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2014 青森の夏~深浦高、助っ人を得て出場

火曜日, 7月 22nd, 2014

 

7月に入り、今年もまた青森へでかけた。第96回全国高校野球選手権の青森大会の開会式をみて、翌日六戸で木造高校深浦校舎の試合を観戦した。
雨で一日のびた開会式では、はじめての光景を目にした。違うユニフォームの生徒がひとつのチームとして入場行進をしている。部員の数が少ないため、合同での出場が認められた青森東平内と松風塾の選手たちである。

開会式で入場更新する深浦の選手たち

開会式で入場更新する深浦の選手たち

 

 減少する生徒数にともない、単独で野球部を維持できなくなる学校が増えてきているなか、部員数が不足するチームが合同でひとつのチームとして参加することを全国高野連がみとめたのでこうした光景がみられるようになったのだ。

青森県内での中学校卒業予定者は、2017年から27年までの10年間で3000人以上減少することが予想され、今後の県立高校の再編に大きな影響を与えるとみられている。青森県だけの問題ではないが、同県ではこれまでも生徒数の減少のなかで学校の統廃合や分校化がすすみ、1998年に122対0という記録的な大敗を喫した深浦高校もその後生徒数は逓減し、2007年に木造高校深浦校舎という「分校」となった。

今年の深浦は、4月に新入生が29人と昨年に比べて12人も増え、野球経験者もいることから野球部への入部が期待されたが、ふたをあけてみると新入部員は1人。2,3年合わせて7人しかいないので、大会に出るには頭数はそろわず、仕方なくサッカー部から3人、イラスト部から1人を借りて、なんとか出場にこぎつけた。しかし、助っ人も野球経験はあり、対戦相手によっては勝算は十分あった。
その相手は青森西高校で、チーム力では負けるだろうが勝ち目のない相手ではなかった。試合会場は十和田市より東、太平洋に近い六戸にあるメイプルスタジアム。日本海側の深浦町からは車で4時間近くかかる。

試合前に球場外でアップする

                     

一度戻って出直してくるのはとても難儀であり、選手や監督たちは十和田市内のビジネスホテルに宿泊し翌日午後の試合にのぞんだ。一日日程がずれてしまったため、当初の予定していた全校応援は、自由参加の応援となり、この時期予約がとりにくい大型観光バスをチャーターして、三年生を中心に先生たちを含めて30人ほどがはるばるやってきた。

三塁側、深浦の応援席で声援を送る生徒たちと教頭先生

三塁側、深浦の応援席で声援を送る生徒たちと教頭先生

相手の青森西は、全校生徒は深浦校舎のほぼ10倍にあたる711人だが、この日は応援団やチアガールなど応援席は深浦とおなじくらいの数に見える。それでも華やかなチアガールの声が響き、深浦の選手たちもむしろこの声にいい意味での緊張感を覚えたようだった。
三塁側深浦の一般応援席には、野球部員の父母やOB、それにかつてこの学校に在籍していた先生など20人ほどがあつまった。日差しは強く、風もライトからレフトへとやや強く吹いて、外野の守備が心配されるほどだった。

 試合は先攻の深浦が二回に4番で投手の阪崎がライト前に安打。これを手堅く送ったが、あとが続かなかった。その裏、青森西は三塁線を抜く2塁打のあと、犠牲フライや守備の乱れもあり2点を先制。深浦は三回にも2安打で1死1,3塁の絶好のチャンスを迎えるが、走者が牽制で飛び出すなどしこれを生かせなかった。

一方青森西は三回にも、深浦の内野の乱れと安打に犠打を加えて1点追加、3-0とリードする。その後深浦はマウンドの阪崎が踏ん張って二回を抑えると、6回には打順よく1番西崎から始まり、その西崎と三番キャプテンの中村が安打し、ここで4番阪崎がライト前にタイムリーを飛ばし、西崎が還りようやく1点を返した。

6回表、1死1,3塁の好機を迎える。このあと走者生還。
6回表、1死1,3塁の好機を迎える。このあと走者生還。

 
しかし、その裏四球で先頭打者を出すと連続安打され5点目を献上、ここで投手が阪崎から三塁を守っていた島川に交代するが、さらに安打と味方のエラーもありこの回合計4点を許し、7-1とされた。

 なんとか7点差でのコールドゲームだけは避けたい深浦だったが、7回、8回と先頭打者が死球で出塁するものの相手左腕の巧みな牽制に相次いで刺される。その後に阪崎のセンターオーバーの2塁打が出るなど、タイミングも悪く加点できず、逆に8回の裏に加点されて、8回コールドで試合を終えた。

深浦校舎をさったのちも応援に駆け付けた先生

深浦校舎をさったのちも応援に駆け付けた先生

安打数だけ見れば青森西10に対して深浦8と、差は少ないが結局試合運びと守備の差が得点差につながったようだ。

試合後の選手は、涙を浮かべるものもあり、それなりに悔しさをにじませていたが、投打に活躍の阪崎は、悔いのない表情だった。毎年のことだが2年生のなかには3年生の最後の試合に役に立てなくて申し訳ないという気持ちと、もう少し3年生と一緒に試合をしたいという気持ちを表す生徒がいた。

イラスト部から助っ人で来た佐藤竜太は、試合の迫力と緊張感に手ごたえを感じたのか、野球部に入ることを考えているようだった。しかし3年生4人が抜けた秋の新人戦は、単独チームでは戦えず、となりまちの鰺ヶ沢高校と合同で出場することになるようだ。

しばらく球場外の芝の上で余韻をかみしめ、最後は中村監督や武田部長、古跡副部長ら若い指導陣と言葉を交わした生徒たちは、ともにマイクロバスに乗って深浦への帰路についた。

 

2013年青森の夏、あれから15年

木曜日, 7月 25th, 2013

 長い間、県内2強と言われてきた、八戸学院光星と青森山田がともに敗れ、弘前学院聖愛が甲子園へ初出場を決めたこの夏の全国高校野球選手権記念権青森大会。今回もまた私は、トーナメントのなかで木造高校深浦校舎の試合を観戦してきた。
 
 第95回になる今夏は、減少傾向にあった参加チーム数が70を切った。この先も学校の統廃合や生徒数の減少で、野球部の数は少なくなっていくとみられる。そのなかで、木造高校深浦校舎は、なんとか部員数を維持し、今大会も出場した。

  
 昨年度は地元の中学の卒業生の数が非常に少ないこともあって、この春の新入生は17人。そのうち男子はたった4人。しかし、そのうち3人が野球部に入り、部員数はなんとか10人になった。
 これだけでも驚きだが、さらにサッカー部も存続して人数をそろえている。そして地域の大会では勝つこともあるというのだ。女子陸上では競歩で黄金崎夏未さんが東北大会に出場し6位入賞の快挙を果たした。
 このほか、女子バドミントン、男女卓球も善戦している。その意味では、野球部は注目度は高いのだが、この春の地区の大会では勝利はなかった。

 もう少し、学校について記録しておこう。今年度(2013年度)の全校生徒数は71人(男27、女44)で、1年生17人(男4、女13)、2年生28人(男12、女16)、3年生26人(男11、女15)。各学年1クラスだ。 
 私が10年以上前に取材した頃は、普通科と商業科それぞれ一クラスずつあり、全校生徒も200人くらいだった。

 一方、現在の教職員は、現場のトップである教頭をはじめ、実際に生徒の学習の指導にあたるのは教諭が5人(男4、女1)、臨時講師が5人(男3、女2)、臨時養護助教諭が1人(女)、臨時実習助手1人(男)となっている。かなりの割合を“臨時”の先生に頼っているのが現状である。
 臨時職員の加重な登用、僻地校と都市部の学校における職員配置の内容の差。弱い立場の臨時職員と僻地校から大きな声が上がらないのをいいことに、改善策をとらない、というより、あえて臨時職員と僻地校を、問題吸収の緩衝材として利用しているとさえ思える策をとりつづける県教委の姿勢はいずれ問われることになるだろう。
 
 つぎに、生徒の進路についてみてみよう。この春の卒業生のうち、大学に進んだのは2人、短大2人、専門学校5人、就職では公務員1人、民間では県外5人、県内5人となっている。

 こうしてみても本当に小さな学校である。さて、前置きが長くなったが今年の戦いぶりを振り返ってみる。

                バットはかなり振れていたが・・・

 何より戦力の低いチームにあっては組み合わせが非常に重要だが、珍しいことに今年は昨年同様、県立の浪岡高校と対戦することになった。昨年は善戦しながらも敗北。今年も戦前の予想では厳しい戦いが予想された。

 雨のため2日試合が伸びて、7月13日ようやく弘前の運動公園内にある球場で午前11時43分、ゲームが始まった。夏らしい雲が南の空に立ち上り陽射しはかなり強い。
 深浦は1年生が3人、2年生が4人、3年生が3人の計10人。1,2年生バッテリーが先発だ。
 先攻の深浦はさい先よく、いきなり先頭打者の中村がセンター前安打で出塁。これをしっかり送れなかったが、3番島川がレフト前に安打、1死1,2塁として4番阪崎がセンターオーバーを放ち1点を先取した。

 

 その裏、浪岡は四球やバント、盗塁にエラーもからんであっさり追いつき、さらに安打で逆転した。2回裏にも3点を加え、深浦は5-1と引き離された。しかし深浦も3回、四球に2安打で1点を追加した。

 この日は当初の試合予定が変わったため、学校からの応援は自主応援となり、主に1,3年生と職員などが用意された大型バスに乗り込んでやってきた。ブラスバンドはないし、組織的な応援もできなかったが、決して打ち負けしているという感じのない自チームに明るい声援を送っていた。
 独自に応援に来たOBやかつて子供が深浦の野球部にいた地元の人たちなど、30人ほども一塁側スタンドに詰めかけた。

  
 3回表を終え5-2と詰め寄った。しかし、そのあと先発の島川が四球と安打で安定感を欠き、2年生の阪崎と交代。この阪崎も四球で崩れ結局3,4,5回に加点され、5回の裏を終えて12-2と、10点差がついたため大会規定でコールドゲームとなり、深浦の負けが決まった。

 試合終了後、新聞社などの簡単な取材を受け、ひといきつくとナインは球場の外の大きな木の下に道具や荷物を置いて集合した。日影に心地よい風が吹いてくる。悔し涙を流していたのは半数くらいだろうか。

 監督が総括をして、つぎにみんながひと言ずつ話をした。意外にかつてにくらべるとかなり言葉が多くなっているような気がした。3年生からのひと言では、後輩たちに、あれこれと期待と注文も述べながら最後の挨拶をする生徒もいて、聞くものは神妙な顔つきだった。

 部員の数からすれば、まさに土俵際の戦いを強いられているこの学校の運動部は、なにより部員の確保が課題だ。3年が抜ける秋の大会は、サッカー部あたりから助っ人を頼んで大会に出ることになるだろう。
 厳しいなかの朗報は、今年の地元深浦中学では、この春より卒業生はぐっと増え野球部に入る生徒もかなり期待できるという。これで来年度の計画もたてることができそうだ。しかし、薄氷を踏む思いというか綱渡りというか、喩えは適当でないかもしれないが、毎月何とか不渡りを出さずにやりくりしていく苦しい零細企業のようでもある。

 今年は122対0の記録的な試合が行われた1998年の夏から15年目にあたる。98年は横浜高校の松坂大輔や鹿児島実業の杉内俊哉が甲子園で戦った、印象的な夏だった。
 この時、青森代表は八戸工大一で、1回戦で鹿児島実業とあたり杉内にノーヒットノーランをくらった。その杉内は、2回戦で松坂大輔らを擁する横浜と対戦し、松坂に本塁打を浴びるなどして6失点で敗退した。

 あのとき、徹底的に打ちのめされた深浦ナインの一年生もいまでは30歳になる。彼らの後輩の戦いは、また来年もつづきそうだ。  

風のように過ぎた惜敗の夏~深浦球児

土曜日, 7月 14th, 2012

 外野席の芝生にときおり夏らしい陽射しが雲間から差し込む。心地よい西風が吹く青森市営球場では、その日の第二試合がはじまった。
 ついさきほどまで、そのグラウンドで必死に戦い、そして惜敗した深浦の選手たちは、球場外でひとしきり涙を流し、肩を落とし、うなだれたあと、ふたたび球場へ戻り外野の芝生で第二試合を観戦した。

 目の前で繰り広げられる他校の試合と、さきほどまでの自分たちの熱戦はまるで別のもののように感じていたのではないか。それほどフィールド内の戦いの当事者と、いったん外へ出て見る立場とは違いがある。
 
 一年間、一生懸命練習してきても、試合はあっという間にすぎる。なんだったんだろうと思うくらいだ。スポーツの大会での“勝負”とはそういうものだ。
「最後だったから少しでも長く試合をしたかった」
 深浦のキャプテン、ショートの安田英幸は、赤い目をしてそう言った。
 せっかく力を試せるときがきたのだから、できれば二試合、三試合と重ねていきたいきもちはよくわかる。いい試合をしただけになおさらだったのだろう。

「コールドゲームになるかもしれないですよ」、「相手の浪岡は青森市内で1,2を争ういいチームですから」
 一方、深浦は部員13人、必死に鍛えられたチームだが都市部の有力校と比べれば戦績も選手の体格も見劣りする。戦前の予想は、かなり深浦にとって厳しいものだった。しかし、誰が言ったか「高校野球と人生はやってみないとわからない」。
 長年、彼らを見てきた私としても、そうならないように一泡吹かせてやったらいいのに、と心のなかで応援した。
 
 試合は浪岡が先攻し、すぐに2 死3 塁とチャンスをつくるが、深浦のサイドスローの川村が見事に後続を断った。その後もなんどか前半でピンチを招くが、守備陣が踏ん張る。
 ショート安田が左右へのフットワークと確実なグラブさばきで、なんどもアウトカウントを増やし、ライトの山本純平のスライディングキャッチ、そして手元で変化する球を武器に丁寧に投げ続けた川村の力投。

 一方、攻撃面ではストライクは見逃さずに強振していく積極性で、最終的には浪岡とおなじ5安打を放った。
 均衡が破れたのは5回で、ヒットとバントなどで三塁に走者を進めた浪岡が、この試合唯一の左前長打で走者を返すと、さらに安打で2点目を追加した。だが、ここで川村は崩れることなく、その後守りも堅くこの失点だけにチームは抑えた。
 深浦にとっては、攻撃面で2塁走者をけん制で刺されたことや序盤でのサインミスで走者を進められなかったのが惜しまれるといえば惜しまれる。が、「2対0」のスコアは、ほぼ彼らの力を出し切った結果だった。

 試合時間は1時間24分。たんたんと進んだ試合は、9回まで緊張感のある攻防を繰り返し、大会本部や審判の間からも「いいゲームだった」と誉められた。
「100パーセントに近い力を出したと思う。なにも悔やむことはないよ」
 今年で監督として三回目の夏を経験する竹内俊悦さんは、試合後のミーティングで生徒たちにそう言葉をかけた。いつもは、試合後考え込む様子が見られた竹内さんも、この日はうっすらと笑顔を浮かべた。

 本来なら、この試合は12日に行われる予定だったが、雨のため当日の試合時間後に順延ときまった。こうなると選手も大変だが応援団にも影響がでる。深浦から青森市まで約2時間半。全校生徒74人と先生たちをのせた大型バス2台は、試合開始の10時に十分間に合うように、朝6時には集合して出発しなくてはならない。
 雨模様だが順延という連絡が大会本部からないかぎりとにかく駆けつける。しかし、結局順延となってしまった。明日は来るか来ないか。もう一度来るとなればバス代もかかる。大きな学校で後援会組織が充実していれば予算もあるが、小さな学校では大きな出費だ。が、そこはみんなで盛り上げようとという“英断”によって、再度出直してくることになったのだ。13日、再びバス2台で西津軽から応援団は駆けつけた。
 
 小さな学校だけに、教頭はじめ先生たちも生徒同様声をあげる。ときにファインプレーの場面では、「素敵よ-」といった若い女性教師たちの声も響く。決して多いとはいえない保護者たちも温かい目で見守っている。
 応援席のなかには、かつての卒業生の父母や、その昔、深浦にいた先生の姿も見えた。
 この日の試合は負けたとはいえ、こうした人たちに満足感を与えた。「よくやった」という声がいくつもかかる。
                                   
「腹減ったな、飯食いに行こうか」
 竹内監督の一声で、芝生に座り込んでいた深浦の選手12人とマネジャーは、外野スタンドをあとにした。駐車場でユニフォームをTシャツとショートパンツに着替え、監督、青山部長が運転するワゴン車に分乗、近くの牛丼のすき家へ向かった。
 私も武田副部長の運転する車に乗せてもらい一緒に昼を食べた。生徒たちの前にいくつもの特盛りが運ばれ、それらはあっというまに空になった。

 彼らの二泊三日のこの夏の大会遠征もこれで終わり、深浦までの長い家路につくときがきた。私も東京に帰ることにした。彼らの帰路の途中にある新幹線、新青森駅まで副部長が送ってくれた。
 その車のあとに2台のワゴン車も着いてきた。人気のほとんどない真新しいその駅の近くで下ろしてもらい、ワゴン車を見ると、なかで生徒たちが上を向いて眠っていた。しかし、すぐに監督に声をかけられたのか、車から下りてきてにこやかに顔を向けてきた。

 記念に新青森駅をバックに写真をとって、私が駅に向かって歩き出すと、「ありがとうございます!」だったか、「お疲れさまです!」だったか、野球部独特のとにかく大きく、そしてこの時は明るい声が背中に響いた。少し照れくさかったが、なかなか気持ちのいいものだった。

青森、122対0 の青春

木曜日, 7月 12th, 2012

 今年もまたこの時期青森にやって来た。夏の高校野球、青森大会で県立木造高校深浦校舎という小さな学校の野球部の試合を取材するのが目的だ。
 いまから14年前、深浦校舎はまだ分校ではなく、深浦高校として独立していたが、その野球部は、夏の大会で、名門東奥義塾と対戦し「122対0」という前代未聞のスコアで敗れた。

 なぜこんな結果になったのか。そこから野球部はどう立ち直ったのか、それらを地域の実情などとあわせて、私はノンフィクションとしてまとめた(「122対0の青春:講談社文庫)。

 それ以来、ほぼ毎年のように夏の彼らの奮闘ぶりを観戦してきた。その途中で学校は分校化され存続が危ぶまれほど生徒数は減少、現在は全校生徒数が74人だ。しかし野球部は指導者にも恵まれ、このところ強豪でないかぎり一勝をものにするまでに成長した。
                              

 日本海側、秋田県と接する西津軽の深浦町から、およそ二時間半をかけて、2台のワゴン車を指導の先生自ら運転して、今年は12人の部員たちを大会会場の青森市営球場まで連れてきた。
 この春入部した1年生も含めて、相変わらずここの生徒たちは、別の学校から赴任する先生が驚くほど純朴である。開会式を終えた彼らは、外野席で開幕試合を観戦しに行ったが、他校の野球部が大人数で芝生に腰を下ろしていたのに対して、ほとんどが後ろのフェンスにもたれて立っていた。遠慮していたのだろうか。

 だが、見た目と中身とはずいぶんちがう。素朴で静かで、ときに頼りなげではあるが、どこか芯の強さのようなものがあることを、長年見ていてわかる。それは練習のたまものかもしれないが、都市部の生徒が日頃経験しないような真冬の横殴りの雪のなかの通学や、決して豊とは言えない地域の生活のなかで育まれてきたもののような気がする。

 11日の大会開会式のあと、大会本部で14年前の試合を観戦していたある野球部の元監督と当時の試合についてあれこれ話をした。この試合で青森大会の多くの記録が生まれた。一つあげれば11打数連続安打がある。
 攻めた方もよく攻め続けたが、同様に守る方もよく最後まで守った。
「都市部の生徒だったら、とても最後まで続けなかったと思う。私が監督だったチームでも無理だったと思いますよ」
 元監督は、そう言って眼を細めた。