Archive for the ‘旅・Travel’ Category

日本人はどこへ行ったのか。北の地で

土曜日, 12月 20th, 2014

 

寒波が訪れるなか、北海道の洞爺湖周辺を訪れた。北の湘南ともいわれる噴火湾沿いの伊達紋別駅から国道453号を北に向かう。有珠山の麓、熊牧場など観光施設と昭和新山をはさむ駐車場には、冷たい風と雪のなかでも数台観光バスが止まっていた。
こんな寒い季節でも来る人がそこそこいるんだと思っていると、それは日本人ではなくアジアからのツアーの一団だった。

さらに国道を北へ雪の舞うなかを進む。伊達市の大滝地区にある国道沿いの道の駅へ。新千歳空港からニセコのスキー場へ向かう国道276号沿いでもあり、ここにも観光バスはどっと押し寄せるらしいが、お客はアジアからの人たちだ。中国、台湾、タイ、マレーシア、あちこちからやってくる。日本人の観光客はどこへ行ったのだろう、と思えるほどだ。

「英語で話しかけるのが普通になっているから、間違えて日本人のお客にも英語で話しかけてしまったりします」と、店の人が言っていた。

この地はキノコの産地キノコ工場で、近くに無農薬栽培の「キノコ工場」があるというので行ってみた。すでに雪もかなり積りはじめた。工場建屋のなかには、いくつもの棚の上にキノコの菌をうえつけた人工の小さな「ホダ木」がびっしりと並んでいる。

このホダ木を運んでいるのか、台車を押して若い女性たちが建屋のなかを行き来する。ジャージや作業着姿で数人が声を弾ませて働いている。聞けば、中国から来ている研修生たちだという。
「地元の若い人は、なかなか来ませんから」と、経営者が地元の労働事情を説明してくれた。外は雪、10代だろう彼女たちは、きびきびと体を動かしている。

若い日本人は地方から出ていく。それと入れ替わりに中国から若者が日本の田舎で働く。北海道で、中国など金のあるアジアの人は観光に訪れ金を落とし、お金や仕事がほしいアジアの若者がお金を稼いでいく。地方をかき回してくれるのは外国人だ。

帰りに熊牧場に入場した。冷たい雪がぱらつく下、コンクリート壁に囲まれた、眼下のオリの中で、ヒグマたちが観光客の投げるリンゴやクッキーを待っている。リンゴをかざすと、「おーいこっちだよ」とばかりに二足で立って熊が手を振る。これがなんとも愛嬌がある。

 

その熊めがけてリンゴを投げると、見事にパクリ。周りをみると、これで喜んでいる日本人は、どうやら私一人のようだった。

熊牧場

カリフォルニアの空の下で

金曜日, 5月 24th, 2013

 サンフランシスコから車で東へ向かい、1時間ほどでカリフォルニア州の州都サクラメントに着く。27年前、一度だけ長距離バスで旅をしていたとき立ち寄ったことがあるこの町で、このほど私は三日間を過ごした。
 宿泊したのは、日本人のTさんのお宅だった。Tさんは戦後夫とともに日本から布教のためにやってきて、サクラメントで“教会”を立ち上げた。7人の子どもを育てあげ、夫が亡くなったあとは責任者となって活動を続けてきた。

  彼女は知人に頼まれて、日系アメリカ人に関わるあるイベントに参加する私のために宿を提供してくれたのだった。滞在中取材に出ていた私は、なにかの食べ物にあたったのか、お腹をこわし熱を少し出してしまった。心配した彼女は、おかゆをつくってくれたりドクダミ茶を煎じて飲ましてくれたりした。食事のことだけでなく、私は教会に招かれ“お祈り”もしていただいた。
 おかげで1日休んだだけでほぼ回復した私は、なんとか次の取材地に向け出発することができた。その朝、Tさんは「おかずを入れると、日中は暑くて傷むといけないので、おにぎりだけにしました」と、おにぎりの弁当をつくってくれた。
 
 カーナビのないレンタカーを借り、乾いた空気を突き抜ける陽射しの下、なだらかな起伏のつづくカリフォルニアのハイウェイを走った。かつて日本人のコロニーがあったというリヴィングストンという町一帯は、いまも当時と変わらずアーモンドやももなどの作物が広がっている。
 そこで小学校や小さなミュージアムを訪れたり、日系人のお宅を訪問したりして、数時間を過ごすとすでに6時過ぎになっていた。翌朝にはサンフランシスコを発つことになっていたので、この夜は空港近くのホテルに泊まることにしていた。迷うことなくドライブしても3時間はかかるだろう。

 Tさんと一緒に暮らす7男のRさんが、インターネットで調べて紙に打ち出してくれた、空港まで言葉だけの“道案内”を頭にたたき込み、これをハンドルと一緒に

片手に持ちながら、99号からはじまりいくつものハイウェイを乗り換えながらアクセルを踏み続ける。
 アメリカでハイウェイを走るといつも思うことなのだが、100キロほどの速度で数車線の車の流れに乗り、茫漠たる大地をひとりハンドルを握っていると、何ともいえない寂寥感に襲われる。どうしてかなのか。大げさに言えば、自分の歩んできた道を何かにたとえるなら、この状況に似ているのかもしれない。
 
 そんな甘っちょろいセンチメンタリズムにも浸りながら、一度だけ間違えただけで、たいしたロスもなくなんとかホテルにたどり着いたときはすっかり暗くなっていた。サンブルーノというこの場所は、この夜かなりの強風で、ホテルのカウンターにいたインド系の女性は、「これはサンブルーノの風よ」と、よくあることとばかりにそっけない顔をしていた。
 予約した「禁煙」の部屋は、確かに今は禁煙かもしれないが古いタバコの臭いが染みついていた。カウンターの女性の顔を思い出すと、いまさら換えてくれというのも面倒だ。キングサイズのベッドが二つ。無駄に広く、窓ガラスの隙間を突く風の音もあってか、寂寥感はここにも漂う。 

 強風のなか夕食を食べに行く気にもならない。が、幸いなことに、Tさんがつくってくれたおにぎりがほとんど残っていた。海苔で巻いた小ぶりのものが4つ。これに昆布となにか野菜のような佃煮が少し添えられていた。
 こんな部屋でも紅茶のティーバッグがある。お湯が沸くのも待たずにおにぎりを一つ口にすると、梅干しが顔を出した。すでにいただいたことがあるTさん自家製のものだ。ドクダミ茶も自家製で、教会の敷地内でドクダミを育てて乾燥させているという。
 これに関してはおもしろい話があって、Rさんによれば、ドクダミをいっぱい生育している様子はマリファナ(大麻)に似ているらしく、パトカーが通りがかりに止まっては、訝しげに見て匂いを嗅いでいく。彼が説明して納得して帰ったこともあったという。

 おにぎりのありがたさをしみじみ感じひとつひとつ口にしていると、不覚にも途中で佃煮の一片を落としてしまった。それは古びたマットの上にあった。一瞬間をおいて、すぐにそれをつまみ上げるとバスルームに行き、水道水でよく洗った。そして再びおにぎりと一緒に噛みしめた。
 強風が窓を突く音は続いたが、この夜は早く眠りにつくことができた。

雪の室蘭、クラシックな心地よさ

金曜日, 2月 22nd, 2013

 雪も悪くなかった。室蘭の夜、さらさらと降る雪のなかを歩いていると、気持ちが落ち着いた。地元の方には申し訳ないが、昼間でも寂れた感のある旧市街。夜ともなれば、人気はまったくない。活気をつけようとしているのだろうが、通りに流れる音楽はかえって寂寥感を濃くする。

 減価償却をとっくに済ませたような商店のレトロな店構えが暗がりにうっすら見える。暗くなりポツン、ポツンと灯る明かりは居酒屋で、私はその一つを訪ねるために雪道に足を取られないようにゆっくりと歩いた。
 
 ごくまれにタクシーが静かに過ぎて行く。この町を初めて訪れた人なら、このあたりで居酒屋へ入ろうなどとは思わないだろう。私は何度かここへは来ているので、一般に古い鉄の町などと言われる室蘭の奥の深さと魅力の一端を知っている。


 確かに寂れてはいる。しかし、妙に落ち着くのだ。誤解を恐れずに言えば、少々古くて寂れているだけならどこにでもあるが、それも程度を超すとクラシックになる。存在に味が出てくる。
 新しい町や商店街のなかには、若いタレントが無理にはしゃいで場を盛り上げようとする不自然さや痛々しさがある。見た目はこぎれいでも、簡単なプラスチック模型のようだ。すぐに組み立てられるが、時を経ても味は出ない。

 近頃よく思うのは、新しいものはお金があればつくり出すことはできるけれど、古いものは新たにつくり出すことはできないということ。昔の写真や音楽など、過去の記録は今残っているものに頼るしかない。古いだけで宿る価値がある。
 街並みや家も同じだ。もちろんまったく古いままにしておくことはできないが、その風情をそのままに修正していくことはできるだろう。
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 目指す居酒屋の灯りを見つけ、一歩中に入ると外とはうってかわって賑わいがある。案内された奥の座敷には、かつて取材でお世話になった元室蘭市役所の方たちが顔を揃えて待っていてくれた。
         
 日本中がバブル経済で浮かれ、東京の地価が暴騰していたとき、この室蘭では地価が下がっていた。取り残された感があった。が、それを逆手にとって、市職員の有志がいっそのこと「土地を東京で売ろう」と発案、市の分譲地を都心で売るため上京し、チラシを配って宣伝した。
 その結果、高級車1台分で住宅地が購入できるところや、北海道の自然に惹かれ「室蘭に行ってみようか」と、現地視察を経て住みついた人もいる。それを取材したのを機に、何年かに一度室蘭を訪れることがあった。

 室蘭という地名は、アイヌの言葉で「小さな下り坂」を意味する「モ・ルエラニ」から来ているという。なるほどそのとおりまちには小さな坂があり、場所によってはそこから海が見える。明治になり国策として室蘭に製鉄所などができ、海沿いが一気に工場群と化したのだが、それ以前の古い室蘭の写真をみると、なんとも穏やかな光景が広がっていた。
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 久しぶりの再会で酒も進みテーブルを囲んでの熱い議論も飛び出し、実に楽しいひとときだった。店を出て解散となったが、まっすぐホテルに帰るのも惜しく、知っている近くのバーの戸を開けた。
 壁にギターが掛かりクラシックなロックが好きなマスターがいるはずだった。が、この時はマスターも客も誰もいない。「こんばんはー」と、声を響かせたが返事はなし。
 仕方なく外へ出て、歩き出すと小路に「地酒」と提灯が見える。暖簾をくぐると、看板に偽りなく、さまざまな地酒がリーズナブルな値でならぶ。熱燗を頼み、そのあとで佐渡の北雪という超辛口を一合飲んだ。しっかりしたお通しとあわせて二千円でおつりが来た。


 
 仕切り直しにと再びバーを訪ねると今度はマスターが立っていて、「すいません、ちょっとでていて」という。いい感じのルーズさだ。30分ほど話をすると、中年カップルが来てカラオケをはじめようとしたので、それを潮にホテルに戻った。

 古い町は雪に被われて一見すると眠っているようでも、実は小さな灯りの奥には息づかいがある。それを魅力だと感じるのは、私がときどきやってくるよそ者だからだろうか。

Air Force が後ろからツンツン

日曜日, 7月 1st, 2012

 アメリカ建国の象徴のまちフィラデルフィア。週末の夜、レストランやバーが集まっている繁華街をぶらつき、軽い食事をしようとあちこちの店の様子をうかがう。いくつもの店で、大きな液晶のモニターがテレビ番組を放送している。
 シアトルでも同じだった。落ち着いた感じのレストラン、バーでもこのでかいモニターがかなりの音量と共に映像を流している。

 場所はさらにかわって南のフロリダ。庶民的なリゾートホテルのバーでは、モニターが大小4つもあった。ひとつはちょっとしたダイニングテーブルほどだ。ウィンブルドン、メジャーリーグ、ドラマ、そして多くのコマーシャルが同時に目に入る。
 でかい液晶モニターが安くなったからか、にぎやかなのが好みなのか、ちょっと一日の終わりにビールを飲もうと思っているものにとっては、映像も音も勘弁してくれと言うほど鬱陶しい。

 鬱陶しいといえば、ニューヨークのマンハッタンを歩いていると、いきなり耳の後ろで声がしてどきっとする。かつてこのミッドタウンでカバンを盗まれたことがあったので、過敏になっていたのかもしれない。

 振り返ると、Tシャツにスニーカーの男性がイヤホンでなにかを聞き、独り言をブツブツ言いながら歩いている人のように話していた。通話していたのだ。携帯電話でもいきなり耳元で声がしてはっとしたことはあるが、端末を持たずに話せるとなると、さらにどこでもいつでも声を発しているので、聞かされることもまた多くなる。

 場所と時間を選ばず、なんでもできるようになる。便利だが、なんでもものには程度というものがある。フォートローダーデールからロサンゼルスに向かう飛行機のなかでのこと。前に座るシートに液晶モニターが組み込まれていて、機内で映画やゲームができる。操作は画面へのタッチ式だ。

 私の斜め前の赤毛の中年女性が、これでポーカーゲームをしていた。熱中しているようだが、液晶のタッチのポイントがすごく小さいこともあって、白いマニュキアの“ゴージャス”な指では今一つ反応しない。ボールペンを取りだし先っぽで突いたがこれもダメ。

 そのうち苛ついてきたのか、指で力強く何度か押している。当然、前の人のシートは頭のところがそれに合わせて前に動く。これを何度も繰り返している。
「ツンツンと押される前の人は嫌だろうな」と、同情していると、私の後頭部もツンツンと小さな衝撃を感じた。どうやら液晶をタッチしているらしい。

 気に障るので反対に少し押し返してみたが、相手は気がつかないのか、やめる気配はない。眠れないし、あまりつづくようだったら何か言おうかと思って、チラッと後ろを見ると、迷彩服に身を包んだ軍人だった。
 搭乗口で見かけた「Air Force」(空軍)の若者たちの一人だ。しばらくしてこのツンツンは収まったが、Air Forceに後ろから頭をツンツン攻撃されているかと思うと、鬱陶しいことこの上なかった。

時計台とNo-No Boy

木曜日, 6月 21st, 2012

 最初にその時計台を見たのは1986年の夏だった。以来、シアトルの街を訪れるたびにその塔を目にするとなぜかほっとする。King Street Station という駅舎の上に建てられたこの街のシンボルは、1906年以来周囲が変わろうと孤高の存在を示してきた。

 時計台の東には、戦前は日系移民がつくりあげた日本人町が賑わいをみせた。が、それも昔のこと。戦後は日本人町は姿を消し、近くにはInternational District と呼ばれるようになった、中華街や日本食のスーパー「Uwajimaya」が東洋的な雰囲気の一画を形成している。
 この時計台から歩いて数分、坂道を登ったところに「Panama Hotel」というかつて日本人が経営した古いホテルがある。一階がカフェになっているのだが、ここにはずいぶん前からシアトルでの日系移民の足跡を知る、写真やかつての移民の所持品などがなどが展示されている。

 このホテルは、昨年、日本でも翻訳が出版された小説「Hotel on the Corner of Bitter and Sweet」を象徴する場所になったことで、いまではさまざまな人が訪れるようになったようだ。日本では「あの日、パナマホテルで」と題したストーリーは、太平洋戦争を挟んでの、日系アメリカ人の少女と中国系アメリカ人の少年との切ない恋の行方を描いている。

 カフェに入ると、これまで何度か話をしたことがある白人女性のオーナーが、「ロジャー・シモムラが来ているわよ」と、ひとりぽつんとノートPCに背を向けている彼のところに案内してくれた。日系2世の画家で、大学でも教鞭をとった有名人である彼は、日系人としての立場から作品を発表し、発言をしている。
 私は、日系2世としてたった一冊の小説を残したシアトル生まれのジョン・オカダと彼の作品「No-No Boy」についてこの10年くらい調べていることを話した。

 ジョンの兄弟であるフランク・オカダと親しかった彼は、興味深く私の話を聞いてくれて、「ジョンは非常にミステリアスだ」と静かに言った。40代で亡くなったジョンのことを知る人がいまはもうなく、別れ際に「何かわかったことがあったら連絡しますよ」と、私の名刺を受け取ってくれた。

 一部実話を元にしたと思われる小説、「No-No Boy」の中心舞台は、時計台のすぐ近く、かつての日本人町周辺だった。この町を彷徨いながら主人公のイチローは、「日系人である自分は、いったい何者なのだと」と、心の叫びを繰り返す。私は何者で、どう生きるべきか。イチローの問いはいつの時代の若者も抱える普遍的な苦悩でもあった。

 いまはもう日系2世と言われる人がほとんどいなくなった。歴史の証人が消えていく。訊けるものならあの時計台に訊いてみたいものだ。

写真結婚とシアトルの眠れぬ夜

火曜日, 6月 19th, 2012

 シアトルからフェリーで40分ほど、穏やかな内海を走りベインブリッジ・アイランド(Bainbridge Island)に到着する。出迎えてくれた竹村義明さんの車に乗って、日系人ゆかりの地を案内してもらい、その後、彼が集めた日系移民一世などに関する私設の資料館を見せてもらった。 
 竹村さんは1956年に西本願寺が海外に布教のために送った「開教使」として渡米、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンなどで、日本から移民した人たちや日系人と関わってきた。水辺に建つ高台の自宅は、西を向き、その遙か向こうは日本へとつづくという。(★写真)周囲からは鳥のさえずる声くらいしか聞こえない。

 さまざまな資料のなかかに明治、大正時代に渡米してきた日本人が携えていた「日本帝国海外旅券」があった。当時のパスポートである。2枚の旅券はある夫婦のものであり、その発行の日付から最初に夫が渡米し、つづいて妻が渡米したことを物語っていた。
 そして、この二人が“写真結婚”であることが裏面に記載された「Photo Marriage」という英語からわかった。当時、日本人移民のなかでしばしば行われていた結婚の形である。互いに相手の写真だけを見て結婚を決めていたが、なかには実際とはずいぶんと違った写真を見せられ困惑した例もあったようだ。

 異国の地へ単身赴く。それも会ったこともない人のところへ嫁ぐという人生の選択をした、あるいはせざるを得なかったこうした女性たちは、当時何を思っていたのだろうか。いや、ほとんどの人があれこれ思う間もなく、ただひたすら働き生活していくしかなかったのかもしれない。
 仮に生活に嫌気がさして別れたくても、別れられるような状況にはなかっただろう。しかし、そうした苦労のうえに築かれた家族と生活が今日の日系アメリカ人の土台になっている。ある調査によれば、アメリカの日系人は現在もっとも恵まれた状況にあるという。

 当時アメリカでは、この写真結婚が非人間的だと批判されたことがある。当然だろう。できれば実際に相手を確かめて、そして家庭の事情などではなくて自由意志で結婚するのがいいのに決まっている。しかし、自由に選択した結果が必ずしもうまくいかないことは、日本でもアメリカでも現代の離婚事情が示している。

 大きな制約のなかで強いられる努力の結果が、ときに自由な意志に基づく行為の結果より勝っていたことがあるのは皮肉なものだ。まだ日本を発って2日目の夜中、時差ぼけで眠れぬシアトルのホテルで、写真結婚の事実からそんなことに思い至った。 

懐かしのチョーロンギー通り

木曜日, 5月 17th, 2012

 この一年ほど、直木賞作家佐々木譲の初期の作品を読んだ。「エトロフ発緊急電」といい「ストックホルムの密使」といい、第二次大戦を背景に日本人や日系人が国際舞台でダイナミックに活躍する小説は、構成といいテーマといい実に見事だ。

 この人の作品は警察ものから読み始めたが、“かきっぷり”がいい。人格が文章表現にあらわれているようだ。といっても本人のことは知らないのだが、きっと好人物ではないだろうか。
 つい最近「ベルリン飛行指令」(昭和63年、新潮社)を読みはじめ、最初は物語の設定に興味をもてなかったが、描かれる登場人物にいつしか引き込まれた。個人の自由や意志など全体への奉仕のなかに埋没する時代にあっても自分のスタイルを貫こうとする人間が主人公だ。
 
 そのなかで物語の本筋とは別に懐かしい地名に出くわした。「チョーリンギー通り」である。インドの北東部の大都市、カルカッタの中心を走る有名な通りのことだ。カタカナではチョーロンギーとも書く。
 日本からベルリンまで大戦中に戦闘機、零戦を飛ばすという計画があった。英軍などの攻撃をかわしながら、インド、イラク、トルコを抜けてベルリンへ向かう。
 そのインドを描いた中にこの名が出てくる。

 インドでジャーナリストを装いながら諜報活動をする柴田という陸軍大尉のくだりである。

                      ※         ※
 柴田亮二郎が列車でカルカッタに着いたのは、十月二十四日の夕刻のことである。
 柴田はすぐにチョーリンギー通りにあるタージ・キャピタル・ホテルに投宿した。

                         ※                  ※
 今から33年前の1979年2月。私は友人と二人でバンコク経由でカルカッタ(いまはコルカタという表記が一般らしい)に入り、そこからおよそ一ヵ月をかけてぐるりと、インドを大まかに一周した。
 デリー、ジャイプール、ボンベイ(ムンバイ)、ゴア、バンガロール、マドラス、そしてカルカッタ。これが初の海外旅行でもあり、衝撃的な旅だった。

 なかでもカルカッタの町だ。町に人と牛とリキシャとが入り乱れてうごめき、路上では生死のわからないような人の横たわる姿もあった。
 夜、停電で暗くなった雑踏を歩いた。電気がつけば怪しい祭りの夜店のような明かりが、人々を照らし出す。二人でレストランに入った。ろうそくをともしたボーイがわれわれをテーブルへと案内してくれた。
 
 そのインドはいまとてつもなく変わったようだ。チョーリンギー通りが懐かしい。