Archive for the ‘日系, Nikkei’ Category

トランプ、安倍、フロリダ、大和コロニー

土曜日, 2月 11th, 2017

アメリカのトランプ大統領が安倍首相をフロリダ州パームビーチの別荘に招待して、一緒にゴルフをするという。
会員制クラブを兼ねているというこの別荘は、1927年に富豪で社交界の名士である女性、マージョリー・メリウェザー・ポスト氏によって建てられ、Mar-A-Largo(マール・ア・ラーゴ)と呼ばれた。
彼女の死後、“冬のホワイト・ハウス”として国に寄贈され、国定の歴史建造物にもなった。しかし維持費が莫大で、その後彼女の娘に返還された。それを1980年代にトランプ氏が買収した。

パーム・ビーチは、高級リゾートで、メインストリートのワースアベニューには、高級品店が軒を連ねる。富豪たちが別荘をもち、なかには日本家屋かと思える建物もある。1957年に日本を訪れたのち日本文化を気に入った施主が建て、庭園は小林という日本人に作らせた大きな二階家だ。残念ながら小林はその直後にその後マイアミで殺されたという。
このパームビーチを拠点に、19世紀末からフロリダ開発に挑んだのが富豪ヘンリー・フラグラーだった。フロリダには、もともとはネイティブ・アメリカンしかいなかったが、16世紀初頭にスペイン人が領有、その後イギリス、スペインと領有権は移り、最後はアメリカが併合すると、インディアンを武力で排除した。

スペイン人が入植して作った大西洋岸の古い町、セント・オーガスチンを晩年訪れたフラグラーは、地中海的なリゾートを作ろうと開発に乗り出した。まず、パームビーチにホテルを建て、所有するFlorida East Coast Railway という鉄道を大西洋岸に沿って南へと延長していった。

砂州の上に建てたコロニアル・スタイルのリゾートホテルのなかには、当時世界最大、1081室もある巨大なホテルも誕生した。ホテルの先には桟橋をつくり、そこから客たちは船でカリブ海のナッソーやキューバへと遊覧した。
また鉄路は南のマイアミをとおり、さらに海上をサンゴの小さな島々づたいに走り、1912年、とうとうキーウェストまで到達した。「ハバナ・スペシャル」と名付けられた列車は、はるか北のポストンを出発すると、三日目にキーウェストに到着し、そこから船でキューバのハバナまで旅客を運んだ。
しかし、この鉄路も1935年のハリケーンで、海上の橋脚は破壊され鉄路は跡形もなく消えた。以後鉄道は再建されることはなく、自動車道がそれにかわった。

フラグラーは幸いにも、このハリケーンを知らず、1913年にはこの世を去った。彼がパームビーチに建てた自宅はホワイトホールを呼ばれたが、その後フラグラー・ミュージアムとなり公開されている。

フラグラー・ミュージアム

彼のフロリダ開発の余波は、当時ニューヨークに留学中で、実業家にあこがれていた酒井醸という日本人青年の心を動かした。彼はリーダーとなって、パームビーチから南に40数キロ離れたところに大和コロニーという日本人村をつくった。しかし、長くは続かず、戦前に自然消滅した。
かつてコロニーがあったあたりには、その痕跡はなにも残っていない。しかし、そこから数キロ離れたところに、日本庭園と博物館ができている。The Morikami Museum and Japanese Gardens (モリカミ・ミュージアム・アンド・ジャパニーズ・ガーデンズ)というこの公園は、森上助次という人物の名にちなんでこう名付けられた。


森上は、コロニーづくりに参加した一人で、最後まで当地に残り、所有する土地二百数十エーカーを地元に寄付、これがもとになってこの公園や博物館などができた。酒井と同じ京都府宮津市出身の彼は1976年に89歳で亡くなるが、生涯独身で一度も日本に帰ることはなく、晩年はトレイラーハウスで暮らした。

私が最初にフロリダを訪れたのは1986年2月だった。中部大西洋岸のデイトナビーチという町に、それから一年滞在した。ビーチはいつも賑やかで、延々とつづくビーチを車が数珠つなぎになって、まるで散歩をするかのようにゆっくりと走っていた。ピックアップトラックの荷台からビキニ姿の女の子たちが投げ出す脚がまぶしかった。

まばゆいばかりの光景に唖然としたのを覚えている。白人がほとんどで、日本人に出会うことなどほとんどなく、東洋的なものにすら出くわすことはなかった。しかし、このフロリダにも明治時代に日本人の足跡があったことを、しばらくしてから知ることになった。

きっかけは、ハイウェイ95号を南下しているとき見た「Yamato Rd.」というサインだった。これが実は日本語の大和からとった「ヤマトロード」で、かつての大和コロニーに関連して名付けられた道だった。酒井醸が野心に燃えて作ろうとし、最後に自分の名前を現地に残した森上助次が一農民として参加した、あの大和コロニーである。

 

ゴルフをする二人は、知る由もないだろうが、今のテレビ番組風に言えば、「こんなところにも日本人がいた」のだ。

『大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち』(旬報社、川井龍介、2015)

大和コロニー フロリダ、移民、日本人

金曜日, 9月 4th, 2015

「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)をこのほど出版しました。ざっと、あらすじをまとめると、以下のようになります。

表紙

フロリダ州に20世紀の初めから大和コロニーとよばれる日本人の入植地があったことはほとんど知られていない。しかし、戦後もこの地で農業をつづけた京都府宮津市出身の森上助次が、地元に寄贈したことがもとで、現地には広大な日本庭園と日本文化を紹介する「The Morikami Museum and Japanese Gardens」(以下モリカミ)が建設され、いまも多くの人々が訪れている。この寄付が縁で、宮津市とフロリダのデルレイビーチ市とは姉妹都市の関係になっている。

なぜ、ここに日本人が移民したのか。20世紀のはじめ、アメリカ国内は未開発の地が広がっている時代、フロリダ州では大西洋岸に延びる鉄道敷設計画が進められ、リゾート開発が始まった。ロックフェラーとともにスタンダード石油を経営した実業家で大富豪のヘンリー・フラグラーが企画したこの計画にともない、開発と同時に入植者を呼び込む動きが広がった。
これを知ったのが、当時実業家を目指してニューヨーク大学に留学中の酒井醸だった。宮津藩士の息子に生まれた酒井は、義兄で丹後縮緬商の沖光三郎に財政的な支援を得て、南フロリダに集団移住を計画し日本人のコロニー(入植地)をつくろうとした。そこで、ニューヨークの知人らに声をかけたほか、郷里の宮津に帰り人材を募集して現地入りしたが、そのなかのひとりが森上助次だった。
大和コロニーと名付けられた日本人村では、野菜や果物をつくり、鉄道を利用して全米に販売し栄えたこともあった。しかし、環境面で耕作はきびしく、農業自体は大きな成功にはいたらなかった。また、1920年代にはフロリダの土地ブームもあって土地を売って農業から離れるものも多く、のべ140人ほどが暮らしたコロニーは衰退。戦争で土地も接収され、コロニーは解体した。

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

しかし、森上助次ほか数人だけは現地の周辺に残った。助次は一時は恐慌で全財産を失うなど苦労しながらも土地を少しずつ買いためていった。その一方で農業を続け生涯質素な暮らしをしながら、独身を貫き、また日本にも帰国せず現地で89歳の生涯を終えた。
助次がアメリカへ来た理由の一つはプロポーズした相手への失恋だった。彼女のことを生涯忘れられなかった助次は、晩年思い焦がれた人と文通をすることができた。彼女もそんな助次の思いを懐かしい想い出として受け止めた。
助次が寄付した土地をもとにした公園の広さは約200エーカー(約24万坪)で、湖を中心にして6つの区域に分かれる。一周はおよそ1・2キロくらいの散歩道。瓦屋根の本館があり日本の美術品が展示、茶室や225人収容のシアターもある。コロニーの歴史や日本の生活様式なども展示している。
正月の餅つき、お盆の精霊流しや花火など季節の催事を行い、年間を通して、生け花教室や茶道教室、日本料理や日本の庭作りを紹介。日本語教室などといった教育的なプログラムも組み、地域の人に日本文化を広め交流を図っている。

 

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

※    ※    ※

私がこの事実に興味をもったのは、ひとつにはアメリカがまだ発展途上で、フロリダの開発がオイルビジネスで成功した大富豪の手によって進められ、これに呼応した日本側の移住、入植プロジェクトもまた生糸産業、縮緬産業による富がつぎ込まれたという、ともに大きな時代背景があったことです。もうひとつは、酒井醸のようなインテリの理想と、失恋が動機で右も左もわからず入植した森上助次のような「農民」の、個人としての生き方の魅力です。
大きな時代の流れと制約のなかで、個人の夢や理想はどう動いていくのか。移民という冒険を通して見えてくる時代と社会と、個人の意志と運命が交錯するところにこの“物語”の醍醐味があるような気がする。

カリフォルニアの空の下で

金曜日, 5月 24th, 2013

 サンフランシスコから車で東へ向かい、1時間ほどでカリフォルニア州の州都サクラメントに着く。27年前、一度だけ長距離バスで旅をしていたとき立ち寄ったことがあるこの町で、このほど私は三日間を過ごした。
 宿泊したのは、日本人のTさんのお宅だった。Tさんは戦後夫とともに日本から布教のためにやってきて、サクラメントで“教会”を立ち上げた。7人の子どもを育てあげ、夫が亡くなったあとは責任者となって活動を続けてきた。

  彼女は知人に頼まれて、日系アメリカ人に関わるあるイベントに参加する私のために宿を提供してくれたのだった。滞在中取材に出ていた私は、なにかの食べ物にあたったのか、お腹をこわし熱を少し出してしまった。心配した彼女は、おかゆをつくってくれたりドクダミ茶を煎じて飲ましてくれたりした。食事のことだけでなく、私は教会に招かれ“お祈り”もしていただいた。
 おかげで1日休んだだけでほぼ回復した私は、なんとか次の取材地に向け出発することができた。その朝、Tさんは「おかずを入れると、日中は暑くて傷むといけないので、おにぎりだけにしました」と、おにぎりの弁当をつくってくれた。
 
 カーナビのないレンタカーを借り、乾いた空気を突き抜ける陽射しの下、なだらかな起伏のつづくカリフォルニアのハイウェイを走った。かつて日本人のコロニーがあったというリヴィングストンという町一帯は、いまも当時と変わらずアーモンドやももなどの作物が広がっている。
 そこで小学校や小さなミュージアムを訪れたり、日系人のお宅を訪問したりして、数時間を過ごすとすでに6時過ぎになっていた。翌朝にはサンフランシスコを発つことになっていたので、この夜は空港近くのホテルに泊まることにしていた。迷うことなくドライブしても3時間はかかるだろう。

 Tさんと一緒に暮らす7男のRさんが、インターネットで調べて紙に打ち出してくれた、空港まで言葉だけの“道案内”を頭にたたき込み、これをハンドルと一緒に

片手に持ちながら、99号からはじまりいくつものハイウェイを乗り換えながらアクセルを踏み続ける。
 アメリカでハイウェイを走るといつも思うことなのだが、100キロほどの速度で数車線の車の流れに乗り、茫漠たる大地をひとりハンドルを握っていると、何ともいえない寂寥感に襲われる。どうしてかなのか。大げさに言えば、自分の歩んできた道を何かにたとえるなら、この状況に似ているのかもしれない。
 
 そんな甘っちょろいセンチメンタリズムにも浸りながら、一度だけ間違えただけで、たいしたロスもなくなんとかホテルにたどり着いたときはすっかり暗くなっていた。サンブルーノというこの場所は、この夜かなりの強風で、ホテルのカウンターにいたインド系の女性は、「これはサンブルーノの風よ」と、よくあることとばかりにそっけない顔をしていた。
 予約した「禁煙」の部屋は、確かに今は禁煙かもしれないが古いタバコの臭いが染みついていた。カウンターの女性の顔を思い出すと、いまさら換えてくれというのも面倒だ。キングサイズのベッドが二つ。無駄に広く、窓ガラスの隙間を突く風の音もあってか、寂寥感はここにも漂う。 

 強風のなか夕食を食べに行く気にもならない。が、幸いなことに、Tさんがつくってくれたおにぎりがほとんど残っていた。海苔で巻いた小ぶりのものが4つ。これに昆布となにか野菜のような佃煮が少し添えられていた。
 こんな部屋でも紅茶のティーバッグがある。お湯が沸くのも待たずにおにぎりを一つ口にすると、梅干しが顔を出した。すでにいただいたことがあるTさん自家製のものだ。ドクダミ茶も自家製で、教会の敷地内でドクダミを育てて乾燥させているという。
 これに関してはおもしろい話があって、Rさんによれば、ドクダミをいっぱい生育している様子はマリファナ(大麻)に似ているらしく、パトカーが通りがかりに止まっては、訝しげに見て匂いを嗅いでいく。彼が説明して納得して帰ったこともあったという。

 おにぎりのありがたさをしみじみ感じひとつひとつ口にしていると、不覚にも途中で佃煮の一片を落としてしまった。それは古びたマットの上にあった。一瞬間をおいて、すぐにそれをつまみ上げるとバスルームに行き、水道水でよく洗った。そして再びおにぎりと一緒に噛みしめた。
 強風が窓を突く音は続いたが、この夜は早く眠りにつくことができた。

密航船水安丸、移民、O.ヘンリー

月曜日, 9月 17th, 2012

 20世紀のはじめに、主に丹後半島からアメリカ南フロリダに、“農業開拓”のために入植した話を調べているのだが、当時の海外への入植、移住がどのような社会背景で実行されたのかがいまひとつピンと来ない。
 そこで専門家に尋ねようと、移民問題に詳しい知人の神田稔さんを頼ったところ、立命館大学の河原典史教授を紹介された。河原さんは近代の移住漁民について、特に朝鮮、台湾、そしてカナダに渡った日本人について、歴史地理学から研究されているという。

 まだメールでお尋ねしたばかりなのだが、河原さんから新田次郎著の「密航船水安丸」のことを教えていただいき、さっそく読んでみた。19世紀の終わりから20世紀にかけて宮城県からカナダのバンクーバーあたりに漁業移民としてわたった日本人の実話をもとにした物語だった。
 グループをつくって事業を始めた主人公が郷里に戻り、さらに仲間を募って事業を拡大しようと夢を膨らますところや、すでに移民して成功した話を聞いて、“よし自分も”と決意し、渡航する人たちの姿が描かれている。
 
 フロリダに入植した事例も、本書のようにリーダーがいて郷里へ戻って地縁、血縁で人材を募り、集団で渡航する。おそらく夢と理想に燃えて新天地へ足を踏み入れたのだろう。その辺りの事情があくまで推測だが、「密航船水安丸」から理解できた気がした。

 ところで、フロリダ入植のリーダーは酒井釀といって、入植計画を立てたときはニューヨーク大学に留学中だった。20世紀の初めのことだ。19世紀後半からニューヨークは産業、文化が花開き活況を呈し20世紀に入りさらに繁栄する。
 このころニューヨークには日本人の実業家や学者などによる社交倶楽部、日本倶楽部が誕生する。酒井釀も活気を帯びたマンハッタンのなかに学生として身を置き、実業家としての夢を膨らませていたようだ。

 彼の気持ちを推測する上でも、当時のニューヨークの様子について調べてみようと思うが、まったく別の目的でたまたま図書館で借りた「『最後の一葉』はこうして生まれた-O.ヘンリーの知られざる生涯」(齋藤昇著、角川学芸出版)が参考になった。

「最後の一葉」、「賢者の贈り物」など、ウィットとペーソスに満ちた珠玉の短編の数々を創作した作家、O.ヘンリーは、ちょうどこの時期にニューヨークで彼の代表作を書いている。
 ビジネスの華やかな成功譚も数多くあれば、貧しい移民やスラムの生活もあるニューヨークで、彼は人間を観察し、哀しく温かみある物語を読者に届けた。本書によれば、ニューヨークに来た当初、彼はユニオンスクエアのアパートに暮らしていたという。これは当時酒井譲が通った大学からそう遠くない。

 もしかしたらどこかで二人はすれ違っているかもしれない。想像を膨らませると、事実が物語として見えてくるから不思議だ。

LIttle Tokyo,人と歴史が交差する

木曜日, 7月 5th, 2012

 「日本村プラザ」のパン屋でサンドイッチとカレーパンにコーヒーを買って、店外のテーブルで朝食をとる。日曜の朝9時過ぎ、ほどよい陽射しと爽やかな乾いた空気が心地いい。

 ロサンゼルス(Los Angels)のダウンタウンのはずれ、リトル東京(Little Tokyo)のなかにさらに“日本”を感じさせる一画がある。日本食レストランやスーパー、土産物屋などが集まっている。

 隣のテーブルで英語で会話をしている老齢のアジア系男性二人は、おそらく日系アメリカ人だ。私の斜め前、ブルゾンを着た男性が紙を手にしている1枚の紙に、「地理」という漢字が見えた。
 二人の口からは、Class(クラス)、Lesson(レッスン)などという言葉が発せられ、どうやら日本の学校の成績が話題になっているようだった。そのうち、野球帽の男性が、
 “According to dictionary, Otsu means B.”
 と言った。「辞書によると、『乙』というのは『B』のことだ」という意味だ。

 なんだか一生懸命話し合っているようだったので、余計なことと知りながら、
“Yes, Otsu is B.”
 と、口を出してしまった。一瞬沈黙があったが、帽子の男性が「そうですか」とばかりにニコッとしてくれたのでほっとした。

 それをきっかけに私たちは会話をはじめた。ブルゾンの男性はオノさんで、帽子の男性はオサキさんといった。オノさんの父親は二世だが小さい頃は日本の学校に行っていて、そのときの通信簿を持っているのだが、アメリカ育ちの三世の小野さんは内容がよくわからないので、同じ三世だが日本に中学までいたオサキさんに力を借りているのだった。 

 しかし、細かいところでわからないところがあるという。今日でよければお手伝いしましょうかという私の申し出を喜んで受けてくれ、早速二人が暮らす近くのコンドミニアム(マンション)へ三人して向かった。
 
 中庭に大きな石を配した日本庭園のあるそのマンションは、住人のほとんどが日系人のようだった。オノさんのお宅のリビングには見事な「書」の掛け軸が並び、日本人形などが飾られ、雰囲気はまさに純和風だ。
 ふと、自分の家にはちっとも日本らしさがないことを思い知らされ、なんだか反省させられた気持ちだった。

 オノさんの父親は、一家の古い記録を大切に保管していて、さきほどの通信簿もその一つだった。実際は「通告簿」と記されていて、昭和初期の岡山県の旧制中学のものだった。ひとしきりこの裏表紙に書かれた「注意」とは何かを内容を訳して私が伝えたりした。

 太平戦争がはじまったころに生まれた同世代の二人は、いま自分たちのルーツや日本のことに興味があるという。
「歳をとってきて、歴史に興味をもってきましたね。若いころは女の子のことばかりだったですけれど」
 オサキさんは丁寧な日本語でそう言って笑った。二人の話はそれぞれ興味深かった。
 オノさんは、戦争が始まると日系人であるために家族と共に収容所に入った。そのとき小学生だった彼は、収容所内の学校での“通信簿”を未だに持っていて見せてくれた。
 当時、母親が収容所外の病院に一時入院していたこともあって、寂しくてオノさんはよく泣いていたようで、通信簿のなかにも先生が泣き虫だったことをしっかり書いていた。これには三人で笑った。

 一方、オサキさんの話は考えさせられるものがった。戦時中は日本に帰っていた母親から生まれた彼は、母親のお腹にいるときに和歌山で空襲に遭ったが難を逃れた。高校はアメリカに通い、その後徴兵されてベトナム戦争に従軍、“テト攻勢”で知られる、激戦の地テトにいた。
 アメリカ兵として撃たれることはもちろん、アジア人の顔をしている彼は、敵兵として見方に間違って撃たれる危険も感じたという。

「生まれたときは、アメリカの爆弾で危うく命を失うところだったのが、今度はアメリカのために戦争に行ったんですから」と、複雑な胸の内を明かした。さらに複雑だったのは人種と戦争の関係だった。
「やっぱり、同じアジア人が殺されるのを見るのはちょっとつらいですね」と静かに言った。そしてこんなことも。
「アメリカ軍の最前線には、黒人とかアジア系の兵隊が多いようですよ」

 そういえば、第2次大戦でヨーロッパ戦線に趣いた日系アメリカ人の442部隊は、もっとも危険な前線に遣られた。そして多くの犠牲を出しながらもその勇敢さに栄誉を讃えらた。
 
 ランチまでごちそうになり、再会を約束して私はオノさん宅をあとにした。その夜、私はリトル東京の日本的な中華料理屋で中華丼を食べ、帰りに日本食マーケットでアサヒスーパードライの500ミリリットル缶を買ってホテルへ戻った。

時計台とNo-No Boy

木曜日, 6月 21st, 2012

 最初にその時計台を見たのは1986年の夏だった。以来、シアトルの街を訪れるたびにその塔を目にするとなぜかほっとする。King Street Station という駅舎の上に建てられたこの街のシンボルは、1906年以来周囲が変わろうと孤高の存在を示してきた。

 時計台の東には、戦前は日系移民がつくりあげた日本人町が賑わいをみせた。が、それも昔のこと。戦後は日本人町は姿を消し、近くにはInternational District と呼ばれるようになった、中華街や日本食のスーパー「Uwajimaya」が東洋的な雰囲気の一画を形成している。
 この時計台から歩いて数分、坂道を登ったところに「Panama Hotel」というかつて日本人が経営した古いホテルがある。一階がカフェになっているのだが、ここにはずいぶん前からシアトルでの日系移民の足跡を知る、写真やかつての移民の所持品などがなどが展示されている。

 このホテルは、昨年、日本でも翻訳が出版された小説「Hotel on the Corner of Bitter and Sweet」を象徴する場所になったことで、いまではさまざまな人が訪れるようになったようだ。日本では「あの日、パナマホテルで」と題したストーリーは、太平洋戦争を挟んでの、日系アメリカ人の少女と中国系アメリカ人の少年との切ない恋の行方を描いている。

 カフェに入ると、これまで何度か話をしたことがある白人女性のオーナーが、「ロジャー・シモムラが来ているわよ」と、ひとりぽつんとノートPCに背を向けている彼のところに案内してくれた。日系2世の画家で、大学でも教鞭をとった有名人である彼は、日系人としての立場から作品を発表し、発言をしている。
 私は、日系2世としてたった一冊の小説を残したシアトル生まれのジョン・オカダと彼の作品「No-No Boy」についてこの10年くらい調べていることを話した。

 ジョンの兄弟であるフランク・オカダと親しかった彼は、興味深く私の話を聞いてくれて、「ジョンは非常にミステリアスだ」と静かに言った。40代で亡くなったジョンのことを知る人がいまはもうなく、別れ際に「何かわかったことがあったら連絡しますよ」と、私の名刺を受け取ってくれた。

 一部実話を元にしたと思われる小説、「No-No Boy」の中心舞台は、時計台のすぐ近く、かつての日本人町周辺だった。この町を彷徨いながら主人公のイチローは、「日系人である自分は、いったい何者なのだと」と、心の叫びを繰り返す。私は何者で、どう生きるべきか。イチローの問いはいつの時代の若者も抱える普遍的な苦悩でもあった。

 いまはもう日系2世と言われる人がほとんどいなくなった。歴史の証人が消えていく。訊けるものならあの時計台に訊いてみたいものだ。

写真結婚とシアトルの眠れぬ夜

火曜日, 6月 19th, 2012

 シアトルからフェリーで40分ほど、穏やかな内海を走りベインブリッジ・アイランド(Bainbridge Island)に到着する。出迎えてくれた竹村義明さんの車に乗って、日系人ゆかりの地を案内してもらい、その後、彼が集めた日系移民一世などに関する私設の資料館を見せてもらった。 
 竹村さんは1956年に西本願寺が海外に布教のために送った「開教使」として渡米、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンなどで、日本から移民した人たちや日系人と関わってきた。水辺に建つ高台の自宅は、西を向き、その遙か向こうは日本へとつづくという。(★写真)周囲からは鳥のさえずる声くらいしか聞こえない。

 さまざまな資料のなかかに明治、大正時代に渡米してきた日本人が携えていた「日本帝国海外旅券」があった。当時のパスポートである。2枚の旅券はある夫婦のものであり、その発行の日付から最初に夫が渡米し、つづいて妻が渡米したことを物語っていた。
 そして、この二人が“写真結婚”であることが裏面に記載された「Photo Marriage」という英語からわかった。当時、日本人移民のなかでしばしば行われていた結婚の形である。互いに相手の写真だけを見て結婚を決めていたが、なかには実際とはずいぶんと違った写真を見せられ困惑した例もあったようだ。

 異国の地へ単身赴く。それも会ったこともない人のところへ嫁ぐという人生の選択をした、あるいはせざるを得なかったこうした女性たちは、当時何を思っていたのだろうか。いや、ほとんどの人があれこれ思う間もなく、ただひたすら働き生活していくしかなかったのかもしれない。
 仮に生活に嫌気がさして別れたくても、別れられるような状況にはなかっただろう。しかし、そうした苦労のうえに築かれた家族と生活が今日の日系アメリカ人の土台になっている。ある調査によれば、アメリカの日系人は現在もっとも恵まれた状況にあるという。

 当時アメリカでは、この写真結婚が非人間的だと批判されたことがある。当然だろう。できれば実際に相手を確かめて、そして家庭の事情などではなくて自由意志で結婚するのがいいのに決まっている。しかし、自由に選択した結果が必ずしもうまくいかないことは、日本でもアメリカでも現代の離婚事情が示している。

 大きな制約のなかで強いられる努力の結果が、ときに自由な意志に基づく行為の結果より勝っていたことがあるのは皮肉なものだ。まだ日本を発って2日目の夜中、時差ぼけで眠れぬシアトルのホテルで、写真結婚の事実からそんなことに思い至った。