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ノーノー・ボーイ(No-No Boy) と大統領令

トランプ氏がアメリカの大統領になってから、「大統領令」という言葉を頻繁に聞くようになった。もっとも話題になっているのが、特定の国からの入国を禁止する大統領令だ。
このことで思い出されるのが、75年前の2月19日に、当時のルーズベルト大統領によって発令された大統領令9066号である。

日米開戦から二ヵ月余、在米の日系人のなかに日本軍に協力するものがいるのではないかという議論が沸き起こる。とくに西海岸地域は一種のヒステリー状態となり、軍もまた日系人に対する何らかの措置をする必要があると結論づけた。
こうした議論のなか、大統領はこの大統領令によって、軍に権限を与え日系人に対する措置を任せた。こうしてアメリカの西海岸地域の約12万人の日系人が収容所へ強制的に入れられることになった。
日本人、日系人のなかに、スパイがいるかもしれない。だが、それを選別するのは非常に難しい。だからいっそのこと「日系人」という人種の枠で括って、収容するしかない。戦時という危機のなかだから仕方ない。そういう考えが軍の根底にあった。
この戦争という危機の発生から、大統領令による防御のための政策の実行までのプロセスを振り返ると、まさに、今回の大統領令が発令されるプロセスと似ている。

テロの発生、そしてテロリストの排除政策。そこではイスラム教徒個人をいい人かどうか見分けられないので、イスラム教徒全体に対する措置を講ずる。宗教によって人間を括ったわけである。戦時中に言われた「ジャップは所詮ジャップ」という考えが「イスラムは所詮イスラム」という乱暴な形で表れているようだ。

戦時中の日系人の話に戻れば、多くのアメリカ市民が権利を奪われ、そのうえで国家に対する忠誠を問われ、さらに権利をはく奪された上で徴兵もされた。多くが割り切れないものを感じながらも戦地へ赴き、アメリカ人であることを示すために勇敢に戦った。そして、多くの犠牲を出した。
その一方で、自分をアメリカ市民として扱わない国家に対する怒りや、一世である家族のことを思うなどして、あえて国家に反旗を翻した二世もいる。戦わなかったものもまた苦しんだである。そして、戦争が終わり、戦ったもの、戦わなかったものは傷ついた。

日系人という宿命ゆえの苦悩。それを描いたのが、ジョン・オカダが著した小説「ノーノー・ボーイ」である。自分は何者であり、どうやって生きていくか。その苦悩は、異質なもの、疎外されたものなら、日系人やイスラム教徒だけでなく、だれでもが抱えた苦悩でもある。

大和コロニー フロリダ、移民、日本人

「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)をこのほど出版しました。ざっと、あらすじをまとめると、以下のようになります。

表紙

フロリダ州に20世紀の初めから大和コロニーとよばれる日本人の入植地があったことはほとんど知られていない。しかし、戦後もこの地で農業をつづけた京都府宮津市出身の森上助次が、地元に寄贈したことがもとで、現地には広大な日本庭園と日本文化を紹介する「The Morikami Museum and Japanese Gardens」(以下モリカミ)が建設され、いまも多くの人々が訪れている。この寄付が縁で、宮津市とフロリダのデルレイビーチ市とは姉妹都市の関係になっている。

なぜ、ここに日本人が移民したのか。20世紀のはじめ、アメリカ国内は未開発の地が広がっている時代、フロリダ州では大西洋岸に延びる鉄道敷設計画が進められ、リゾート開発が始まった。ロックフェラーとともにスタンダード石油を経営した実業家で大富豪のヘンリー・フラグラーが企画したこの計画にともない、開発と同時に入植者を呼び込む動きが広がった。
これを知ったのが、当時実業家を目指してニューヨーク大学に留学中の酒井醸だった。宮津藩士の息子に生まれた酒井は、義兄で丹後縮緬商の沖光三郎に財政的な支援を得て、南フロリダに集団移住を計画し日本人のコロニー(入植地)をつくろうとした。そこで、ニューヨークの知人らに声をかけたほか、郷里の宮津に帰り人材を募集して現地入りしたが、そのなかのひとりが森上助次だった。
大和コロニーと名付けられた日本人村では、野菜や果物をつくり、鉄道を利用して全米に販売し栄えたこともあった。しかし、環境面で耕作はきびしく、農業自体は大きな成功にはいたらなかった。また、1920年代にはフロリダの土地ブームもあって土地を売って農業から離れるものも多く、のべ140人ほどが暮らしたコロニーは衰退。戦争で土地も接収され、コロニーは解体した。

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

大和コロニーの日本人、作物の出荷場近くで(© Morikami Museum and Japanese Gardens)

しかし、森上助次ほか数人だけは現地の周辺に残った。助次は一時は恐慌で全財産を失うなど苦労しながらも土地を少しずつ買いためていった。その一方で農業を続け生涯質素な暮らしをしながら、独身を貫き、また日本にも帰国せず現地で89歳の生涯を終えた。
助次がアメリカへ来た理由の一つはプロポーズした相手への失恋だった。彼女のことを生涯忘れられなかった助次は、晩年思い焦がれた人と文通をすることができた。彼女もそんな助次の思いを懐かしい想い出として受け止めた。
助次が寄付した土地をもとにした公園の広さは約200エーカー(約24万坪)で、湖を中心にして6つの区域に分かれる。一周はおよそ1・2キロくらいの散歩道。瓦屋根の本館があり日本の美術品が展示、茶室や225人収容のシアターもある。コロニーの歴史や日本の生活様式なども展示している。
正月の餅つき、お盆の精霊流しや花火など季節の催事を行い、年間を通して、生け花教室や茶道教室、日本料理や日本の庭作りを紹介。日本語教室などといった教育的なプログラムも組み、地域の人に日本文化を広め交流を図っている。

 

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

熱帯のなかの静かな日本庭園・Morikami Museum and Japanese Gardens

※    ※    ※

私がこの事実に興味をもったのは、ひとつにはアメリカがまだ発展途上で、フロリダの開発がオイルビジネスで成功した大富豪の手によって進められ、これに呼応した日本側の移住、入植プロジェクトもまた生糸産業、縮緬産業による富がつぎ込まれたという、ともに大きな時代背景があったことです。もうひとつは、酒井醸のようなインテリの理想と、失恋が動機で右も左もわからず入植した森上助次のような「農民」の、個人としての生き方の魅力です。
大きな時代の流れと制約のなかで、個人の夢や理想はどう動いていくのか。移民という冒険を通して見えてくる時代と社会と、個人の意志と運命が交錯するところにこの“物語”の醍醐味があるような気がする。

中山康樹を読め!! すばらしき音楽狂

しばらく会っていない知人が亡くなったことを新聞で知って愕然とした。中山康樹さん。「マイルスを聴け!!」をはじめとするジャズ評論のほか、ジャズ、ロック、ポップスの評論で小気味よく、ユーモアのある文章を書く人だ。

ここ数年は年賀状のやりとりだけだった。そういえば今年は来ていなかった。となると、あえて連絡を取らない限り近況を知ることはなかったのだが、それが新聞記事で、それも訃報ではなく、一般記事のなかで今年の初めになくなっていたことを知らされることになるとは。

中山

 

中山さんのことは、彼が「マイルスを聴け!!」を出版したあと、インタビュー記事を週刊朝日に掲載したのがきっかけで、お付き合いするようになった。マイルスの音楽を、中身がわからない人でも興味をかき立てるように、ユーモラスに描いているその書きっぷりに惹かれた。

その後、「ディランを聴け!!」という彼の作品を編集したことがあった。また、拙著の書評を書いていただいたこともある。そのほか、住宅問題を書いていた私の取材に応じてくれて、彼が住むマンションを買った経緯などをうかがったことがある。

クールで、少し怖い感じで、音楽を聴く姿勢は厳しかった。鋭さゆえに批評への批判もまたあった。だが、彼は気にしなかっただろう。

中山さんがいっていたことで思い出すのは、CDは100枚あればいい、新しく気に入ったものがあれば、古いものの中のものと取り換えればいいという話だった。潔い人だった。それともう一つ、彼が書いていたなかにあるのだが、若いころレコード店に行って、そこに売っているレコード全部を買いたくなったという話。この人はけた外れの音楽好きなのだ。

集中力とエネルギーのあった人だった。ある時期からものすごく精力的に著作を重ねていった。マイルス、ビーチボーイズ、ビートルズ、ディラン、そして桑田佳祐…。20世紀大衆音楽の巨人たちを串刺しに批評していった。

その著作のなかで私は異色の「スイングジャーナル青春録 東京編、大阪編」が好きだった。スイングジャーナル編集長をつとめた彼の若き日を描いたものだ。失礼を承知で言えばまさに、音楽バカの微笑ましい青春の日々だ。音楽好きの若い人にはぜひ、「中山を読め!!」といいたい。合掌。

戦争論、地獄変、高橋和巳

 

 戦争を振り返る季節を迎え、ヒロシマ、ナガサキの原爆記念日が来て、被爆の惨状が思い起こされ平和への願いが語られる。

重要なことだが、その一方でいまもどこかで戦争があり被害がつづいている。ガザではこうしている間にも子供たちが傷ついている。そして攻撃の手を緩めないイスラエルを否認しはしないアメリカにわれわれ日本は同調している。

69年前の惨禍を痛む被害者でありながら、当時は圧倒的な加害者であり、いまも間接的な加害者であるかもしれないわれわれは、ヒロシマ、ナガサキを語るときに同時にそのことに触れなければ説得力ある平和への願いとはいえないのではないか。

われわれは真に戦争を検証し反省してきたのだろうか。半世紀も前のエッセイ「戦争論」で作家高橋和巳は、ヒロシマの原爆慰霊塔の石碑に刻まれた言葉、
「安らかに眠ってください。あやまちはくりかえしませぬから」

に、強い違和感を示している。いったい何を過ったというのか。戦争は過失ではない、国家的確信犯罪であると断罪する。総じて国民が何かを過ったのではなく、国家が犯した罪である。しかしそれはいとも巧みに戦後政治的な領域で処理されてしまった。
繰り返すが、半世紀前にいわ れたことである。

戦争や紛争の報道をみつづけるのが嫌になってくる。ガザの子供らへの爆撃の様子をいかに臨場感をもって伝えられても、それを止める手立てがなにもないからだ。もう現状報告だけならやめてくれといいたくなる。その後でなにか個人ができることをマスコミは示してくれないか。
日本政府は何をしていているのか、その政府に対策を取らせるためにわれわれは何ができるのか、報道の域を超えているかもしれないが、なにか個人にできることを示してもらえないだろうか。凄惨な状況をリアルにただ眺めているに過ぎず、すぐそのあとにビールでも飲みながらバラエティー番組に興じ、どこかで己の平和を感じ取っているのでは、他人の不幸を肴にしているのとおなじである。

高橋和巳は、1965年に「見る悪魔」と題したエッセイのなかで、ヴェトナム戦争における日本のジャーナリズム作品についての“齟齬感”を語る。ヴェトナム戦争に対して行為者としての自分の無力を認めながら、表現者としての姿勢を問い詰めるなかでのことだ。
齟齬感の在処は、ひとことでいえば、書かれる側、見らえる側の立場、視点と表現者のそれとの乖離である。たとえば広島の慰霊塔の前で焼香する遺族の顔を30センチばかりの至近距離でとらえるカメラについて、「人々がなにか大事なことを考え落としている事実は否めない」と警鐘を鳴らす。

地獄変

高橋は、芥川龍之介の小説「地獄変」を思い出して、この乖離について語る。それは、酷いものでも平然と 芸術として描く老画家が、最後は大殿様の命よってだが、自分の寵愛する娘が焔に焼かれて苦しみ死ぬ姿 を描写し芸術とする悪魔的な精神のあり方を書いたものだ。ここから芥川のテーマである芸術至上主義を考えさせ、議論も引き起こされるが、高橋は別の角度から問題を提起する。
「老画家が娘の焼け死ぬのを描写している時、焼け死ぬ当の娘がどういうつもりで父を睨み返していたかということを私たちは常に考えおとしがちなのである」
ガザで爆撃に傷ついた子供をカメラがとらえる、ということは子供もまたカメラを見るかもしれない。その子はどういうつもりで見返していただろうか。
地獄変の老画家は、その“地獄絵”を描き終えたのち、自ら命を絶つ。見続けるだけのわれわれは、やがてこの老画家のようにならないともかぎらない。

Ross MacDonald(ロス・マクドナルド)の言葉②

 千葉県柏市の路上で通りがかりの31歳の男性会社員を殺した男は無職の24歳だった。未来のある何の罪もない人間を殺した罪は一生かかっても償いきれるものではないだろう。

 名古屋駅前で自動車を暴走させて、無差別に13人に重軽傷を負わせた事件の容疑者は30歳の男だった。彼の父親が警察官だったことが報じられ、報道のなかには、親ならまして警察官なら、公衆に対して謝罪すべきだという浅薄な意見があった。

 百歩譲って、よほど幼児期に虐待をしたなど、家庭教育の過程で人格を歪めたような形跡がはっきりとしているなら、そうした意見も容認されるかもしれないが、30歳の人間の犯行に対して、外部が容疑者本人にではなく、親だから警察官だから謝罪せよなどと断罪できるはずがない。

 自分が親で警察官で、常識ある人間だったら言われなくても悔い、謝罪をしたいと誰でも思うだろう。しかしそれは第三者が強制できるものではない。

 車を暴走させた男は幸い死者こそださなかったが、被害者を心身ともに傷つけ、またその家族を傷つけただけでなく、自らの家族を死に等しい状態に追いやったといっていい。通り魔殺人犯の24歳の凶行は、被害者の命を奪い、その家族の命も奪うに等しい残忍な行為であり、同時に自分の家族をも“殺した”に等しい。

 

 彼らはもちろん刑に服するだろうが、さまざまな形で被害をうけた関係者の将来を思うとやるせない。

さむけ2

 

 ロス・マクドナルドは、彼の作品中最高傑作だといわれる「さむけ」(The Chill 1976 小笠原豊樹訳)のなかで、作者とも主人公リュー・アーチャーのつぶやきともとれる言葉でこんなことをいい表している。

「ある種の人間は、自分がこの世に生まれてきたことを償うだけで生涯を費やしてしまうものである」

 妻殺しという無実の罪を着せられ、服役した男をめぐっての言葉だ。ろくでもない夫ではあったが、妻は殺していない。しかし、当時幼い娘が周囲の大人に強制されて、父親が母親を銃殺したと証言したことで、彼は有罪となってしまう。出所した男は、娘に会い自分の無罪を確認させようとしていた。こうした殺人事件が三つかさなって、物語はかなり複雑に展開していく。

 この世に生まれてきたことを償うだけで生涯を終える、とっていはあまりにも運命的すぎるし救いはない。だれだって生まれてきたときは、そんな運命は背負ってなかったはずだ。だが、どこでどうまちがったか、ある時からのちは、償いだけで生涯を費やす、あるいは費やさなくてはならない人生があることも確かだろう。

Ross MacDonald(ロス・マクドナルド)の言葉①

この夏から、ロス・マクドナルド(Ross Macdonald)を再び読み直してみた。作品によっては3度目になるものもある。ハード・ボイルド・ミステリーとして、ただでさえ込み入ったストーリーの彼の作品は、2度目に読んでもほとんど既読の感がない。
「南カリフォルニアをこんなふうに描いた作家はいなかった」と、批評された彼の世界は、青い空と光り輝くビーチと海のカリフォルニアを舞台に、心に闇を抱えた人たちが織りなす仕方のない哀しさを描く。
主人公、リュウ・アーチャー(Lew Archer)は、事件を追う中でその人たちの心と生活のなかに入り込み、やがて出てくる。彼は深く思い、考え、そして訊ねる。ロス・マクドナルドがアーチャーに語らせる言葉には、この世と人間に対する真実がこめられはっとさせられることがある。
また、アーチャーの目と心を通して描かれるカリフォルニアとアメリカは、光がつくる陰がつきまとっている。
陰を見たがらない人、無視しようとする人、それに気がつかない人には、知ることがない陰=真実を明かす。辛くても哀しくても「本当のことなのだ」、と目をそらさない人がアーチャーとマクドナルドに惹かれるのだろう。

「ドルの向こう側」(The Far Side of The Dollar 1965年、菊池光訳)の最後にこんなくだりがある。一連の殺しの真犯人としてリュー・アーチャーに追い詰められたミセス・ヒルマンが、逮捕前に自害させる機会を与えて欲しいとアーチャーに頼む。しかし彼は「間もなく、警察が来る」と、それを断る。

彼女は言う。
「きびしい人ね」
アーチャーが応える。
「きびしいのは、私ではないのです、ミセス・ヒルマン。現実が追いついたのにすぎないのです」

この先、ときどきリュウ・アーチャーの言葉を紹介していきたい。

密航船水安丸、移民、O.ヘンリー

 20世紀のはじめに、主に丹後半島からアメリカ南フロリダに、“農業開拓”のために入植した話を調べているのだが、当時の海外への入植、移住がどのような社会背景で実行されたのかがいまひとつピンと来ない。
 そこで専門家に尋ねようと、移民問題に詳しい知人の神田稔さんを頼ったところ、立命館大学の河原典史教授を紹介された。河原さんは近代の移住漁民について、特に朝鮮、台湾、そしてカナダに渡った日本人について、歴史地理学から研究されているという。

 まだメールでお尋ねしたばかりなのだが、河原さんから新田次郎著の「密航船水安丸」のことを教えていただいき、さっそく読んでみた。19世紀の終わりから20世紀にかけて宮城県からカナダのバンクーバーあたりに漁業移民としてわたった日本人の実話をもとにした物語だった。
 グループをつくって事業を始めた主人公が郷里に戻り、さらに仲間を募って事業を拡大しようと夢を膨らますところや、すでに移民して成功した話を聞いて、“よし自分も”と決意し、渡航する人たちの姿が描かれている。
 
 フロリダに入植した事例も、本書のようにリーダーがいて郷里へ戻って地縁、血縁で人材を募り、集団で渡航する。おそらく夢と理想に燃えて新天地へ足を踏み入れたのだろう。その辺りの事情があくまで推測だが、「密航船水安丸」から理解できた気がした。

 ところで、フロリダ入植のリーダーは酒井釀といって、入植計画を立てたときはニューヨーク大学に留学中だった。20世紀の初めのことだ。19世紀後半からニューヨークは産業、文化が花開き活況を呈し20世紀に入りさらに繁栄する。
 このころニューヨークには日本人の実業家や学者などによる社交倶楽部、日本倶楽部が誕生する。酒井釀も活気を帯びたマンハッタンのなかに学生として身を置き、実業家としての夢を膨らませていたようだ。

 彼の気持ちを推測する上でも、当時のニューヨークの様子について調べてみようと思うが、まったく別の目的でたまたま図書館で借りた「『最後の一葉』はこうして生まれた-O.ヘンリーの知られざる生涯」(齋藤昇著、角川学芸出版)が参考になった。

「最後の一葉」、「賢者の贈り物」など、ウィットとペーソスに満ちた珠玉の短編の数々を創作した作家、O.ヘンリーは、ちょうどこの時期にニューヨークで彼の代表作を書いている。
 ビジネスの華やかな成功譚も数多くあれば、貧しい移民やスラムの生活もあるニューヨークで、彼は人間を観察し、哀しく温かみある物語を読者に届けた。本書によれば、ニューヨークに来た当初、彼はユニオンスクエアのアパートに暮らしていたという。これは当時酒井譲が通った大学からそう遠くない。

 もしかしたらどこかで二人はすれ違っているかもしれない。想像を膨らませると、事実が物語として見えてくるから不思議だ。

靖国と「十九の春」

 沖縄県の八重山諸島の一つ西表島に戦時中日本軍が駐留していた。可能ならば当時そこにいた軍人を探しあてたい。そういう目的で恵比寿の防衛省・防衛研究所の資料閲覧室を訪ねた。
 戦時中沖縄に駐留する日本軍の概要をどうしらべるかここで教えてもらったが、個別の部隊についての具体的な情報を知りたければ靖国神社の“資料館”へ行った方がいいと言われ、翌日九段下の靖国神社へ足を運んだ。

 8月の終わり、参道はほとんど日影ができない陽射しのきつい午前11時ごろだった。境内に靖国会館という建物があり、その一階が靖国偕行文庫という資料館だった。館内で目的を告げると、担当の方が親切に沖縄の日本軍、そして石垣島を中心とする八重山の日本軍に関する資料や“戦友会”のリスト見せてくれた。

 西表にいた日本の軍人にたどりつくには、そこにどのような部隊がいたかを調べるのはあたりまえだが、実際その人たちの所在をつかむには、“戦友会”に頼るしかないのだ。しかし、どこの部隊にも戦友会があるわけではない。小さな部隊はある可能性が少ない。

  また、現在ある最新の名簿は10年ほど前のもので、部隊によってはその後連絡がつかなくなったことも十分考えられる。残念ながら西表にいたと特定できた部隊(船浮陸軍病院、第四遊撃隊第四中隊など)に限った戦友会などはみつからなかった。 
 仕方なく石垣島にいた部隊の一部や沖縄本島に配属されていた部隊の戦友会を調べて帰ってきた。

 なんのためにこんなことをしているかと言えば、「十九の春」という歌のルーツを探るためである。このルーツ探しを「『十九の春』を探して」(講談社)というノンフィクションにまとめたのが2007年。この時点では結局そのルーツはわからないままだった。
 調べてみればみるほどそれが雲をつかむようなことだとわかったが、出版後もルーツにつながるかもしれない情報を得たままで未調査のことが二つあった。その一つが、戦中に兵庫県尼崎の紡績工場で働いていた沖縄出身の若い女工がこのメロディーを歌っていたという事実だった。
 そしても一つが、西表島で日本の軍人が戦中にこのメロディーを歌っていたという事実である。もしそうだとしたら軍人はどこでこの歌を知ったのか、だれに教えてもらったのか。そういうことがわかるかもしれない、そう思って靖国へと向かったのだった。
 
 正直言って、戦友会を手がかりに少しでも前に進むのだろうかと心細い限りである。それでも試してみたくなるのは、ここまで調べてきた意地のようなものがあるからだが、それ以上に、実は調べる過程でいろいろな知的副産物があるからである。
 今回も日本の沖縄の日本軍についてある程度知ることができた。また、軍人の間で歌われている“軍歌”や“愛唱歌”についてものすごいコレクターがいることがわかった。

 元軍人はかなり高齢である。これからあまり時間を置かずに、沖縄にいた日本軍の戦友会にコンタクトをとってみようと思う。果たしてどれだけの元軍人に連絡がつくか。そしてあのメロディーを聴いたことがあったという人に出会うことがあるかどうか。
 

小さな靴が片方落ちたとき

 偶然だが、ここ数ヵ月で子連れの若い母親に3度同じことで、手助けをしたことがある。いずれも駅のホームか構内でのこと。抱きかかえている小さな子供の履いていた靴が、片方脱げて下に落ちてしまった。そこに居合わせたので、手のひらにおさまるほどの靴を拾って、子供に履かせてあげた。

 母親たちは小さな子を抱きかかえていると同時に、オムツとかいろいろ詰め込んだ大きなバッグを持ち歩いている。おまけにもう一人お兄ちゃんやお姉ちゃんを連れているときがある。これでは靴が落ちても戸惑うばかりですぐには拾えないのだ。私だけでこれだけ遭遇しているので、世の中あちこちで小さな靴はよく落ちるのだろう。

 子供の靴ということで思い出したのは、ブラジル生まれの洒落たポップス、ボサノヴァを創った一人、作曲家でピアニストのアントニオ・カルロス・ジョビン(Antonio Carlos Jobim)について実妹が著した「アントニオ・カルロス・ジョビン―ボサノヴァを創った男」(エレーナ ジョビン著、青土社)。

 このなかに決断力のある毅然とした彼の祖母にまつわるエピソードがある。彼女にまだ小さな子供がいたころ。リオ・デジャネイロの路面電車に子供連れでのっていたとき、子供の一人が足を揺すっていて片方の靴を電車の外に飛ばして舗道の上に落としてしまった。
 そのとき、彼女はとっさに屈み込んで、子供のもう一方の靴を脱がせてすぐにそれを舗道の上に投げた。どうしてそんなことをするの、と聞かれた彼女は、「こうすれば、あの靴を拾った人がちゃんと靴をはけるでしょ」と言った。

 靴を落としたことを嘆いていないで、すぐにその困難な状況のなかでも最善の策を見つける。片方失うだけならただの損失だが、二つ失えば誰かの役に立つ。この話のすごいところは、自分にとっては損失でも、誰かの利益になればよかったと思えるところか。これをとっさに判断する、なかなかできないことだ。