Archive for the ‘震災, 東北’ Category

優先順位と社会科学

金曜日, 9月 20th, 2013

 社会も個人も、常になにか課題を抱えている。数え上げたらきりがないし、ことの重要さにおいて甲乙つけがたいものもたくさんある。しかし、それでも人は一度にたくさんの問題に同じように向かうことはできない。

 だから優先順位というのが大切になる。力の入れようの順番だ。社会で言えば、福島原発の汚染水処理の問題が日本でいま一番力を入れるべき課題だろう。だが、これまでの東電と国の対応をみれば、とても最優先に値するほど全力で対処しているとは思えない。

  東電も国も当事者意識が十分ではない、などと識者もマスコミも批判する。しかし、なぜ十分に対応できなかったのか、その根本原因を見極めないと今後の対応も変わらないだろう。
 
 本来は、最優先課題であれば国がいち早くリーダーシップをとって対処すべきだ。一民間企業の東電に任せられるはずがない。一企業の失敗を国が、国民が肩代わりするのはおかしいなどと言うのは、瀕死の病人を前にして、「日頃の健康管理がなっていないからだ」と、説教をするようなものだ。

 だれの責任だろうが、まずは全力で対処する、法整備もする、そのための負担であれば国民の多数は納得するだろう。しかし、それをしないで東電に任せておいて、ようやく国が腰を上げて対処するという。それもオリンピック招致のために本腰を入れるような感がある。恥ずかしい限りだ。

 もとをたどれば、戦後の長年の自民党政権のときに計画をつくりあげ、推進してきたのが原発建設である。これに関わった政官財(ときにマスコミも含まれた)の共同利害が適正な批判を受けることなく、進めてきた責任は大である。これには一部有権者の責任もあるが、原発事故後との各調査委員会の報告でも明らかなように、原子力ムラといわれる馴れ合いの仕組みのなかで独善的に進められてきた過ちは、政策に関与したものの責任である。
 
 しかし、これをもって「私たちに責任があった」として、立ち向かう姿勢は見られない。逆に、真摯に対応することが、責任があることを認めてしまうかのようにとられるのを恐れるように、中途半端な対応をする。だから、国に責任があるのか東電に責任があるのか曖昧なままになる。
 
 こうしただれも責任をとらない仕組み、集団責任という名の、無人格なものや制度に責任を負わせているような仕組みは、先の戦争の責任を詰め切れない日本社会の体質のようだ。この体質とそれに基づく、社会政策の仕組みを変えないといつも同じ対処の仕方になる。政策決定の公正な仕組みと、失敗や過ちを犯したときの責任の取り方をはっきりさせることが求められているのではないか。

 難しい原発の設計ができてもタンクからの水漏れすら防げない事実は、科学技術の問題ではない。予見できていても、あるいは、こうすべきであるということが想像できても、それを実行しない、実行しなくても済む仕組みと体質があるのだ。これを徹底的に解明する必要があるだろう。
 安全対策に欠陥があったという単純な問題ではない。社会の仕組みに欠陥があるのだ。原発の安全性などの問題についても、自然科学の議論ではなく社会科学的なアプローチで問題の本質をえぐり出す必要がある。

(写真は浜岡原発)
 

TSUNAMI と津波

月曜日, 10月 8th, 2012

  昨年の大震災のあと「TSUNAMI」という歌はとても人前で歌える雰囲気にはなかったし、歌う気分にもならなかった。もちろん歌に罪はないし、歌詞も津波そのものとは関係ない。

 しかし津波によって失われた命の数と遺族の胸を引き裂かれるような気持ちを考えれば、歌という一種のエンターテインメントのなかで聴かされるのは、なんらかの抵抗を感じるのは当然のことだろう。

 2000年にリリースされたサザンオールスターズのヒット曲「TSUNAMI」は、切ないバラードを得意とする桑田佳祐の作品のなかでも、「真夏の果実」と並ぶ秀作だ。切なさ、侘びしさを叫び、やがて諦めのように消えて行く。哀しく美しい曲だ。

 この「TSUNAMI」をテレビやラジオで聴くことになるには、どのくらいかかるのだろうかと、震災直後に思ったことがある。それが今晩たまたまテレビで外国人が日本語のヒット曲を歌い競う番組を見ていたら、アメリカの20歳の男性がこの「TSUNAMI」を歌って優勝した。

 番組を通して見て、彼だけではなく日本語の曲をこんなに愛好して、上手に歌う外国人がいかにたくさんいるのかと驚くばかりだったが、「TSUNAMI」が歌われたのにも驚いた。というのは、番組のなかで先にサザンの別の曲も歌われたので、私は「もし誰かがサザンのTSUNAMIを選曲したら、テレビ局は“待った”をかけるかもしれないな」と思ったりした。
 ところが最後に「TSUNAMI」がすらりと歌われたので、その果敢な挑戦に「おー」と感心したのだった。

 日本人だったらタブー視したり、遠慮していたことを、外国人がさらりと言ったり、行動したりすることはときどきある。時にそれは顰蹙を買うこともあるが、因襲に風穴を開けてくれる役割も果たす。

 津波による惨事を知らないわけはないこの日本ファンの若者が、TSUNAMI(津波)という言葉に、どれほどのことを感じていたのかわからない。だが、彼の熱唱はこの歌の魅力を再び教えてくれた。封印を解いたかのようでもあった。
 
 震災に遭った地方でもこのゴールデンタイムの番組を見ていた人は多かったろう。その人たちはアメリカ人の若者が、素晴らしい歌声と感覚で披露したこのバラードを聴いてどう思っただろうか。