Archive for the ‘Global’ Category

ロシアの蛮行 ウクライナは滅びず 

金曜日, 4月 8th, 2022
ウクライナ国歌をうたう横濱シスターズ

 世界中を長い間覆っている新型コロナウイルスが収束に向かわないかぎり、これをしのぐ国際的な事件はないと思っていたところ、ロシアによるウクライナ侵攻というとんでもない事件が起き、残念ながら毎日このニュースが報道されることになってしまいました。破壊される町、傷つき殺される人。こうした映像をただ見ているだけで何もできないもどかしさとつらさを感じ、自分にできることはないかと模索している日本人は多いでしょう。
 その一方で、日本も核兵器をアメリカと共有すべきだとすぐさま言い出す政治家もいました。安全保障についてさまざまな意見を出すことに異論はありませんが、ものには優先順位というものがあります。ここでの核共有論の持ち出しは、近くで火事に遭い焼け出されて困っている人がいるのに、まっさきに自分の家の火災保険を見直そうとあわてるようで恥ずかしい限りです。
 市民レベルではさまざまな支援が行われています。横浜市を拠点に音楽活動をする女性ボーカル3人組の横濱シスターズは、ウクライナ国歌「ウクライナは滅びず」の動画をユーチューブにアップすることで、支援の気持ちを表しています。
 R&B、昭和歌謡、アメリカン・オールディーズなど幅広いレパートリーをもつ横濱シスターズは、世界の国歌をうたう企画をライフワークにしていて、これまで34ヵ国の国歌を動画にアップしました。
 ウクライナ国歌については、一昨年横浜市とウクライナのオデッサ市が姉妹都市提携55周年を迎えたのを機にレパートリーに取り入れました。しかしウクライナ語の発音をチェックしてもらえる人がみつからずアップを保留していたところ、ロシア侵攻が予測されたため「今届けなくては。ウクライナの人にぜひきいてもらいたい」と急遽2月15日にユーチューブにアップしました。
 するとオデッサ市のホームページなどがとりあげ、あっという間に広まり3月28日現在で約60万件も再生されました。また、コメントも相次ぎ「今、真っ暗な地下で動画をみています。光がないのであなたたちの歌が光の代わりです」「ほか国の人が歌ってくれることがうれしい」などの言葉がウクライナから届きました。「コメントを読んでいるとつらくなることがあります」と、リーダーのMAHOさんは言いますが、ウクライナ民謡も続けてアップしました。
 横浜市との関係では、日本ウクライナ芸術協会が、昨年末横浜市で開かれた「横浜オデッサ姉妹都市提携55周年記念ガラコンサート〈オレグ・クリサ&フレンズ〉」(同協会主催)の動画を支援者にオンライン配信で販売して、集ったお金は経費など取らずそのまま国際NGO法人ADRAウクライナへ送り、現地での医療品や必要物資にあてています。
 同協会代表でヴァイオリニストの澤田智恵さんによると、コンサートを開く劇場も爆撃の被害を受けているようです。黒海沿岸の風光明媚な港湾都市オデッサは、ウクライナ第三の都市で「次はオデッサが標的か」と心配されます。拡大する被害を見るのはつらいですが目を背けず、少しでもできる支援の方法を模索したいものです。(川崎医療生協新聞より)

いま起きているのはロシア、プーチンによる殺人、犯罪である。殺人を傍観していいのか。

日曜日, 2月 27th, 2022

 ロシア軍のウクライナへの侵攻。これは「戦争」ではない、軍事侵略であり犯罪である。ウクライナ人に死者が多数出ている。これはロシア、プーチンによる大量殺人である。
 ロシアを非難することが第一、そして必要なのは、攻撃をやめさせこれ以上の犠牲者を出さないことである。そのためのメッセージを国際的に広め、同時にロシア国民に対して圧力をかけてこの蛮行をやめさせるかが最重要だ。日本にいるロシア人に働きかける手もある。

 現状報告で終る報道に意味はない。プーチンの思惑や歴史的な経緯、さらに、日本もウクライナのようにならないためにどうするか考えるべきだ、などいうのはあとで議論すればいい。いまはひとりでも犠牲者を増やさないために、日本として、人間としてなにができるかを考えるときだ。
 ロシア国民に働きかけるツール、国際的な反ロシアと平和の世論をどう巻き起こすか、それを探りたい。

今こそ地球市民 世界連邦が地球を救う

日曜日, 2月 27th, 2022

 新型コロナウイルスが世界中に広まりはじめたころ、私は広島市へ出かけ加藤新一という人物について取材をはじめました。1960年にアメリカ本土をひとり車で駆けめぐり、日本からアメリカに渡った移民一世についての膨大な記録をまとめた彼の功績をたどるためです。
 1900年に広島市で生まれ、十代でカリフォルニアへ渡り農業に従事、その後現地の日本語新聞の記者、編集者になり、戦争がはじまると日米交換船で広島に帰り、現地の中国新聞の記者として活躍します。原爆の投下時には本人は辛くも難を逃れますが、弟、妹をなくします。
 妹は、亡くなる間際に「兄さん、仇をとって」と言い残しました。しかし、加藤氏は、被ばくの翌月広島を訪れた米軍の原爆調査団に同行した赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士を案内します。そして妹の気持ちは十分組みながらも、その後新聞社を離れると平和運動に積極的に関わります。
 1952年11月、広島で「世界連邦アジア会議」が開かれた時は事務局長をつとめ、再渡米し70年に再び日本に帰って来ると、被曝25周年を迎えた広島で開かれた「第二回世界連邦平和促進宗教者会議」の事務局次長をつとめます。
 世界連邦とは、「世界の国々が互いに独立を保ちながら、地球規模の問題を扱う一つの民主的な政府(世界連邦政府)をつくることで、世界連邦運動は、第二次世界大戦後、世界各国の科学者、政治家の支持を得て急速に発展。1947年には各国の世界連邦運動団体の国際組織として「世界連邦運動(WFM)」(本部ニューヨーク)が結成されます。(世界運動連邦協会HPより)
 また、同じような考えから、元国連事務総長のウ・タント氏は、人々が地球人運命共同体意識を持つことが先決であるとして「地球市民」という概念を提唱しました。これに共鳴した加藤氏は、国家や体制の枠を越えて、全人類が同胞愛をはぐくむべきだと主張し、自ら地球市民登録をしました。また、1978年6月の第一回国連軍縮特別総会には、きのこ雲と妹、弟の写真を配したパネルを手に国連に乗り込みます。 
 国益やナショナリズムが声高に叫ばれる昨今の世界の風潮をみると、世界連邦や地球市民といった考えとは、反対の方向に社会のベクトルは働いているようです。しかし、いま私たちの前に立ちはだかるコロナウイルスによるパンデミックや地球温暖化という地球規模での課題は、まさに“世界連邦”的な考えでなければ解決できません。
 各国のワクチンの接種率をみるとアフリカなどでは極端に低くなっています。世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が「ワクチン分配の不平等が長引くほどウイルスは拡散し、予測や予防ができない形で進化していく」(毎日新聞より)というように、自国のみならず地球規模で接種率を上げていかなければ、コロナ禍は終息へ向かわないのです。
 ともすると高邁な理想主義ととらえられた「世界連邦」や「地球市民」は、今まさに難関を乗り切る現実的なアイデアである、といえるのではないでしょうか。(川崎医療生協新聞より)

トランプ、安倍、フロリダ、大和コロニー

土曜日, 2月 11th, 2017

アメリカのトランプ大統領が安倍首相をフロリダ州パームビーチの別荘に招待して、一緒にゴルフをするという。
会員制クラブを兼ねているというこの別荘は、1927年に富豪で社交界の名士である女性、マージョリー・メリウェザー・ポスト氏によって建てられ、Mar-A-Largo(マール・ア・ラーゴ)と呼ばれた。
彼女の死後、“冬のホワイト・ハウス”として国に寄贈され、国定の歴史建造物にもなった。しかし維持費が莫大で、その後彼女の娘に返還された。それを1980年代にトランプ氏が買収した。

パーム・ビーチは、高級リゾートで、メインストリートのワースアベニューには、高級品店が軒を連ねる。富豪たちが別荘をもち、なかには日本家屋かと思える建物もある。1957年に日本を訪れたのち日本文化を気に入った施主が建て、庭園は小林という日本人に作らせた大きな二階家だ。残念ながら小林はその直後にその後マイアミで殺されたという。
このパームビーチを拠点に、19世紀末からフロリダ開発に挑んだのが富豪ヘンリー・フラグラーだった。フロリダには、もともとはネイティブ・アメリカンしかいなかったが、16世紀初頭にスペイン人が領有、その後イギリス、スペインと領有権は移り、最後はアメリカが併合すると、インディアンを武力で排除した。

スペイン人が入植して作った大西洋岸の古い町、セント・オーガスチンを晩年訪れたフラグラーは、地中海的なリゾートを作ろうと開発に乗り出した。まず、パームビーチにホテルを建て、所有するFlorida East Coast Railway という鉄道を大西洋岸に沿って南へと延長していった。

砂州の上に建てたコロニアル・スタイルのリゾートホテルのなかには、当時世界最大、1081室もある巨大なホテルも誕生した。ホテルの先には桟橋をつくり、そこから客たちは船でカリブ海のナッソーやキューバへと遊覧した。
また鉄路は南のマイアミをとおり、さらに海上をサンゴの小さな島々づたいに走り、1912年、とうとうキーウェストまで到達した。「ハバナ・スペシャル」と名付けられた列車は、はるか北のポストンを出発すると、三日目にキーウェストに到着し、そこから船でキューバのハバナまで旅客を運んだ。
しかし、この鉄路も1935年のハリケーンで、海上の橋脚は破壊され鉄路は跡形もなく消えた。以後鉄道は再建されることはなく、自動車道がそれにかわった。

フラグラーは幸いにも、このハリケーンを知らず、1913年にはこの世を去った。彼がパームビーチに建てた自宅はホワイトホールを呼ばれたが、その後フラグラー・ミュージアムとなり公開されている。

フラグラー・ミュージアム

彼のフロリダ開発の余波は、当時ニューヨークに留学中で、実業家にあこがれていた酒井醸という日本人青年の心を動かした。彼はリーダーとなって、パームビーチから南に40数キロ離れたところに大和コロニーという日本人村をつくった。しかし、長くは続かず、戦前に自然消滅した。
かつてコロニーがあったあたりには、その痕跡はなにも残っていない。しかし、そこから数キロ離れたところに、日本庭園と博物館ができている。The Morikami Museum and Japanese Gardens (モリカミ・ミュージアム・アンド・ジャパニーズ・ガーデンズ)というこの公園は、森上助次という人物の名にちなんでこう名付けられた。


森上は、コロニーづくりに参加した一人で、最後まで当地に残り、所有する土地二百数十エーカーを地元に寄付、これがもとになってこの公園や博物館などができた。酒井と同じ京都府宮津市出身の彼は1976年に89歳で亡くなるが、生涯独身で一度も日本に帰ることはなく、晩年はトレイラーハウスで暮らした。

私が最初にフロリダを訪れたのは1986年2月だった。中部大西洋岸のデイトナビーチという町に、それから一年滞在した。ビーチはいつも賑やかで、延々とつづくビーチを車が数珠つなぎになって、まるで散歩をするかのようにゆっくりと走っていた。ピックアップトラックの荷台からビキニ姿の女の子たちが投げ出す脚がまぶしかった。

まばゆいばかりの光景に唖然としたのを覚えている。白人がほとんどで、日本人に出会うことなどほとんどなく、東洋的なものにすら出くわすことはなかった。しかし、このフロリダにも明治時代に日本人の足跡があったことを、しばらくしてから知ることになった。

きっかけは、ハイウェイ95号を南下しているとき見た「Yamato Rd.」というサインだった。これが実は日本語の大和からとった「ヤマトロード」で、かつての大和コロニーに関連して名付けられた道だった。酒井醸が野心に燃えて作ろうとし、最後に自分の名前を現地に残した森上助次が一農民として参加した、あの大和コロニーである。

 

ゴルフをする二人は、知る由もないだろうが、今のテレビ番組風に言えば、「こんなところにも日本人がいた」のだ。

『大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち』(旬報社、川井龍介、2015)

新京商業、新京、満州

日曜日, 2月 15th, 2015

中学時代だったか、学校に提出する家族の情報のなかに保護者の最終学歴というのがあった。そのとき私は、父親が「新京商業高等学校」という学校を出たことを知った。

日本にはないような新京と名称から、そんな学校があるのかな、と思っていたくらいであまり気にも留めていなかった。まもなくそれが旧満州国の首都、新京(長春)にあった学校だとわかった。
「親父が、日本にいてもたいしたことないだろうから、満州でも行ってみたらどうかっていうんで行った」と、父は話していた。このときも「へぇー」というくらいで、それ以上そこがどんな学校かなど聞くこともなかった。

戦争に行っていた父親は、朝鮮半島の平壌から最後は逃げてきたなど、ときどきぼそっと戦争体験を話していた。が、まったく興味のなかった子供のころの私は、何かを尋ねることなどなかった。

それから30年以上たって戦争のことや父親の戦時体験などについて、知りたいと思ったときは父は亡くなっていた。愚かと言えば愚か、よくある親子の話といえばそれまでだ。しばらくして父親が所持していた新京商業の卒業アルバムを見つけた。
それは戦時中とは思えないほど立派なもので、校舎や生徒たちの写真がずいぶんと使われていた。正面玄関と思われる前での終業写真をみても、立派な建物で、改めて満州で日本が作り上げようとした意図の一端が感じられた。

新京と新京商業について、もう少新京アルバムし知りたいと思っていたところ、新聞社の人の紹介で新京で生まれ育ったというTさんに会うことができた。Tさん宅を訪れ、いまの新京(長春)にも訪れたことがあるという彼女から、かつての新京のまちの地図や新京商業について、書かれているものを教えてもらった。
それをみると、新京がいかに計画的な人工都市として整備されていたかに驚かされた。新京商業は市街地の中心部に位置していた。日本がつくった主要な建物は、いまもかなり残っていて、新京商業も中国の実験中学という学校としていまも使われていた。

新京商業については、卒業生でシベリア抑留経験がある人が本を著していて、その方と連絡がつき、数年前に訪ねて行ったことがある。埼玉県に住むMさんで、彼は父より一学年下だった。Mさんから新京商業は、昼間部と夜間部があり、私の父は夜間部だったことがわかった。父はどこかで働きながら学校に通っていたようだ。
Mさんの学年は卒業アルバムがないと残念がっていた。アルバムのためにお金をつみたてていたが、制作を頼んでいた東京の印刷所が空襲か何かで焼けてしまったそうだ。

私が訪ねたときMさんは視力を失っていた。私が持参した父が所持していたアルバムについて、どんなことが載っているかをMさんが聞いてきた。
「校舎そばにライラックの花が咲いている写真があります」と、Mさんに言うと、「あー、そうだ。ライラックの花があったなあ」と、懐かしそうに思い出していた。後日、アルバムをコピーしてMさんに送った。

新京商業のみならず新京の学校を母校としていた人たちは、当然のことながら終戦とともに母校は消え、想い出をたどる郷愁の地はなくなった。卒業アルバムだけでも残っていた人は幸運だったといえる。戦争中のことなど何も残さなかった父親が唯一残したのもそれなりの意味があった。

欲望と自由の果ての肥満

土曜日, 7月 13th, 2013

 なんでアメリカにはこんなにデブばかり多いんだろう。ずいぶんまえから思っていたが近年さらに進行しているのではないか。
 空港のロビーで目の前を行く人を目で追ってみた。
 デブ、普通、デブ、すごいデブ、普通、普通、普通、デブ・・・。だいたいこんな感じだ。体型など、人をみてくれで判断し偏見をもってはいけないのは重々承知だ。しかしこれだけ肥満が増えると、それを生む社会の問題として考える必要がある。
 
 子供にまで肥満化が蔓延しているのは明かな国民的健康上の危機だ。太っていることを表す英語には、一般によく使われるfat のほかに丸々とぽっちゃりしたという意味のchubby、そしてでっぷりとして肥満であることを意味するobese(オビース)などがある。
 これでいうと、オビースがまれではなくなっている。性別、人種、年齢を問わず太っている。世の中、異常なものが多くなれば、これがスタンダードになってくるから恐ろしい。
 その恐ろしさの原因は、レストランに行けば明らかだ。とにかくまず量が多い。加えてフライものや肉類が目立つし、甘いものでも「ジャバニーズラージ」が「アメリカンスモール」だ。

                

 食べる量(エネルギー)と、消費される量を差し引きすれば、残る量が多くなりそれがたまっていき、贅肉などになっていることが単純に計算されると思う。
 だから、わかっていて、食欲を抑えられないか、別に抑える必要がないと思っていることの証だろう。体が重く肉がたまってもいい、食べたいものは食べるという欲望を優先しているのだ。

 ところで、欲望を抑えないという点では、食欲にかぎったことではなく、なにかをやりたいという欲望についてアメリカという社会は積極的に認めている。それは「欲望」という概念が、言い換えれば「自由」でもあるからだ。
 欲望=自由を求めることは正義であり、その反対の「禁欲」はあまり理解され尊重されることはない。控えめであることは美徳になりにくい。そういう人を決して悪くはいわないが、そんなことしたら損をするという風潮が社会にある。
 食いたいものをとくかく腹いっぱい食い、いいたいことをいい、やりたいことをやる。自由の謳歌だ。しかし、むずかしいのは人は自由を完全にマネジメントできない。すべて自由にしていいといわれたらどうなるだろう・・・。

 また、アメリカの「食」についていえば、自由に食べているようで、フード産業の提供する圧倒的な力に、実は食い物にされているところがある。小学校で甘いソフトドリンクなどを止められない理由はそこにある。ビジネスもまた限りなく自由だ。
  
 自由だと思って欲を追究していっているようで、実はもっと大きな自由を求める力が差し出す限られた選択肢のなかで、得られる自由の極大化が肥満なのかもしれない。太っているのか太らされているのか。よく考えると恐ろしくもある。
 こういう仕組みの社会をもつアメリカという国が牽引する、さまざまなグローバルスタンダードに、われわれがついていこうとしていることに大いなる疑問がわく。