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「人を見たら感染者と思え」的な漠然とした政策にいつまで頼るのか。リスクは具体的に

金曜日, 4月 2nd, 2021

(川崎「医療生協」新聞4月号、「コロナの風」より)

 ようやく少し前に進んだのでしょうか。感染者の早期発見などのためのPCR検査と疫学調査の拡充のことです。以前このコラムでも触れましたが、多くの科学者、医師などが一年以上前から検査の重要性と日本での検査の遅れに疑問を投げかけてきましたが、なかなか進んできませんでした。
 それが先月、緊急事態宣言を延長する際、菅総理は、感染の早期発見とクラスターの防止のため高齢者施設などでの検査を行うこと、そして市中感染を探知するため無症状者のモニタリング検査を拡大することを明言しました。
 改めて、なぜ検査が必要かを、感染拡大の“場”として懸念されている飲食店の営業状況を通して考えてみます。飲食店の営業時間が長くなると感染者が増える。このことは、状況証拠からなんとなく推測できます。しかし、その理屈は「風が吹けば桶屋が儲かる」とまではいわないまでも、少々説明が必要です。
 あくまで一般論でかつ推論ですが、営業時間が長くなると二つのことが考えられます。一つは、より多くの人間が一定空間のなかで飲み食いすることになる。多くなればその中に感染者のいる確率は高くなる。もう一つは、仮に感染者が一人であっても長時間飲み食いし、会話をすれば、より多くの飛沫がとび他人に感染させる確率は高くなるというわけです。だから営業時間の短縮が求められてきました。
 もちろん感染者がこの中にいなければ、リスクはゼロですが、そんなことは想定されていません。誰だかわからないけれど、どこかに感染者がいるのではないかという前提(恐れ)でみんな対処しています。言い方は悪いですが「人を見たら泥棒と思え」のように「誰もが感染者かもしれない」として対処しなくてはならないのが現状です。飲食店にかかわらず、職場でも店舗でも駅でも、市中では長い間こうした息苦しい空気のなかでみんななんとか対応してきました。
 しかし、これには無理があります。不透明なリスクに対して常に最大限の準備をするのは限界があります。反対にどの程度のリスクなのかがある程度わかれば、対処の仕方も変わり精神的にも余裕ができます。だから、市中における無症状者を検査によって浮かび上がらせリスクを可視化することが必要なのです。
 無作為に行うのは効果はないでしょうが、飲食店が多く感染者が出ている地域などリスクが高いと思われる地点に絞ってPCR検査を定期的に進めることはできたはずで、こうした施策の必要性を多くの識者が提言してきたのです。
 では、諸外国と比べてもなぜできなかったのか。この点については、明らかに厚労省に問題があったことは多方面から指摘されていますが、昨年末出版された「新型コロナの科学」(黒木登志夫著、中公新書)に、特に事実分析をもとに整理されています。癌の研究家で大学学長なども歴任したサイエンスライターでもある著者が、無症状者らへの検査拡大に反対していた厚労省の言い分の問題点を指摘、反論しています。
 漠然とした不安に耐えるのは限界があります。今からでも、無症状者の検査の拡充によって、少しでもリスクを具体的に把握し、国民に提示してほしいものです。(ジャーナリスト 川井龍介)

必要な検査がまだ進まない ノーベル賞学者も首を傾げる

金曜日, 4月 2nd, 2021

 (川崎「医療生協」新聞2月号「コロナの風」より)

 とうとう病院や療養施設の受け入れ体制の限界から、本来助かったかもしれない命が失われるという最悪の事態になってしまいました。適正な対策をとらなければこうした事態を招くかもしれないことは、昨年の春、夏から専門家の指摘によって予測されていたことを考えると政府の責任は重いでしょう。
 実行されていない適正な施策とは、PCR検査の拡充と、感染者のための療養施設の十分な確保、そして医療現場への支援です。とくに検査の拡充については、なぜ実施できないのかかなり前から批判が続いています。感染拡大を憂慮して、1月に4人の日本人ノーベル賞受賞者が政府に要望した5点の中にも「PCR検査能力の大幅な拡充と無症候感染者の隔離の強化」がありました。
 4人の1人、本庶佑氏は、GoToトラベルなどの業界支援ではなく、検査数をより増やすために集約して資金を投入すべきだと強調し、厚労省がなぜこうした対策をとらないのか理解できない、と怒りのこもった疑問を呈しています。政府の対策諮問委員会のメンバーの谷口清洲氏(三重病院臨床研究部長)も感染源を減らすことの重要性を説き、PCR検査による感染者の早期発見と、待機・入院などの保護、そして無症状者の検査強化による感染広がりの抑制を訴えています。
 経済政策の観点からも、政府の感染症対策分科会のメンバーでもある経済学者の小林慶一郎氏は、昨年春から効果的な検査の拡充による感染者の洗い出しなど「検査・追跡・待機」の実施が、感染拡大防止になると提言してきました。
 PCR検査については、偽陽性の者を含めて保護することは人権上や収容能力の面からできない、また偽陰性の者が感染を広める可能性があるなどとして、研究者やジャーナリズムのなかでも慎重論、反対論がありました。しかし、偽陽性については、医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏が、「検体に新型コロナがあった場合、結果に誤りはでない」と、権威ある医学誌の論文をもとに反論しています。加えて偽陽性者の存在を理由にしたPCR検査拡充の反対論は、感染者の追跡が難しい今、真の陽性者の存在を放置するにすぎません。
 また、PCR検査は頻度が重用であり、偽陰性はあるものの頻度を増すことによって感染者を減らすことができます。偽陰性の問題は一般に知られていますから、1回の検査で陰性だからと言って安心して行動することにはならないでしょう。いずれにしても偽陽性、偽陰性の問題から検査の拡充を抑制するというのは感染者を減らす目的からすれば本末転倒です。
 費用の問題については、GoToキャンペーンに費やした予算と比較すればできないはずはなかったことは明らかです。そもそも保健所の負担が大きいというのであれば、減らす手立てを講じ、検査の民間への委託も行えたはずです。この点は、昨年8月に退官するまで現場の最高責任者として感染対策にあたっていた厚労省鈴木康裕・前医務技監も認めています。
 つまり、感染源を減らすという施策を、難易度が高いからなのかその理由はわかりませんが、政府・厚労省は積極的にとらなかった。他国での成功例がありながら、検査によって動ける人と動けない人を分け、経済活動を部分的に動かしていくべきだという提言に耳を傾けなかった。その代わりに国民に「お願いします」と自粛と要請を繰り返し、社会に薄く広く息苦しいマスクをかけてきたように思えてなりません。
 本来いち早く行うべき医療従事者や福祉施設で働く人への検査にも積極的に取り組んでいません。自分が感染しているのではないか、患者、利用者に感染させてはいけないという緊張感を保ちながら業務にあたっている人のストレスはピークに達しているでしょう。検査拡充が一気にできないなら、せめてこうした現場の人への検査を優先して公費で行えるようにすべきではないでしょうか。 (ジャーナリスト 川井龍介)

気味の悪い進行 コロナ第3波

月曜日, 11月 30th, 2020

 コロナ禍がほぼ一年続いて、ここにきて薄気味悪さが増している。感染が拡大の事実そのものはもちろん気味悪い。しかしそれにも増して気味が悪いのが、事態が悪化していく可能性があったことは予測できたのに、その悪化の様をただ見てきたような感じがしていることだ。
 メディアも感染者の数の増加と医療現場の悲鳴を報じつづけるといった「現状報告」が主で、なぜ備えられなかったのか、備えるためにはどうすべきだったのかといったといったその先の報道があまりみられない。だから何度も医療関係者の悲鳴を聞くのがつらくなってくる。
 専門家は、GoToキャンペーンの前からこの冬には感染の拡大は予想されるといっていた。これにGoToが加わればなおさらであった。GoToキャンペーンについては、旅行産業を救うという点で有効だったので、この政策の是非については別に議論するとしても、悪影響についても想定を覚悟の上の実施だったはずである。だから、備えが必要だった。にもかかわらず最悪のケースでの医療体制への支援、そしてキャンペーンの中止など人の活動制限について計画的な備えがあったのかどうか疑問だ。

           最初から個人の努力の問題ではない

 11月27日、政府の感染症対策にあたる分科会の尾身茂会長は、「個人の努力だけに頼るステージは過ぎた」という認識を示した。しかしそもそも、ウイルス感染の問題が個人の努力だけで解決できる話ではないのは明らかだし、国がなにをすべきたかが最初から問われていた。
 にもかかわらず、検査体制の拡充の問題一つとっても明確な方向性を打ち出せないままだ。クラスターの追跡に伴うPCR検査ではなく、感染者の把握を大規模に行う検査については、偽陽性、偽陰性の問題があるためその有効性の有無について議論があったが、煮詰めた議論もされず、結局検査は増えたが感染状況を把握する検査にはほど遠いものである。一部の積極的なクリニックの努力に負っている部分もある。
 医療体制については、第一波のときに医療従事者のマンパワーの不足が心配され、現場を離れている看護師などを呼び寄せるなど医療スタッフの確保を進めるべきという提案が出されたが、その後どうなったのか。いま病床数の不足と同様に懸念されている。軽症者の療養施設についても対応できるのか心配だ。

           堂々と国民に説明できないのか

 これらすべてなんらかの検討はされていないはずはないだろうが、その形跡が国民には見えない。この点は、もう一つの気味の悪さを意味する。国のリーダーがコロナ禍に対する明確なビジョンを国民に直接示さないということだ。ドイツ、イギリス、ニュージーランドなどの首相が国民に方針を語り、示すのとは大違いで、日本では専門家の口を借りて遠回しに妥当な政策を暗示するか抽象的な努力目標を語るばかりだ。それも原稿を読み上げる形で。
 確たる気持ちがあれば、自然と言葉は内から出てくるものだから、そういうものがないと判断されても仕方ない。オリンピック開催についての「人類がウイルスに打ち勝った証として世界に発信」というフレーズも借りてきた言葉のようだ。極めつけは第三波の拡大時に首相が訴えた「マスク会食のすすめ」だ。これは保健所の担当者レベルがする注意喚起であり、一国の首相が示すべきものとは次元がちがうだろう。

            漠然としか感染リスクを示せない
 
 もう一つ気味の悪いことがある。感染の危険度が具体的に見えないことである。いったい感染者の割合はどのくらいなのかがわからない。また、感染のメカニズムもそれほどはっきり示されているとは思えない。
「マスクをつけて会食する」など個人に求める対策は、同席者が感染者だというのが前提だ。「人と見たら泥棒と思え」ではないが、「人をみたら感染者だと思え」というわけである。であれば会食する人数が多ければ、感染者に出遭う確率は高くなる。また、ウイルスは取り込む量が多くなれば感染のリスクは高まるといわれているので、長時間に及ぶ会食などの接触はリスクを高めることになる。
 では、どの程度の割合で感染者はいるのだろうか。どういうところにいるのか。これらについては行った検査の範囲内でしか示されていない。ただ先日、テレビで感染の疑いのある人を診療しているある医師が、どこにでも感染者はいる可能性はあると話していたように、追跡できるような段階を過ぎ、市中のどこに感染者がいてもおかしくない状況になっていると推定される。
 言い換えればリスクは漠然としているので、楽観的な人と慎重・悲観的な人ではかなり反応は異なることになる。政府が「勝負の3週間」と注意喚起した(どの程度国民に伝わっているのかは疑問)あとの休日の渋谷では、若者が集団でマスクもせずに戸外で飲み会をして騒いでいた。観光地や観光イベントもそれなりの人手でにぎわっている。一方で、感染者は増え続け医療機関の逼迫度は増している。
 地域を限ってでも徹底した検査によって感染の実態をつかむべきだとの意見は多かったが結局、こうした検査は行われなかったことが感染のリスクを具体的に示すことができないことにつながったのではないか。

         検査の議論を煮詰めることなく過ごした

 こうした徹底した検査については、「偽陽性の割合(確かな率は不明?)の問題から、多くの偽陽性者を隔離・保護することはできない。偽陰性の問題をどうするのか」という理由からの反対論が少なくなかった。偽陽性者の保護を人権上の問題からできないという意見については、すでにコロナ禍で多くの人権が制限されていて、こうした制約が公共の利益と照らし合わせて不合理だとは言えないだろう。また、保護施設が確保できないのでは、という問題は科学より政治・行政の問題であり、議論の方向が異なる。偽陰性の問題は、「陰性と判定されても100%確かなものではない」と、言い含めるしかないことは、これまでの検査と同様である。
 徹底検査の必要の有無の議論を煮詰めることなく、状況をやり過ごしている間に、陽性者は目に見えない形で市中に広がっていったと推測される。「偽陽性の者をあぶりだしては混乱をきたす」という論は、見方を変えれば陽性者の実態を把握することなく、結局誰が感染しているかわからない状況に導いたに過ぎないとはいえないか。
 
             楽しむ人と苦しむ人 

 さらに気味の悪いことがある。繰り返しになるが、一部の人による感染抑制に反する行為は何ら規制がないから、第一波のころから相変わらず野放しになっている。また、余裕のある人は旅行に出かける。その反対に医療機関や保健所で働く人が疲労困憊していく。
 自由に楽しんでいる人がいる一方で、苦しんでいる人がいる。こうしたことは何もいまはじまったことではなく、世の中はそもそもそういうものだが、楽しい個人の行為がまわりまわって他者を苦しめるという構図が明らかになるなかで、こうした状況を見せつけられるというのは気持ちのいいものではない。
 感染を抑制することと経済を回すことという両立しにくいテーマを実現するには、容認せざるを得ない制度もあるだろうが、誰かを苦しめて自分の自由や欲望を満たすということを一個人としてどう考えていくかという問題は別だ。今議論になっているカジノの問題がこれに似ている。例えば横浜市が推進するように、ギャンブル依存症の人への影響はあっても、財政上からカジノは必要という考えの是非だ。
 将来の市の財政のため必要だという横浜市の意見は一見もっともだが、財政上豊かになることが大事なのではなく、市民の生活が豊かになる(お金だけで計れ部分もあるという意味)ことが大事だということを考えれば、社会に負荷を与えず(誰かを苦しめず)に、財政上プラスになるような道を探る努力はまず第一だ。
 GoToキャンペーンも、確かに経済効果という点では有効だろう。だからといって国にとってこの時期にこれを実施したのは必要で正しい政策だったと評価を下すのは、国家の安全保障のためには沖縄に負担を強いてもしかたないといった乱暴な意見に通じる。官僚的な上から目線の安易な国益優先論だ。負担や苦汁を味わう同胞をできるだけ少なくする中で別の方策もないものかと考えるのが第一だ。
 この点は、ダム開発、原発建設、リニアモーター建設など、国益や経済効果といったお題目は掲げられるが、真の意味での公共の利益にあたるか疑問な巨大事業の進め方にも共通する。

           やがて自分の首を絞めることになる

 GoToイートも、ほかに方法はなかったのだろうか。要は居酒屋をはじめ飲食店をどうやったら当面救済できるかがテーマだが、どこに感染者がいるかわからない状況で、会食がもっともリスクが高いといわれているときに、「マスク会食」といった個人の努力レベルを頼りに「お得だからお店に行こう」と背中を押してもリスクが高すぎる。
 それよりまずは、資金を提供したうえで、アクリル板の設置や収容客数の制限、飲食時間の制限など具体的な指針を示し、これを遵守してもらい、少しでも顧客が安心して来られるようにする。守らなければペナルティを科すくらいでないと効果はないだろう。もし、このまま感染が拡大し続ければ欧米で行われているような営業禁止という措置に踏み切らざるを得ないだろう。そうなる前に、厳しいガイドラインと経済支援をセットにした方策が有効ではないだろうか。
「要請」のレベルでは、対応はバラバラになり、従ったものがバカを見るようなことになり、事業者間の軋轢も生じかねない。国民同士が反目し合うことの愚は、アメリカの例を見れば明らかだ。
 飲食業に従事する人の生活を支援するという意味では、航空業界で働く人が当面他業界で仕事を得たように、他業界で迎え入れるということも考えられる。コロナ禍で、多くの業界、業種が苦境に陥っているなかで、食品関係、ホームセンターなど業績を伸ばしている業種も少なくない。こうした業界で受け入れることも国は後押ししたらどうだろう。
 さらに言えば、企業だけでなく国民ひとり一人が、コロナで苦境にあえぐ業種や人を支援するための寄付ができるようにしたらどうだろう。国や自治体が支援するのはもちろんだが、多少なりともゆとりのある人はそのゆとりの度合いに応じて、支援してはどうだろう。いま、誰が感染してもおかしくない状況にあるなか、こうした支援はめぐりめぐって自分たちを助けることになる。
 ナチス・ドイツの時代、ルター派牧師で反ナチ運動をしたマルティン・ニーメラー の有名な言葉(詩)を思い出す。「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから」ではじまり、最後は、「私が攻撃された時、私のために声を上げてくれる人は、誰一人残っていなかった」で終わる。
 自分には直接関係のないことだと、不合理や正義に反することから目を背けていると、やがて自分がそうした目に遭った時、もはや手遅れだということである。自分は感染していないし、医療関係者でも飲食関係の仕事をしているものではない、と傍観していると知らないうちに自分にとっても手遅れになることがあるということを自戒を込めて覚えておきたい。

火事を必死に消火している人を横目に、花火を楽しめというのか 医療危機とGoToキャンペーン

木曜日, 7月 16th, 2020

 コロナ感染者に応対している病院スタッフのなかには、できることなら現場から逃避したいという声を聞いた。その一方でGoToキャンペーンの開始だ。病院は、警察や消防と同様に私たちの安全を保証してくれる存在だ。
 ものごとには優先順位というものがある。まずは医療機関に最大限の支援をするのが国や自治体の役割だ。しかし、感染拡大によって医療現場が危機的な状況にあるときに、税金を使って人の移動を促進させようとするのは、どう見ても不合理だ。火事現場で必死に消火活動しているとなりで、花火見物するようなものだ。火事の火花を気にせずに、きれいな花火を楽しめるのか。
 感染を完全に防ぐのは不可能だ。いまや個人として気をつけて常識的な行動をとっている人も感染している。だから万一感染しても十分な医療体制、あるいは静養できる隔離体制を整えるという、「万一感染してもある程度安心できる体制」が必要だ。もう一つ重要なのはPCR検査体制の拡充である。
 これに対しては、偽陽性、偽陰性という問題を揚げ、反対する専門家やジャーナリストもいるが、この論の科学的な根拠については、上昌広氏(医療ガバナンス研究所)の主張を読めば適当でないことがわかる。(連載医療従事者が本音で語る「日本社会」の現状~GGO For Doctor【第11回】政府無視し「PCR検査をしない真っ当な理由」騙る厚労省の大罪)。
 また、科学的以外の根拠として挙げている「偽陽性の人も含めた隔離体制など無理である」は、上氏の論からすればそうとは言えない。もちろん療養する施設がかなり必要なのは確かだが、可能な限りやるかどうかは政治・行政の判断次第である。

 効果の薄いマスクに税金何百億を費やす施策を即決し、医療支援より観光業やレジャーを楽しみたい人に金を使う決定を下せるなら、できないことはない。「整備は大変だろう」という科学的以外の理由を、なにも専門家が管理者側の立場を忖度して判断する必要はない。要はやる気があるかないかだ。
 また、なにかというと「PCR検査はその時のものであり完全ではない」といった意見がでるが、そんなことはずいぶん前から分かり切ったことで、それは計算済みで議論されているはずである。不完全であるなら少数の検査でもあまり意味がないことになる。しかし、そうではなく、ニューヨーク市のように回数を重ねて簡単にできるようになれば、少なくとも限られた検査に比べ、より陽性者との接触のリスクをより可視化でき、無駄な神経を使うことが軽減され自粛をする必要度も低くなる。
 しかし、検査に対しては「進まない理由がある」というのを専門家ではなく、国の施策として、方針として、そう結論付けているのなら、厚労省の医系技官のしかるべき人が説明をしてはどうだろう。知られざる事実があり、もしかしたら自分の方が勘違いをしているのかもしれないという謙虚な気持ちも持ち合わせている人も多いだろう。
 しかし、今までそれがないのだ。多くの人が気づいていると思うが、自然災害の際に気象庁のしかるべき人がその都度国民に向けて説明をするのと異なり、一連のコロナ問題に対しては、専門家ばかりが表に出て、行政の責任者(専門的な知識のある行政官)が表にできて発表、説明することがない。実に不思議だ。

           漠然とした不安がもたらす悪弊

 いまあるのは、データが少ない中の漠然とした感染の不安のなかで、これにおびえ行動を制約させている人たちと、わからないのだから楽観的に行動する人たちの2極化ではないだろうか。実態は同じなのに、検査に基づくデータがないことがそれぞれが個人的な憶測で感染リスクを判断するなどして混乱を招く。
 繰り返すが、感染はだれにでも起きる可能性があるのに、常識的な行動をとって感染した人にも、差別的な見方が広がっている問題もある。感染したがために引っ越しを余儀なくされた例すらある。本来は被害者なのにだ。
 差別する人間は、自分が感染したら差別されるだろうことはわかっているから、極端に神経質になる。人を差別する人が自分の検査してみたら陽性だということもあるだろう。感染を顕在化することによって、感染に対する差別も多少は減少するはずだ。インフルエンザに罹ったからといって引っ越しを余儀なくされることがあるだろうか。
 プロ野球選手が、シーズン前にPCR検査をして臨んだチームの例のように、固定された集団は検査をすることによって自分たちも周りも、何もしなかったときに比べてリスクの度合いはわかる。だから、歌舞伎町のホストクラブやキャバクラで起きた集団感染に対して、徹底して関係エリアの人たちの検査をいち早くやるべきだという意見は早くからあった。しかし一部の検査に終わってしまい、その間に感染は広まったと考えられる。

         カジノを進め、キャンペーンも勧める横浜
 
 話をGoToキャンペーンにもどせば、データに基づきリスクがある程度可視化され、医療体制が整い、感染が減少傾向にあれば人は、安心を得て「観光」に動きだすだろう。観光業界への支援は大いに必要であることは異論はない。しかし、その支援策がいま人を動かす形で実行されることが、地域や観光業にとって最善の策なのか、疑問だ。
 統制と管理が、自由な個人・個人集団に比べればなるかにとれている「教育現場」でも、修学旅行は取りやめ、本来の夏の甲子園大会も無観客でも取りやめになっている。これと比べてもキャンペーンの仕方は腑に落ちない。
 首都圏で観光都市でもありまた感染も拡大している横浜市は、この時期にすら市長が統合型リゾート(カジノ)建設推進に力を入れている。そういう考えだから市民に「ぜひ、県外に旅行なさっていいんじゃないかと思う」(毎日新聞、7月16日付)」と、軽々と驚くべきことをいう。神奈川県知事も同姿勢で、政権の支持を受けている自治体の首長らしいというしかない。ともに平たく言えば実に“軽い”。
 横浜市の市長は、超高齢社会の市財政を考えるとカジノ建設が必須という。お金という表に見えるだけの指標で考えるからこういうことになる。ギャンブル依存症、環境破壊による見えざるディメリット(結果として社会資本に経済的にもマイナスを及ぼす)に深慮をめぐらすこともない。コロナ問題を見ればわかる。いかに財政を支出したか。経済対策として金を回して表向きに成長を見せても、それを相殺する以上の支出を生み、公共社会に、また個人に心理的ダメージを与える。だから、同市長の考えは“薄っぺらい”といえる。

 自治体でもキャンペーンに対しての意見は様々だし、地域でも業種によって意見は異なる。キャンペーンによって利益を得る人とそうでない人がいるからだ。これが時によって地域内に軋轢を生んだり、下手をすると分断をもたらす。
 こうした図式は、原発導入、ダム建設、リニアモーター建設のような巨大開発などと同じで、昔から繰り返されていることだ。あえて地域を分断することで開発を進めるというやり方を政治は幾度となく行ってきた。今回はそうとは思わないが、結果として分断を生むとしたらその責任も大きい。

  自分さえよけりゃいい 現政権下での倫理観の低下           

 キャンペーンという割安な旅行とはいえ、出かけることができるのは経済的に余裕がある人だ。こういう人はなにも援助しなくても安心すれば旅行にでる。それをわざわざ税金を使って旅行をしてもらおうという。
 少なくとも医療関係者や保健行政に携わっている人への手厚い支援があってのことならそれもいいが、そうでない状況の下で感染拡大のリスクの原因の一端を背負っていると想像したら、旅行者もまた心底から楽しめないのではないか。いや、ひょっとするとそんなことはないのか。
 というのは、自分が感染していなければいい、感染していないからいい、という風潮があるような気もするからだ。コロナ問題だけでなく、自然災害も原発の被害も、さらには辺野古の埋め立てに象徴される沖縄問題でも同じだ。被害に遭う人は多いが、日本人全体からすれば一部であり、過半数は占めない。
 圧倒的多数の被害に遭わなかった人が、社会問題についてどう考えるかというと、被害者の側に身を置いて考えるようにはなっていない気がする。森友問題で自殺した公務員の置かれた悲劇には同情しても、自分の身には起きないと思っている。つまりいまの自分は問題がないから現政権で、そして現在の政治にことさら反対する理由はないのだ。
 それ以上に、もっとも近くでは電通への優遇措置から数えれば、検察庁人事、さくら問題、モリカケ問題と、これだけ政権のコネ政治疑惑が続いても、これを、最低でも倫理的に問題ありと異議を唱えない人たちがいる。これもひょっとすると、「そうか権力者に近くなると得をするということがあるのか」と、思う傾向もあるのではないかとすら疑う。
 だとすれば、これは長年の“お友達大事”、“仲間優先”政治が生み出した大衆の倫理観の低下の表われなのか。現政権、安倍首相は今回の危機で、その統治能力、政治哲学、そして社会をどういう方向にもっていこうかという大きなビジョンが見えてこないことが明らかになった。
 ついでに言えば、驚いたのは今回の豪雨被害があった直後の首相会見で、対策についてひとこと語った首相は、原稿を見ながら話していたのだ。国民が被災して死者も出ているその実態を前に、「大変だな、かわいそうだな」という気持ちがあれば、そんな言葉は自然と出てくるものではないか。この人にはそういう気持ちがないのだろうか。
 批判のための批判ではない。これだけひどいことが続き過ぎると、そう言わざるを得ない。しかし、それを暗黙に支持している国民、大衆にも責任がある。おかしいのは政権だけでない。「裸の王様」はやはり大衆だ。

    運のいい者と金のある者が生き残る野蛮

 問題は起きてもこれに対する解決策については、問題にかかわらなかった幸運な人の意見や気分(意見のないことで為政者に都合のいいように結果として決まることもある)が、多数決の原理で反映されているのではないか。また、問題が起きたとき往々にして乗り切ることができるのは、経済的に裕福なものだ。
 こうしてみると、たまたま運がよかった人たちと、金のあるものが生き残っていくことだろうか。歴史を振り返れば、なんとも野蛮な時代の淘汰のされ方と変わりないことがわかり、愕然とする。
 ふつうに生活して困難な状況に陥った人、自然災害や今回のコロナ感染など自分の責任以外のことで大変な目に遭った人を支えられるような社会、こういう社会を作ることを民主社会の中で長年人々は目指してきたのではなかったのだろうか。

コロナ禍に紛れて続く辺野古埋め立てという無情な蛮行

木曜日, 4月 23rd, 2020

 政府は、辺野古の埋め立て計画の設計変更をするという。軟弱地盤に対応するため、7万本の杭をうちこんで地盤を固める。これによって費用は当初予定の2・7倍の約9300億円となる。当然、工事期間は延び、埋め立てと引き換えになっている米軍普天間飛行場の移設は、2030年以降となるという。

 周辺住民にとって危険で、環境を脅かす普天間飛行場は少なくとも向こう10年はなくならず、一方、辺野古の自然が破壊されるのはいうまでもなく、周辺住民は10年も建設継続にともなう、工事車両の通行など住環境を損なわれる。そこに暮らし続ける人のことを、今までだけでなくこれだけ泣かせ、困らせ、海を汚して、数多くの基地に加えてさらに基地をつくる必要があるのか。あるという人間は、10年住んでみたらどうだ。辺野古基地新設の代替案を考える最後の時だ。

 コロナ禍で必死に働く人がいる医療現場へ果たして十分な資金、資材などの提供を国はしているのか。その一方で使われる9300憶円とはなんなのか。真の安全保障、公共の利益とはなんなのか、今こそ考えたい。どさくさ紛れともいいたくなる辺野古埋め立てや、横浜のカジノ建設など、いかがわしい事業、施策を見逃さないようにしたい。

穏やかで美しいかつての辺野古の浜(島袋武信さん撮影)

 

 

Hold On Tom Waits を聴く 

火曜日, 4月 21st, 2020

You gotta hold on, hold on

You got to hold on

Take my hand, I’m standing right here

You gotta hold on



なぜできないか、をなぜ問わない

水曜日, 4月 15th, 2020

 日本医師会会長が会見で、医療崩壊の危機が迫っていることを訴えている。が、いったい誰に向けて話しているのだろう。市民一般は自粛以外に協力のしようがない。それで不十分なのは明らかなのだから、国に「○○してほしい、すべきだ」とはっきり言えばいいのになぜそれを問わないのだろう。

 
 厚生労働省クラスター対策班の西浦博・北海道大教授が、15日、流行対策を何もしないと、40万人以上が死亡すると予測されることを公表したとメディアは報じる。あいまいな記事だ。西浦教授は研究者の立場で話しているのか、国の立場で話しているのか、こんな報道の仕方ではわからない。

 大切なのは、そうならないために、誰が何をしなくてはいけないのかだ。国民に対する警鐘なのか、内部スタッフの悲鳴として、首相に訴えているのか。メディアは、彼がどういう立場でどういう意図で誰に訴えたいのかを示さないと、問題解決に至らないのではないか。

 国はPCR検査を広げようとしている。民間の力を借りればそれはできるという。だけど現実はできていない。それはどうしてなのか、状況報告と警告と、悲鳴だけが聞こえてくる。当事者、厚労省の責任者、大臣、首相の確たる決意や覚悟が表明されない。なぜなのか、メディアの関係者、そこを突っ込んでほしい。

 

裸の王様は首相ではない。大衆、我々自身だ。

水曜日, 4月 15th, 2020

 医療現場が崩壊の危機に瀕している。患者の側も危機に瀕することになる。発熱外来の設置などコロナ関係の疑いのある人を専門的に受け入れる窓口、感染者とわかった場合の収容先、その整備が遅れている。1月以上前から言われていたことだ。

 なぜ、できないのか。実際権限のある厚労省の担当者、厚労大臣の具体的な話が全く出てこないで、メディアで専門家たちが「しっかりした対応が求められる」的な発言を繰り返している。

 世の中には、地震など突然襲いかかってきて対応できない災害がある。しかし、今回のウイルス禍問題は、他国の例があり対応する時間があり、先行きを危惧する意見は多々あった。なのに対応できない。最大の責任はリーダーにある。そのリーダーが、「なぜPCR検査が進まないのか」と、疑問を投げかけている。天につば吐くようなセリフを平気で言う。だから、場違いな動画で批判を受ける。

 今、責任を問い詰めても時間がない。厚労省も手一杯なら民間に、国民に助けをもとたらどうだろう。「総理や厚労省は何している?」と糾弾するレベルは過ぎてしまった。金と知恵をみんなで出し合ってなんとかしようではないか。

 二つの言葉を思い出す。一つは、かつてアメリカのジョン・F・ケネディ大統領が言ったことだ。「国があなたに何かをしてくれるかを問うのはなく、あなたが国に何をできるかを考えてほしい」。もう一つは、反ナチ運動の神学者、マルティン・ニーメラーの詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」だ。ナチスの攻撃は最初は共産主義者だけだった。しかし自分には関係ないと思っていると、それがいつしか自分へと向かい、そう気が付いたときは助けてくれる人は誰もないということだ。

 星野源の動画に、入り込んだ首相の行動が笑いと批判を浴びている。医療現場では、自らの危険を顧みず必死に働いている人がいる。それを少しでも感じれば、優雅にソファで犬を抱えて、カップを口に運んでいることがおかしなことが想像できるのではないか。これは常識だろう。首相には残念ながら人の気持ちをさっする情というものが欠けている。また、この一大事にマスクをつけながら原稿を下を向いて読みながら国民にメッセージを発するなど、リーダーとしての覚悟も感じられない。リーダーに必要な情と覚悟がない。

 想像するに側近とか親しい人にはとてもやさしくていい人なのだろう。だから大新聞や経済界の重鎮も取り込まれるのだろう。この人の在任中、有権者のモラルも下がったのでないかと気になる。ことの良しあしより、首相(あるいは、首相のように権力を持つ人)のお友達になった方が得だろうと思うような人が増えてしまったのではないかということだ。

 話は少しわきにそれたが、首相に適切なアドバイスをする側近はいなのか、首相は裸の王様だという論がある。しかし、首相は裸だともう多くの人がいっている。裸の王様は首相ではない。こうした事態を招いている安倍内閣を支持する大衆こそが裸の王様である。メディアは大衆を批判すべきだ。

 

 

 

新京商業、新京、満州

日曜日, 2月 15th, 2015

中学時代だったか、学校に提出する家族の情報のなかに保護者の最終学歴というのがあった。そのとき私は、父親が「新京商業高等学校」という学校を出たことを知った。

日本にはないような新京と名称から、そんな学校があるのかな、と思っていたくらいであまり気にも留めていなかった。まもなくそれが旧満州国の首都、新京(長春)にあった学校だとわかった。
「親父が、日本にいてもたいしたことないだろうから、満州でも行ってみたらどうかっていうんで行った」と、父は話していた。このときも「へぇー」というくらいで、それ以上そこがどんな学校かなど聞くこともなかった。

戦争に行っていた父親は、朝鮮半島の平壌から最後は逃げてきたなど、ときどきぼそっと戦争体験を話していた。が、まったく興味のなかった子供のころの私は、何かを尋ねることなどなかった。

それから30年以上たって戦争のことや父親の戦時体験などについて、知りたいと思ったときは父は亡くなっていた。愚かと言えば愚か、よくある親子の話といえばそれまでだ。しばらくして父親が所持していた新京商業の卒業アルバムを見つけた。
それは戦時中とは思えないほど立派なもので、校舎や生徒たちの写真がずいぶんと使われていた。正面玄関と思われる前での終業写真をみても、立派な建物で、改めて満州で日本が作り上げようとした意図の一端が感じられた。

新京と新京商業について、もう少新京アルバムし知りたいと思っていたところ、新聞社の人の紹介で新京で生まれ育ったというTさんに会うことができた。Tさん宅を訪れ、いまの新京(長春)にも訪れたことがあるという彼女から、かつての新京のまちの地図や新京商業について、書かれているものを教えてもらった。
それをみると、新京がいかに計画的な人工都市として整備されていたかに驚かされた。新京商業は市街地の中心部に位置していた。日本がつくった主要な建物は、いまもかなり残っていて、新京商業も中国の実験中学という学校としていまも使われていた。

新京商業については、卒業生でシベリア抑留経験がある人が本を著していて、その方と連絡がつき、数年前に訪ねて行ったことがある。埼玉県に住むMさんで、彼は父より一学年下だった。Mさんから新京商業は、昼間部と夜間部があり、私の父は夜間部だったことがわかった。父はどこかで働きながら学校に通っていたようだ。
Mさんの学年は卒業アルバムがないと残念がっていた。アルバムのためにお金をつみたてていたが、制作を頼んでいた東京の印刷所が空襲か何かで焼けてしまったそうだ。

私が訪ねたときMさんは視力を失っていた。私が持参した父が所持していたアルバムについて、どんなことが載っているかをMさんが聞いてきた。
「校舎そばにライラックの花が咲いている写真があります」と、Mさんに言うと、「あー、そうだ。ライラックの花があったなあ」と、懐かしそうに思い出していた。後日、アルバムをコピーしてMさんに送った。

新京商業のみならず新京の学校を母校としていた人たちは、当然のことながら終戦とともに母校は消え、想い出をたどる郷愁の地はなくなった。卒業アルバムだけでも残っていた人は幸運だったといえる。戦争中のことなど何も残さなかった父親が唯一残したのもそれなりの意味があった。

窓ガラスの汚れ、ピースとハイライト  2015年元旦

金曜日, 1月 2nd, 2015

fuji015

元旦、茅ケ崎市西浜海岸からみる富士山(09:55)

 

大晦日に自宅のガラス窓を拭いた。最初に外側から布で拭いて汚れをとる。つぎに内側から汚れを拭き取る。それでもよく見るとまだ汚れている。外から拭くと、あれ?汚れが落ちない! 汚れているのは内側なのか。いや、やっぱり外側か。

ガラスの汚れの原因が内か外かを見極めるのは実にむずかしい。ふと、これは人と人との議論や意見の違いと似ていると気づいた。ぶつかり合ったとき、互いにその原因は相手にあると考えて、自分が正しいと主張する。だが、ガラス窓の汚れの原因がどちらの側にあるのかわからないように、誤りは自分の側にあるかもしれないのだ。

自己の正当性を声高に主張する、つまり自分の側のガラスは汚れていないと言い張る議論がここ数年際立っているような気がする。

この夜、NHK紅白歌合戦で、久しぶりに登場したサザンオールスターズ。桑田佳祐の歌う「ピースとハイライト」の歌詞が意味深だ。

♪ 今までどんなに対話(はな)しても
それぞれの主張は変わらない。

♪ いろんな事情があるけれど
知ろうよ互いのイイところ

自分の主張の正しさを譲らずに、意見を戦わせる。いくら対話をしても主張は変わらない。でも、違いをみとめて、相手がなぜそういうことをいうのか、相手の事情やいいところも理解しようとしてみたらろうだろう。そんな気持ちをやさしく訴える。
理想主義と言えばそれまでだが、いつからか、理想を掲げる人を「甘っちょろい」とか、「現実を見ていない」と、見下すような風潮がある。確かに理想だけを標榜して、それに至る現実的なプロセスを考えない意見は弱い。しかし、問題に対峙した時、理想のない対応策は、力のない淋しい現実主義とはいえないだろうか。

桑田は、ポップなメロディーにのせて時々、社会的な言葉をのせる。音楽のもつ力を発揮して、わかりやすい言葉で理想を語る。人々にまずは互いを知り合うようにと。切なく、セクシーな言葉とメロディーが真髄のサザンには、こういうサウンドもあるのだ。
ますます世の中は、自分と意見の異なる世界へ不寛容になっている。もう一度原点に立ち返って腹を割って語り合ってみようというサザンのメッセージは、この時代に意味が深い。嫌いなやつや意見が合わないやつはいる。でも、どうして相手はそう考えるのか、まずは考えてみたらどうだろう。
ガラスの汚れから桑田の歌へ。そして明けて2015年。ガラスの汚れを落とすように、対立は時折立場をかえて原因を探ってみたいものだ。(敬称略)