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戦後80年と第五福龍丸 乗組員は、戦争の海を生き抜き 再び海で悲劇に遭った

金曜日, 5月 23rd, 2025
和歌山県の古座造船所で建造中の第五福龍丸(第七事代丸)

 
 1954年3月1日、太平洋上で静岡県焼津港所属の遠洋マグロ漁船、第五福龍丸がビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験により、死の灰(放射性廃棄物)を浴びた。そして同年9月、乗組員のひとり久保山愛吉さんが亡くなったこともあり、この事件は、再び原爆の悲惨な記憶を日本人に思い起こさせ、全国的に反原爆の運動が広がっていった。
 その後、3月1日は、「ビキニデー」として知られるようになり、一方、東京・江東区の夢の島で保存されている第五福龍丸は、反核のシンボルとしての役割を果たしてきた。
 ビキニデーや第五福龍丸について語るとき、核と放射能の恐ろしさがテーマとして取り上げられることが多い。しかし、この船に関わった人たちを通してみると、そもそもアジア・太平洋戦争と深い関わりがあることがわかる。

 第五福龍丸は、1947年紀伊半島の南端に河口を開く古座川の中州にある造船所で、カツオ船第七事代丸として建造された。
 第五福龍丸の乗組員は、全部で23人いたが、みな大正から昭和初期の生まれで、青春のどまんなかを戦争とともに過ごし戦争を体験した。最年長の久保山愛吉さんは若いころ通信士として漁船で働いていたが、その船が海軍に徴用されたため、今度は軍属として働くことになり戦時中ビキニ環礁のあるマーシャル諸島のクワジェリンで任務についた。しかし、急性盲腸炎のため焼津に帰郷。この半年後クワジェリンの日本軍はアメリカの攻撃を受けて全滅した。
 漁労長の見崎吉男さんが乗っていた漁船も戦時中は徴用され、小笠原諸島でアメリカの戦闘機の攻撃を受けて沈没、見崎さんは海に飛び込んで九死に一生を得た。戦後は日本人の外地からの引き揚げ船に乗った。
 甲板員の鈴木鎮三さんは、海軍軍属としてマーシャル諸島に向かった際にクワジェリン環礁のルオット島で米軍の艦砲射撃を受け、海へと伝馬船で逃げ惑う中でアメリカ軍に拿捕されハワイにつれていかれ収容された。
 操機手の高木兼重さんは、戦時中に軍事徴用された貨物船に乗り、トラック諸島からマーシャル諸島に航行中、敵の潜水艦から攻撃を受け、海に投げ出されたが、幸い見方に救助された。また、操舵手の見崎進さんは、海軍に徴用された焼津の漁船に乗った。船が硫黄島付近で哨戒にあたっているとき米軍機の機銃掃射の浴びた。乗組員30人のうち12人が死亡したが見崎さんは足にケガを負うだけで済んだ。
 彼らは、戦争が終わり、ようやく地元に戻り船に乗ろうと思っても、漁船は戦争で失われていた。また、GHQはしばらくの間新たな船の建造を認めなかった。それがようやく可能になり、さらに操業区域が拡大して遠洋漁業への期待が高まってきたまさにそのときに、第五福龍丸は被ばく、乗組員は再び太平洋で命の危険にさらされたのだった。
 第五福龍丸の被ばくは、終戦から9年後の話だが、実は戦争と深い関わりがあることを知っておきたい。

優先順位と社会科学

金曜日, 9月 20th, 2013

 社会も個人も、常になにか課題を抱えている。数え上げたらきりがないし、ことの重要さにおいて甲乙つけがたいものもたくさんある。しかし、それでも人は一度にたくさんの問題に同じように向かうことはできない。

 だから優先順位というのが大切になる。力の入れようの順番だ。社会で言えば、福島原発の汚染水処理の問題が日本でいま一番力を入れるべき課題だろう。だが、これまでの東電と国の対応をみれば、とても最優先に値するほど全力で対処しているとは思えない。

  東電も国も当事者意識が十分ではない、などと識者もマスコミも批判する。しかし、なぜ十分に対応できなかったのか、その根本原因を見極めないと今後の対応も変わらないだろう。
 
 本来は、最優先課題であれば国がいち早くリーダーシップをとって対処すべきだ。一民間企業の東電に任せられるはずがない。一企業の失敗を国が、国民が肩代わりするのはおかしいなどと言うのは、瀕死の病人を前にして、「日頃の健康管理がなっていないからだ」と、説教をするようなものだ。

 だれの責任だろうが、まずは全力で対処する、法整備もする、そのための負担であれば国民の多数は納得するだろう。しかし、それをしないで東電に任せておいて、ようやく国が腰を上げて対処するという。それもオリンピック招致のために本腰を入れるような感がある。恥ずかしい限りだ。

 もとをたどれば、戦後の長年の自民党政権のときに計画をつくりあげ、推進してきたのが原発建設である。これに関わった政官財(ときにマスコミも含まれた)の共同利害が適正な批判を受けることなく、進めてきた責任は大である。これには一部有権者の責任もあるが、原発事故後との各調査委員会の報告でも明らかなように、原子力ムラといわれる馴れ合いの仕組みのなかで独善的に進められてきた過ちは、政策に関与したものの責任である。
 
 しかし、これをもって「私たちに責任があった」として、立ち向かう姿勢は見られない。逆に、真摯に対応することが、責任があることを認めてしまうかのようにとられるのを恐れるように、中途半端な対応をする。だから、国に責任があるのか東電に責任があるのか曖昧なままになる。
 
 こうしただれも責任をとらない仕組み、集団責任という名の、無人格なものや制度に責任を負わせているような仕組みは、先の戦争の責任を詰め切れない日本社会の体質のようだ。この体質とそれに基づく、社会政策の仕組みを変えないといつも同じ対処の仕方になる。政策決定の公正な仕組みと、失敗や過ちを犯したときの責任の取り方をはっきりさせることが求められているのではないか。

 難しい原発の設計ができてもタンクからの水漏れすら防げない事実は、科学技術の問題ではない。予見できていても、あるいは、こうすべきであるということが想像できても、それを実行しない、実行しなくても済む仕組みと体質があるのだ。これを徹底的に解明する必要があるだろう。
 安全対策に欠陥があったという単純な問題ではない。社会の仕組みに欠陥があるのだ。原発の安全性などの問題についても、自然科学の議論ではなく社会科学的なアプローチで問題の本質をえぐり出す必要がある。

(写真は浜岡原発)