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トランプ、安倍、フロリダ、大和コロニー

アメリカのトランプ大統領が安倍首相をフロリダ州パームビーチの別荘に招待して、一緒にゴルフをするという。
会員制クラブを兼ねているというこの別荘は、1927年に富豪で社交界の名士である女性、マージョリー・メリウェザー・ポスト氏によって建てられ、Mar-A-Largo(マール・ア・ラーゴ)と呼ばれた。
彼女の死後、“冬のホワイト・ハウス”として国に寄贈され、国定の歴史建造物にもなった。しかし維持費が莫大で、その後彼女の娘に返還された。それを1980年代にトランプ氏が買収した。

パーム・ビーチは、高級リゾートで、メインストリートのワースアベニューには、高級品店が軒を連ねる。富豪たちが別荘をもち、なかには日本家屋かと思える建物もある。1957年に日本を訪れたのち日本文化を気に入った施主が建て、庭園は小林という日本人に作らせた大きな二階家だ。残念ながら小林はその直後にその後マイアミで殺されたという。
このパームビーチを拠点に、19世紀末からフロリダ開発に挑んだのが富豪ヘンリー・フラグラーだった。フロリダには、もともとはネイティブ・アメリカンしかいなかったが、16世紀初頭にスペイン人が領有、その後イギリス、スペインと領有権は移り、最後はアメリカが併合すると、インディアンを武力で排除した。

スペイン人が入植して作った大西洋岸の古い町、セント・オーガスチンを晩年訪れたフラグラーは、地中海的なリゾートを作ろうと開発に乗り出した。まず、パームビーチにホテルを建て、所有するFlorida East Coast Railway という鉄道を大西洋岸に沿って南へと延長していった。

砂州の上に建てたコロニアル・スタイルのリゾートホテルのなかには、当時世界最大、1081室もある巨大なホテルも誕生した。ホテルの先には桟橋をつくり、そこから客たちは船でカリブ海のナッソーやキューバへと遊覧した。
また鉄路は南のマイアミをとおり、さらに海上をサンゴの小さな島々づたいに走り、1912年、とうとうキーウェストまで到達した。「ハバナ・スペシャル」と名付けられた列車は、はるか北のポストンを出発すると、三日目にキーウェストに到着し、そこから船でキューバのハバナまで旅客を運んだ。
しかし、この鉄路も1935年のハリケーンで、海上の橋脚は破壊され鉄路は跡形もなく消えた。以後鉄道は再建されることはなく、自動車道がそれにかわった。

フラグラーは幸いにも、このハリケーンを知らず、1913年にはこの世を去った。彼がパームビーチに建てた自宅はホワイトホールを呼ばれたが、その後フラグラー・ミュージアムとなり公開されている。

フラグラー・ミュージアム

彼のフロリダ開発の余波は、当時ニューヨークに留学中で、実業家にあこがれていた酒井醸という日本人青年の心を動かした。彼はリーダーとなって、パームビーチから南に40数キロ離れたところに大和コロニーという日本人村をつくった。しかし、長くは続かず、戦前に自然消滅した。
かつてコロニーがあったあたりには、その痕跡はなにも残っていない。しかし、そこから数キロ離れたところに、日本庭園と博物館ができている。The Morikami Museum and Japanese Gardens (モリカミ・ミュージアム・アンド・ジャパニーズ・ガーデンズ)というこの公園は、森上助次という人物の名にちなんでこう名付けられた。


森上は、コロニーづくりに参加した一人で、最後まで当地に残り、所有する土地二百数十エーカーを地元に寄付、これがもとになってこの公園や博物館などができた。酒井と同じ京都府宮津市出身の彼は1976年に89歳で亡くなるが、生涯独身で一度も日本に帰ることはなく、晩年はトレイラーハウスで暮らした。

私が最初にフロリダを訪れたのは1986年2月だった。中部大西洋岸のデイトナビーチという町に、それから一年滞在した。ビーチはいつも賑やかで、延々とつづくビーチを車が数珠つなぎになって、まるで散歩をするかのようにゆっくりと走っていた。ピックアップトラックの荷台からビキニ姿の女の子たちが投げ出す脚がまぶしかった。

まばゆいばかりの光景に唖然としたのを覚えている。白人がほとんどで、日本人に出会うことなどほとんどなく、東洋的なものにすら出くわすことはなかった。しかし、このフロリダにも明治時代に日本人の足跡があったことを、しばらくしてから知ることになった。

きっかけは、ハイウェイ95号を南下しているとき見た「Yamato Rd.」というサインだった。これが実は日本語の大和からとった「ヤマトロード」で、かつての大和コロニーに関連して名付けられた道だった。酒井醸が野心に燃えて作ろうとし、最後に自分の名前を現地に残した森上助次が一農民として参加した、あの大和コロニーである。

 

ゴルフをする二人は、知る由もないだろうが、今のテレビ番組風に言えば、「こんなところにも日本人がいた」のだ。

『大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち』(旬報社、川井龍介、2015)

大和コロニー フロリダ、移民、日本人

「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)をこのほど出版しました。ざっと、あらすじをまとめると、以下のようになります。

表紙

フロリダ州に20世紀の初めから大和コロニーとよばれる日本人の入植地があったことはほとんど知られていない。しかし、戦後もこの地で農業をつづけた京都府宮津市出身の森上助次が、地元に寄贈したことがもとで、現地には広大な日本庭園と日本文化を紹介する「The Morikami Museum and Japanese Gardens」(以下モリカミ)が建設され、いまも多くの人々が訪れている。この寄付が縁で、宮津市とフロリダのデルレイビーチ市とは姉妹都市の関係になっている。

なぜ、ここに日本人が移民したのか。20世紀のはじめ、アメリカ国内は未開発の地が広がっている時代、フロリダ州では大西洋岸に延びる鉄道敷設計画が進められ、リゾート開発が始まった。ロックフェラーとともにスタンダード石油を経営した実業家で大富豪のヘンリー・フラグラーが企画したこの計画にともない、開発と同時に入植者を呼び込む動きが広がった。
これを知ったのが、当時実業家を目指してニューヨーク大学に留学中の酒井醸だった。宮津藩士の息子に生まれた酒井は、義兄で丹後縮緬商の沖光三郎に財政的な支援を得て、南フロリダに集団移住を計画し日本人のコロニー(入植地)をつくろうとした。そこで、ニューヨークの知人らに声をかけたほか、郷里の宮津に帰り人材を募集して現地入りしたが、そのなかのひとりが森上助次だった。
大和コロニーと名付けられた日本人村では、野菜や果物をつくり、鉄道を利用して全米に販売し栄えたこともあった。しかし、環境面で耕作はきびしく、農業自体は大きな成功にはいたらなかった。また、1920年代にはフロリダの土地ブームもあって土地を売って農業から離れるものも多く、のべ140人ほどが暮らしたコロニーは衰退。戦争で土地も接収され、コロニーは解体した。

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

しかし、森上助次ほか数人だけは現地の周辺に残った。助次は一時は恐慌で全財産を失うなど苦労しながらも土地を少しずつ買いためていった。その一方で農業を続け生涯質素な暮らしをしながら、独身を貫き、また日本にも帰国せず現地で89歳の生涯を終えた。
助次がアメリカへ来た理由の一つはプロポーズした相手への失恋だった。彼女のことを生涯忘れられなかった助次は、晩年思い焦がれた人と文通をすることができた。彼女もそんな助次の思いを懐かしい想い出として受け止めた。
助次が寄付した土地をもとにした公園の広さは約200エーカー(約24万坪)で、湖を中心にして6つの区域に分かれる。一周はおよそ1・2キロくらいの散歩道。瓦屋根の本館があり日本の美術品が展示、茶室や225人収容のシアターもある。コロニーの歴史や日本の生活様式なども展示している。
正月の餅つき、お盆の精霊流しや花火など季節の催事を行い、年間を通して、生け花教室や茶道教室、日本料理や日本の庭作りを紹介。日本語教室などといった教育的なプログラムも組み、地域の人に日本文化を広め交流を図っている。

 

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

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私がこの事実に興味をもったのは、ひとつにはアメリカがまだ発展途上で、フロリダの開発がオイルビジネスで成功した大富豪の手によって進められ、これに呼応した日本側の移住、入植プロジェクトもまた生糸産業、縮緬産業による富がつぎ込まれたという、ともに大きな時代背景があったことです。もうひとつは、酒井醸のようなインテリの理想と、失恋が動機で右も左もわからず入植した森上助次のような「農民」の、個人としての生き方の魅力です。
大きな時代の流れと制約のなかで、個人の夢や理想はどう動いていくのか。移民という冒険を通して見えてくる時代と社会と、個人の意志と運命が交錯するところにこの“物語”の醍醐味があるような気がする。