Archive for the ‘言葉, Japanese’ Category

なんだろ、自分たちのサッカーって

火曜日, 6月 17th, 2014

 

ワールドカップで日本が初戦を落とした理由について、「自分たちのサッカーができなかった」と、キャプテンの長谷部が言った。他のメンバーでも似たようなことを言う。なんだろう、自分たちのサッカーって。
勝ったときは自分たちのサッカーができて、負けた時はできなかった。なにも具体的に勝敗を分けた理由を言っていないに等しい。

 言うまでもなく、思考は言葉で行う。言葉で説明できないということは、思考が整理されていないことになる。こうなると、敗因も頭の中で整理されているのかどうか疑問である。

 あえて言葉で説明したくない人は別として、説明する立場にある人が、具体的に論理的に説明できないということは、いかがなものか。また、それに対してインタビューする側も「自分たちのサッカーって何ですか」とはきかない。

 日ごろの付き合いがあり、日本ではどうしても聞く側と答える側に仲間意識があるから、きびしい突っ込みはしない。解説者の元サッカー選手たちも同じだ。「過ぎたことは忘れて前を向いて」とか言う。視聴者、読者より仲間が大事なのだ。

 ただの批判ではなく、建設的な意味で反省点をしっかり聞きたいものだが、そういうことは残念ながら聞けない。だれか、教えてくれないか。自分たちのサッカーってなんなのか。

Ross MacDonald(ロス・マクドナルド)の言葉②

日曜日, 3月 9th, 2014

 千葉県柏市の路上で通りがかりの31歳の男性会社員を殺した男は無職の24歳だった。未来のある何の罪もない人間を殺した罪は一生かかっても償いきれるものではないだろう。

 名古屋駅前で自動車を暴走させて、無差別に13人に重軽傷を負わせた事件の容疑者は30歳の男だった。彼の父親が警察官だったことが報じられ、報道のなかには、親ならまして警察官なら、公衆に対して謝罪すべきだという浅薄な意見があった。

 百歩譲って、よほど幼児期に虐待をしたなど、家庭教育の過程で人格を歪めたような形跡がはっきりとしているなら、そうした意見も容認されるかもしれないが、30歳の人間の犯行に対して、外部が容疑者本人にではなく、親だから警察官だから謝罪せよなどと断罪できるはずがない。

 自分が親で警察官で、常識ある人間だったら言われなくても悔い、謝罪をしたいと誰でも思うだろう。しかしそれは第三者が強制できるものではない。

 車を暴走させた男は幸い死者こそださなかったが、被害者を心身ともに傷つけ、またその家族を傷つけただけでなく、自らの家族を死に等しい状態に追いやったといっていい。通り魔殺人犯の24歳の凶行は、被害者の命を奪い、その家族の命も奪うに等しい残忍な行為であり、同時に自分の家族をも“殺した”に等しい。

 

 彼らはもちろん刑に服するだろうが、さまざまな形で被害をうけた関係者の将来を思うとやるせない。

さむけ2

 

 ロス・マクドナルドは、彼の作品中最高傑作だといわれる「さむけ」(The Chill 1976 小笠原豊樹訳)のなかで、作者とも主人公リュー・アーチャーのつぶやきともとれる言葉でこんなことをいい表している。

「ある種の人間は、自分がこの世に生まれてきたことを償うだけで生涯を費やしてしまうものである」

 妻殺しという無実の罪を着せられ、服役した男をめぐっての言葉だ。ろくでもない夫ではあったが、妻は殺していない。しかし、当時幼い娘が周囲の大人に強制されて、父親が母親を銃殺したと証言したことで、彼は有罪となってしまう。出所した男は、娘に会い自分の無罪を確認させようとしていた。こうした殺人事件が三つかさなって、物語はかなり複雑に展開していく。

 この世に生まれてきたことを償うだけで生涯を終える、とっていはあまりにも運命的すぎるし救いはない。だれだって生まれてきたときは、そんな運命は背負ってなかったはずだ。だが、どこでどうまちがったか、ある時からのちは、償いだけで生涯を費やす、あるいは費やさなくてはならない人生があることも確かだろう。

ただの酒屋よ!

金曜日, 8月 17th, 2012

 ちょっと少し黙っていてくれないか―。オリンピックの男子サッカーの試合を見ていて、実況中継があまりに能弁なので、思わず口に出してしまった。サッカーに限らず、とにかく競技の最中にアナウンサーは、ひっきりなしに話している。

 競技の内容を追って、ときどき選手のバックグランドなどを織り込むのならいいが、中継を盛り上げたいのか、感情的な言葉や精神論をゲームの進行中にあれこれ言われると鬱陶しい。

「下を向いているときではありません」とか「ようやく見えてきたメダルに向かって・・・」といったようなことを延々と話している。 

 テレビをはじめマスコミの宿命なのか、とにかく盛り上げようという意図が強すぎはしないか。仕掛けたい気持ちはわかるが、みんながほんとうはそれほど感動したり盛り上がっていないのに、過剰に盛りたてるのは痛々しい。アンデルセン童話の「裸の王様」のようだ。ほとんどの人が嘘だとわかっていても煽動者にうまくのせられ、真実を口に出せない。

 そんな作られた感動の嘘くささに見事に冷や水を浴びせた例を最近テレビで見て、痛快だった。演出=フィクションを砕く事実=ノンフィクションの心地よさといってもいい。それはあるニュース番組で取り上げられた宅配酒屋チェーンの「カクヤス」についてレポートのなかにあった。

 24時間、缶ビール一本から配達するというカクヤスの店舗なかで、ゲイバーが多く深夜までににぎわう新宿二丁目の実情を番組は伝えていた。配達の若い男性がちょっとバーでからかわれたりするといったお話やバーの“ママ”のコメントも紹介されていて、いかにこの地域でカクヤスが重宝されているかがわかった。

 そしてレポートの最後で、別のゲイバーのママを訪ねたレポーターがママにマイクを向けた。話題の酒屋チェーンがなるほど人気がある、ということを再度視聴者に知らせ、盛り上げて番組をしめようとして尋ねたのだろう。

「あなたにとって、カクヤスさんとはどんな存在ですか」。確かそんなことをきいた。するとママである彼は、一瞬「ン?」という感じで間を置いてちょっとぶっきらぼうにこう言った。
「ただの酒屋よ」

 これには笑った。だからこの手のママはいい。こちらの勝手な想像だが、いろいろな偏見にさらされても自分のスタイルを通してきた者が持つ、体制に媚びない率直さがあるからこういう言い方ができるのだろう。
 あえて尋ねる側の期待をはずしてシニカルに構えることの“受けねらい”もあるだろうが、相手に迎合して本意でもない答えをしない、本音の気持ちよさがある。

 レポーターとしては「(カクヤスは)水や空気と同じ、なくてはならない存在よ!」とでも、期待したのだろうか。でも冷静に考えれば、互いに商売。「ただの酒屋」である。この言葉、「うちもただのゲイバー」という、奥に自負を秘めた謙虚な姿勢もうかがい知るからまたいいのだ。(川井龍介)
 

頂く(いただく)が言えない

金曜日, 5月 18th, 2012

「もらってもらっていいですか?」
 横浜・野毛を三人でぶらり飲み歩いた夜のこと。桜木町から山側に歩いてすぐ。海側のみなとみらいに比べると、古く置いてきぼりを食わされた感のある小さな居酒屋がたちならぶ小路で、店の女の子がチラシを渡すと同時にこう言った。

 この「もらって」というのが実によく登場する。レストランで店の人に「水ってもらっていいですか」とか、なにかを試すように言うときに「やってもらっていいですか」などという。
「お水いただけますか」、「やっていただけますか」と、「いただく」という丁寧語が出てこないのだ。

 おかしいのは、やたらと使われる「~させていただきます」のときはちゃんと「いただく」が出てくることだ。どうやら「~いただく」は「させて」とセットでしか使われないようだ。
 冒頭の表現についていえば、「どうぞ、お持ちください」、あるいは「どうぞ」でいいだろう。それを少し丁寧に言おうとしたので「もっていっていただく」が「もらってもらって~」となったのか。