対応することが、責任があることを認めてしまうかのようにとられるのを恐れるように、中途半端な対応をする。だから、国に責任があるのか東電に責任があるのか曖昧なままになる。
 
 こうしただれも責任をとらない仕組み、集団責任という名の、無人格なものや制度に責任を負わせているような仕組みは、先の戦争の責任を詰め切れない日本社会の体質のようだ。この体質とそれに基づく、社会政策の仕組みを変えないといつも同じ対処の仕方になる。政策決定の公正な仕組みと、失敗や過ちを犯したときの責任の取り方をはっきりさせることが求められているのではないか。

 難しい原発の設計ができてもタンクからの水漏れすら防げない事実は、科学技術の問題ではない。予見できていても、あるいは、こうすべきであるということが想像できても、それを実行しない、実行しなくても済む仕組みと体質があるのだ。これを徹底的に解明する必要があるだろう。
 安全対策に欠陥があったという単純な問題ではない。社会の仕組みに欠陥があるのだ。原発の安全性などの問題についても、自然科学の議論ではなく社会科学的なアプローチで問題の本質をえぐり出す必要がある。

(写真は浜岡原発)
 

戦争を知ろう-8月15日を休日に 

 猛暑の終戦記念日を迎えて、新聞では戦争にかかわるさまざまな記事が掲載される。戦中の秘話や、戦争で家族や友人を失った人の記憶など、戦後68年を経ていまもなお戦争の影を引きずっている日本人が数多くいることがわかる。
 季節ものの特集のように言われるが、こうした事実を掘り起こし語り継ぐメディアの役割は重要だと、その意義を認めたい。しかし、その一方で日本人は先の戦争の事実についてどの程度客観的に知っているのだろうかという疑問を拭えない。

                       

 まちで20代、30代の若者に8月15日がなんの日かを尋ねたところ、2割以上が知らなかったという結果が、テレビの調査として報道されていた。義務教育の中でも、とくに戦争については授業あるいは学習として触れられていないのが現状だ。
 サザンオールスターズの新曲「ピースとハイライト」のなかで桑田佳祐が、
「教科書は現代史をやる前に時間切れ それが一番しりたいのに 何でそうなっちゃうの?」と、さらりと歌い日本の歴史教育を批判している。

 戦争が現在の日本のあり方を大きく決めたことは、紛れもない事実である。なのに、その戦争の発生前から終結後までの客観的な事実すら、しっかりと学ぶことがない。思想的な対立はあるにせ、最低限の事実を徹底的に学習させることを怠った国の罪は重い。
 その事実を知らずに、自国中心の歴史教育を受けた韓国や北朝鮮、中国から批判を受けると、まずは気分を害して感情的に反発をするという態度が日本の若年層にみられるような気がする。

 沖縄では、毎年6月23日は、沖縄戦が終結した「慰霊の日」として県内の学校は休みとなり県をあげて戦争を振り返り気持ちを新たにする。もちろん、全国的にはこの日は休日ではない。しかし、沖縄の人にとってこの日は特別なのだ。
 翻って、国家の終戦日は休日ではなく、その日がなんであるかも分からない若者が2割以上もいるのが日本の現実だということを、われわれは深刻に考えなくてはいけないのではないか。靖国神社への首相の参拝が相変わらず議論になるが、その議論の意味も無意味さもどれだけ若い人に伝わっているのか。

 わが家の近くの公園に、「戦没者慰霊之碑」がある。数年前に建て替えられモダンなデザインのモニュメントで人目を引くようになった。しかし、これが果たして慰霊之碑だと子供たちは知っているだろうか。
 ときどき、この慰霊碑のすぐ近くでスケートボードやBMX自転車で走り回る子供たちがいる。花火の燃えかすを見ることもある。今朝訪れてみると、周りにジュースの紙パックが二つ捨てられていた。
 嘆かわしいことだが、地域の学校でこの慰霊碑と戦争の犠牲者の事実などをしっかりと教えてあげれば、少しは変わるのではないだろうか。

 えらそうなことを書いたが、私の子供のころも戦争についてなにも学ばなかった。兵隊の経験がある父親が夕食の時に独り言のようにこぼしていた思い出話を、「またか」と、聞き流していたくらいだ。
 日本の戦争については「愚かだった」と、感じていただけだった。だから、テレビでアメリカの戦争ドラマである「コンバット」などを楽しく見ることができた。まだ、戦後20年ほど。よく見れば、戦争のなまなましい記憶に、苦しんでいた人はたくさんいただろう。

 だが、日本は高度経済成長へまっしぐらで、かつ、左右の対立ばかりで、戦争を客観的に検証しようなどというまっとうな動きは、少なくとも一般の国民に知られるレベルではなかった。
 高度な議論も結構だが、まずは広く基本から知りたいところだ。その意味でせめて8月15日を休日にすべきだ。