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中山康樹を読め!! すばらしき音楽狂

しばらく会っていない知人が亡くなったことを新聞で知って愕然とした。中山康樹さん。「マイルスを聴け!!」をはじめとするジャズ評論のほか、ジャズ、ロック、ポップスの評論で小気味よく、ユーモアのある文章を書く人だ。

ここ数年は年賀状のやりとりだけだった。そういえば今年は来ていなかった。となると、あえて連絡を取らない限り近況を知ることはなかったのだが、それが新聞記事で、それも訃報ではなく、一般記事のなかで今年の初めになくなっていたことを知らされることになるとは。

中山

 

中山さんのことは、彼が「マイルスを聴け!!」を出版したあと、インタビュー記事を週刊朝日に掲載したのがきっかけで、お付き合いするようになった。マイルスの音楽を、中身がわからない人でも興味をかき立てるように、ユーモラスに描いているその書きっぷりに惹かれた。

その後、「ディランを聴け!!」という彼の作品を編集したことがあった。また、拙著の書評を書いていただいたこともある。そのほか、住宅問題を書いていた私の取材に応じてくれて、彼が住むマンションを買った経緯などをうかがったことがある。

クールで、少し怖い感じで、音楽を聴く姿勢は厳しかった。鋭さゆえに批評への批判もまたあった。だが、彼は気にしなかっただろう。

中山さんがいっていたことで思い出すのは、CDは100枚あればいい、新しく気に入ったものがあれば、古いものの中のものと取り換えればいいという話だった。潔い人だった。それともう一つ、彼が書いていたなかにあるのだが、若いころレコード店に行って、そこに売っているレコード全部を買いたくなったという話。この人はけた外れの音楽好きなのだ。

集中力とエネルギーのあった人だった。ある時期からものすごく精力的に著作を重ねていった。マイルス、ビーチボーイズ、ビートルズ、ディラン、そして桑田佳祐…。20世紀大衆音楽の巨人たちを串刺しに批評していった。

その著作のなかで私は異色の「スイングジャーナル青春録 東京編、大阪編」が好きだった。スイングジャーナル編集長をつとめた彼の若き日を描いたものだ。失礼を承知で言えばまさに、音楽バカの微笑ましい青春の日々だ。音楽好きの若い人にはぜひ、「中山を読め!!」といいたい。合掌。

後藤さんの死を超えて~彼だったらどうしてほしいだろう。

後藤健二さんの最後の気持ちを想像すると、ただ胸が詰まる。イスラムの敵ではなく理解しようとしてきたジャーナリストとして誠実に行動してきた人間を、死の恐怖に陥れ、そして殺害するという行為を非難しようとすれば、怒りで汚らしい言葉しか見つからない。

では、この怒りを越えて、何ができるか、何をしなければならないか。それは後藤さん、湯川さんの二人の死をどう教訓として生かすかを冷静に考えることではないか。安倍首相は、この行為に対して償わせると言った。
犯罪を行ったものへの償いをさせることに異論はない。強力な特殊部隊などが仮にいたとしたら、イスラム国に潜入し、犯人に天誅を下してほしいくらいだ。ただし、イスラム国だけに限った償いをさせることができるとしたらである。

アメリカや有志連合による空爆をはじめ、対イスラム制裁の軍事行動を強化した時、イスラム国の出方によっては民間人に犠牲者がでることは十分考えられる。後藤さんらとおなじように死に、後藤さんの家族と同じように悲しむ人がたくさんでることになる。
さらに言えば、後藤さんはある使命感と覚悟をもって自ら危険地帯へ赴いたはずだ。これに対して攻撃にさらされた地に暮らすような人々の不幸は、まったく意味も分からず突然訪れるものであり、自分の意思とは関係のないところでただ殺されることになる。そうした事態を招くことは後藤さんの望んでいたようなことではないだろう。

時代を少し遡ってみよう。2001年の9.11以降に、アメリカが行ったタリバン攻撃のためのアフガニスタン空爆、2003年からのイラク戦争で、誤爆などによりいったい関係のない一般市民がどれだけ死んだことか。
2002年7月1日には、アフガン南部への米軍空爆で、結婚披露宴中の人たちを含む民間人が少なくとも48人死亡した。アメリカは「それは事故だ」と、誤爆であることを認めた。これはほんの一例である。
イラク戦争では、アメリカがファルージャ掃討作戦を始めた2004年4月5日から6月3日までの間で戦闘やテロで死亡したイラク人は1100人以上であると当時イラク保健省がまとめている。このうち14歳以下の子供も81人含まれる。これでも一部である。

空爆や市街地での地上戦などを行えば民間人に犠牲がでるのは明らかである。しかしそれがわかっていて実行する。それを日本政府は積極的に支援した。その政府を選んだわれわれは、「正義の戦い」による誤爆によって、まったく戦闘と関係のない民間人が多数死んでも仕方がないと思っていたことになる。

だとすれば犠牲者の遺族は、どう思うだろうか。後藤さんや湯川さんの遺族が悲しむように、多数の人が憤り悲しみ、その怒りの矛先がアメリカとその同盟国、そしてその国民に向いたとしても仕方がないことは、彼らの立場に自分を置いてみればたやすく想像できることだ。つまりわれわれは誤爆などについては間接的に加害者の立場にいる。

そんなことを言っても、日本人全体をいまやターゲットにしているといっているのだから、殲滅しなければ国民、国家が危険にさらされる、という声がかならずでてくる。物事を単純化すればその通りだ。また、単純化は理解されやすい。だがそれは、ただ自分の身が危ないから、まず何とかしたいといっているに過ぎない。それによって誰かが傷ついたとしても見て見ぬふりをする、あるいは考えないという姿勢だ。イスラム国と同様とまではいわないが、似たようなものだ。

では、どうするのか。簡単にはわからない。しかし、まったく誰も傷つけないことは不可能だとしても、最小限に抑えながらイスラム国を弱体化し殲滅に追い込む方法を徹底的に議論してみたらどうだろう。今回、後藤さんを救出するために世界各地でインターネットなどを通じてメッセージが広がった。
こうした手段をつかって、彼らの言語で、いかに彼らが罪深きことをしたかということを健全なイスラム社会の力を借りて世界に発信し続けることなども一つだろう。彼らがいかに非道なことをしたか、後藤さんという貴重な人材を失ったことをわれわれの悲しみや怒りが、イスラム国の人間よりはるかに大きいかを延々と知らしめることだ。
なにやら、自分たちが被害者で、怒りをもって正義を行使するようなことを言っている彼らに、もっと激しい怒りをもって対処することだ。
罪深い、非道な相手に償わせるのはいい。だが、安易な方法で敵対方法にでて、われわれもまた償いを背負うような側に立つことは避けたい。この際、後藤さんだったらどうしただろうか、いま、天国でどうしてほしいと思っているか。それを考えてみようではないか。そしてじっくりイデオロギーを超えて議論を煮詰めてみたらどうだろう。

※  ※
湯川遥菜さんの父親が、後藤さんの死を知り嗚咽していた。息子を殺された悲しみと、息子を助けに行った人が殺されたことへの申し訳なさと悲しみ。息子が人質になったときに、自分の育て方が悪かったと詫びていたが、いったいこの父親になんの謝るべき理由があるのだろう。湯川さんは立派な大人である。二重の悲しみを負ったこの人もまたまぎれもない被害者のひとりである。罪もない人を殺した側が何より責められることを忘れてはならない。

格子戸をガラッと開けると・・・

 暗い小路にたつ小さな木造の平屋。すりガラスの入った格子戸の向こうで楽しげな声がする。思い切ってガラッと引いてみると、「いらっしゃい」と明るい声で出迎えてくれた。まずはひと安心。これがうわさの居酒屋か。

「おひとりですか」。奥の小上がりの小さな膳の前かカウンターを勧められた。両脇の客にちょっと詰めてもらってカウンターに入り込む。白髪のおかみさんのほか、小さなカウンターの向こうには若い女性二人と少し年上の女性が、にこやかな顔でせっせと手を動かしている。給仕に回っているのは背の高い青年だ。総勢5人。孫とおばあちゃんといったスタッフ構成だ。
 店の規模にしては手が多い。それだけの客がいつも入っているのだろう。何しろ開店前から客が並ぶ。閉まる時間は早く、酒は3杯まで。ヨッパライは入れない。情報では確か創業は1940年代。

 まずは「ビールをください」と言ってみると、「大ビンでいいですか」と返されたので、頷いたが周りを見ると小ビンが主流のよう。一番搾りと一緒にやってきたのはお通しだが、これが3点セット。おから、タマネギの酢漬け、そして皮つきのピーナッツと豆菓子。長年のしきたりなのだろう。

 品書きのようなものは見回したがない。「メニューありますか」などときくのは野暮だろう。コハダのつまみがあるとは聞いていたので「コハダありますか」と、きくと「ハイ」と青年は実にさわやか。
 グラス片手にじろじろと店内を見回す。黒ずんだ板張りの天井。カウンター上の天井からは和風の照明が下がり、点滅させるひもが垂れ下がる。建具は古くもちろん木製。奥の小上がりにあるガラス窓の向こうにいい色合いの緑が見える。

 壁や長押の上には、この店の常連かあるいは訪れた有名人の色紙などがずらりと並んでいる。そのなかにも登場しているが、ここでは酒は灘の櫻正宗と決まっているようだ。最初にビールを頼んだときも、同時に日本酒のためと思われるコップが運ばれてきた。これもしきたりなのだ。
 
 カウンターの上に大きな土瓶が二つ置いてある。酒を頼むと若い女性のうちの一人が、それをもって上の方からカウンターのコップめがけてピンポイントで酒をつぐ。インド料理屋で滝のように注がれるチャイを思い出した。なみなみと注がれたぬる燗の櫻正宗は、さっぱりとしていてやさしい。
 左隣の男性客が湯豆腐のようなものを食べている。しばらくすると青年が「どうぞ」と同じものを置いて行った。「あ、それは頼んでいませんが・・・」と戸惑っていると、「みなさんにお出しすることになっています」と、丁寧に応える。どうやら酒をおかわりすると自動的に出てくる仕組みになっているようだ。
 温かい豆腐にシラスとネギがのっていて、よく見ると鱈が入っている。鱈豆腐か。これは自宅で作ってみたくなる。

 閉店も近くなり、少しすいてきたので、何気なくおかみさんに話しかけると、気軽につきあってくれ、「昔はこのあたりに憲兵隊があってね」などとかつての横浜・野毛の様子やご自身のことを教えてくれた。こちらもどこから来たのか多少自己紹介。
 楽しいときも束の間、ここが潮時と席を立つと、「まっすぐおかえんなさいよ」と、おかみさん。笑ってごまかし、気分よく野毛の飲み屋街へ足を向けた。大正11年生まれだというおかみさんの店は武蔵屋という。

長い老後とバカンス

 ちかごろ80代の人が珍しくなった。90歳を超える人もちらほらみかける。親戚でも94歳の伯母がいるが、この人はマンションで一人暮らしをしている。人の悪口ばかりいっているのが元気の秘訣のようで、頭と口はまだまだよく回るからたいしたものだ。

「あたしは、老人ホームなんて絶対いやだね」と、よく言っている。団体生活にはなじめないだろうし、若いころから美容師で、一人で美容院を切り盛りしてきた働く女性だったので自立心も人一倍強い。
 おとなしくて静かなお年寄りを期待されるようなホームはまっぴらごめんというわけだ。
 
 確かに日本の老人ホームは、かつてとずいぶん変わったとはいえ、まだまだお年寄りを子ども扱いしているところがある。
「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれて当たり前だと思っている人は多いだろうが、「○○さん」と、名前で呼んでくれと言いたい人もいるはずだ。

 先日ある特別養護老人ホームに行ったら、くだけた人間関係を出そうとしているのか、「~でいいじゃねぇか」といった言葉遣いを男性職員がしていた。耳も遠くなっている人が多いとはいえ、聞いていて気持ちのいいものではなかった。
 まだできて間もないホームで、内装も無垢の木を使ったりして温かみを出そうとしている。しかし、どうもホームの内部の雰囲気は殺風景だ。ホームは入所者にとってはおそらく“終の住処”だ。それは自分のホーム(家)であるはずだ。病院とは違うし、リハビリをするための施設でもない。

「特養」の絶対的な不足を補うように雨後の竹の子のようにいま有料老人ホームができている。こぎれいなこうしたホームですら、豪華かどうかは別にして、“アットホーム”な感じを受けない。
 本気で“ホーム”を演出する力と、それを支える確たる思想がないからだろう。どうやって人生の最後の場所を居心地よく作り上げるのか、高齢者への福祉とはどうあるべきかを考え尽くしているのか、といった疑問が出てしまう。

 

 函館で「旭ヶ丘の家」という老人ホームをつくった、フランス人神父のフィリップ・グロードさんは、「老後はバカンスだ、ホームは老人にとってバカンスを過ごす所です」と宣言し、“大人のホーム”を完成させた。
 昨年のクリスマスの日、グロードさんは85歳で亡くなった。十数年前何度かそこを訪ね神父さんに話をきいた。

 寿命が延びると同時に、多かれ少なかれ障害をもって長い老後を過ごさなくてはいけない。心身ともに衰えていく中で、最後の居場所はどんなところになるのだろうか。

 (参考)「老いはバカンス ホームは休暇村―グロードさんと旭ヶ岡の家」(旬報社)

小さな靴が片方落ちたとき

 偶然だが、ここ数ヵ月で子連れの若い母親に3度同じことで、手助けをしたことがある。いずれも駅のホームか構内でのこと。抱きかかえている小さな子供の履いていた靴が、片方脱げて下に落ちてしまった。そこに居合わせたので、手のひらにおさまるほどの靴を拾って、子供に履かせてあげた。

 母親たちは小さな子を抱きかかえていると同時に、オムツとかいろいろ詰め込んだ大きなバッグを持ち歩いている。おまけにもう一人お兄ちゃんやお姉ちゃんを連れているときがある。これでは靴が落ちても戸惑うばかりですぐには拾えないのだ。私だけでこれだけ遭遇しているので、世の中あちこちで小さな靴はよく落ちるのだろう。

 子供の靴ということで思い出したのは、ブラジル生まれの洒落たポップス、ボサノヴァを創った一人、作曲家でピアニストのアントニオ・カルロス・ジョビン(Antonio Carlos Jobim)について実妹が著した「アントニオ・カルロス・ジョビン―ボサノヴァを創った男」(エレーナ ジョビン著、青土社)。

 このなかに決断力のある毅然とした彼の祖母にまつわるエピソードがある。彼女にまだ小さな子供がいたころ。リオ・デジャネイロの路面電車に子供連れでのっていたとき、子供の一人が足を揺すっていて片方の靴を電車の外に飛ばして舗道の上に落としてしまった。
 そのとき、彼女はとっさに屈み込んで、子供のもう一方の靴を脱がせてすぐにそれを舗道の上に投げた。どうしてそんなことをするの、と聞かれた彼女は、「こうすれば、あの靴を拾った人がちゃんと靴をはけるでしょ」と言った。

 靴を落としたことを嘆いていないで、すぐにその困難な状況のなかでも最善の策を見つける。片方失うだけならただの損失だが、二つ失えば誰かの役に立つ。この話のすごいところは、自分にとっては損失でも、誰かの利益になればよかったと思えるところか。これをとっさに判断する、なかなかできないことだ。