Archive for the ‘沖縄, Okinawa’ Category

沖縄と感染 さらなる負荷がかかる

日曜日, 2月 27th, 2022

 今年5月沖縄が日本に復帰して50年になります。新聞では昨年から特集記事が組まれていましたが、それよりもこの時期沖縄が注目されたのは県内での新型コロナウイルスの急拡大でした。その後感染は全国的に拡大しましたが、沖縄での感染状況が特異だったのは、米軍基地から拡大していったという点でした。
 昨年12月海兵隊基地キャンプ・ハンセン(金武町など)でクラスター(感染者集団)が発生しました。日本が水際対策に必死になっている一方、感染した部隊は出入国の際にPCR検査をしていませんでした。沖縄の基地はアメリカ国内扱いな反面、基地内の米軍関係者は、基地を出て街なかで自由に行動することができるし、基地の外で暮らしている人もいます。また、マスクをつけていない人も多々見られます。つまり日本のルールや常識に縛られないというのが実情です。さらにこうした実態に対して日本から厳しい目で見られていることに対する意識も薄いようです。クラスター発生後に、キャンプ・ハンセンの米兵が酒気帯び運転で逮捕されたという事実がこれを物語っています。
 沖縄県の玉城デニー知事は、感染発覚直後から在沖米軍トップに米兵の外出禁止など対策を再三要請しました。しかし、米軍は当初「陽性者が出た部隊の感染封じ込めに成功している」と反応、その後日米間の協議の結果ようやく20日後に外出制限などが実施されました。

 いったい、沖縄の実情はどうなのか、北谷町に住む知人の今郁義さんに聞いてみました。北海道出身の今さんは、返還前の沖縄社会をとらえた「モトシンカカランヌー」というドキュメンタリ―の制作に携わり、以来沖縄に住み市民活動などをしています。
「基地のある金武町に行ってみたが、米兵はマスクもしていない。(アメリカンビレッジというレジャー地区のある)北谷町でもマスクをしていない米兵は目につく。また米兵はほとんど複数で行動し、レストランなどに入ってくる。基地の外で暮らしている米兵もたくさんいるが、そうした数もアメリカ側は明らかにしていない」と言い、こうした基地をめぐる問題を協議する日米合同委員会のあり方に疑問を呈します。
 日本にある米軍基地の約7割が国土の0.6%の面積の沖縄に置かれていることによる沖縄県民の負担は、飛行機の騒音、墜落、落下物による被害、米兵による犯罪とその処罰の問題など、さまざまな面で沖縄以外と比べ甚大です。
 このほか社会インフラの面でも大きなハンディを負ってきました。戦前沖縄には鉄道がありました。しかし戦後の占領下、公共の利益より基地としての利用が優先され鉄道は復活されることはありませんでした。また、沖縄を車で走ってみればわかりますが、カーナビの画面がほとんど塗りつぶされたようになってしまうことがあります。これが基地の存在です。救急車の搬送も基地を迂回しなければならないことがあります。
 さらに今、沖縄の魅力であり日本の貴重な自然でもある辺野古の海が無残にも埋め立てられ恒久的な基地がさらにつくられつつあります。そして多くの基地を抱えるがゆえの感染症のリスクがこれらに加わりました。復帰から50年、米軍基地があることによる沖縄県民への負担と不安はさらに増したことになりました。(川崎医療生協新聞より)

菅首相が守ろうとしたものはなにか。国民か政権か、自分自身か?

月曜日, 9月 6th, 2021

 先月、横浜港を見下ろすビルから大桟橋に豪華客船が留まっているのをみました。ふと昨年正月のダイヤモンド・プリンセス号を思い出しました。連日のメディアでの報道に、この先ウイルスが広がってしまうのだろうかと心配しましたが、今の日本の現実はその心配をはるか凌ぐ危機的な状況にあります。
 あっという間にウイルスは地球上を席巻しました。しかし日本ではなぜかそれほどでもなかったので、当時の安倍首相は「日本モデルの力を示した」と胸をはりました。しかし案の定根拠のなき過信は、次善の策を遅らせ、代わった菅政権も悪化する事態を想定できず「GoToトラベル、イート」を推進しました。一方で、必要な検査体制は整えず、政府が「ゲームチェンジャー」とばかりに頼りにしたワクチンも提供が遅れました。
 そこへきてデルタ株の出現と拡大です。オリンピックの熱狂でつかの間目をそらすことができた感染状況は、専門家が予測した通り急速に悪化し、感染者の療養施設の確保はできず、自宅療養中で亡くなる人はつづき、コロナ以外で救急搬送先が見つからずに失われる命もでてきました。
 千葉県で感染した妊婦が入院できず自宅で出産した赤ちゃんがなくなるという例は、痛ましい限りでしたが、その経過を会見で説明する地元の保健所の担当者の口調からは「保健所だってぎりぎりの努力をしてるけど限界だ」といった悲痛さが感じられました。医療体制はひっ迫し、保健所業務も限界に達してます。
 わざわざ経過を書いたのは、こうした事態はこの1年半余り専門家によって予想されていたということを強調したかったからです。予測困難な自然災害とは明らかに異なります。だから検査体制、療養施設、野戦病院的な施設、感染源を減らすより具体的な対策を前もってとることができたわけです。しかし、国民が納得するような形では実現されませんでした。
「最悪の事態に備える」というのが、リスク管理の鉄則であり、リーダーがとるべき方策です。それは「逆算の思考」とも言えます。将来起こりうる最悪の事態を想定したときに、どう対処するかをまず考える。そして、その結果から今なにをすべきかを割り出す。その反対が対症療法的な思考です。根本的な問題に向き合うのではなく、いまある症状(状態)にまず対処する、その時々に対応するいわば御都合主義です。
 こうした思考がいかに脆く、犠牲を払うかは先の戦争からいくつも学び取れます。一例をあげれば、唯一の地上戦となり十数万の犠牲者を出した沖縄戦では、日本軍は一刻も早く降伏すべき時点で、大本営を守るという名目で少しでも時間を稼ごうと抵抗しより多くの市民を巻き添えにしていきます。
 敗戦という最悪を想定できるのに、その場しのぎのために犠牲を増やしてしまう。つまり軍が守ろうとしていたのは日本の国民ではなかった。同じように、これまでの経過を見れば、事態の深刻さを政権の責任ととらえられるのを恐れるがゆえに、国民に危機をアピールできず、ひいては先手を打てなかった菅首相が守ろうとしたものは、国民ではなく政権だったのではないでしょうか。
 新学期が始まり子どもの感染が新たに心配されます。遅くとも来月には行われる衆院選では、こうした現状を厳しく見て国民の側にたつリーダーを選出したいものです。(川崎医療生協新聞より)

 

コロナ禍に紛れて続く辺野古埋め立てという無情な蛮行

木曜日, 4月 23rd, 2020

 政府は、辺野古の埋め立て計画の設計変更をするという。軟弱地盤に対応するため、7万本の杭をうちこんで地盤を固める。これによって費用は当初予定の2・7倍の約9300億円となる。当然、工事期間は延び、埋め立てと引き換えになっている米軍普天間飛行場の移設は、2030年以降となるという。

 周辺住民にとって危険で、環境を脅かす普天間飛行場は少なくとも向こう10年はなくならず、一方、辺野古の自然が破壊されるのはいうまでもなく、周辺住民は10年も建設継続にともなう、工事車両の通行など住環境を損なわれる。そこに暮らし続ける人のことを、今までだけでなくこれだけ泣かせ、困らせ、海を汚して、数多くの基地に加えてさらに基地をつくる必要があるのか。あるという人間は、10年住んでみたらどうだ。辺野古基地新設の代替案を考える最後の時だ。

 コロナ禍で必死に働く人がいる医療現場へ果たして十分な資金、資材などの提供を国はしているのか。その一方で使われる9300憶円とはなんなのか。真の安全保障、公共の利益とはなんなのか、今こそ考えたい。どさくさ紛れともいいたくなる辺野古埋め立てや、横浜のカジノ建設など、いかがわしい事業、施策を見逃さないようにしたい。

穏やかで美しいかつての辺野古の浜(島袋武信さん撮影)

 

 

米軍基地内の感染、環境汚染、相変わらずの沖縄の不安

月曜日, 4月 20th, 2020

 

 沖縄・北谷在住の知人が、沖縄の米軍基地内の新型コロナウイルスの感染について憂慮すると電話で話していた。

「日本人が米軍基地内に入るときは、厳重なチェックがあってゲートの前で並んでいる一方で、基地のなかのアメリカ人が沖縄の市内に出てくるのは自由だ。アメリカンビレッジあたりでは結構アメリカ人がいますよ」という。基地内の感染状況が細かく把握できない一方で、そこから出てくる(日本側に入ってくる)ものへのチェックが厳しくできないのが現状のようだ。

 最近、米軍普天間飛行場から有害物質PFOSを含む泡消火剤が流出した事件があった。報道によれば、基地外に流れた量は200リットル入りドラム缶719本分に上るという。流れた量の全体の6割以上が基地外の川などに流れ出た。
PFOSは発がん性などの健康被害が指摘されている。流出量については米軍はすぐには明らかにしなかった。

 辺野古埋め立てなど基地建設に加えて、基地の存在でどれだけ環境が破壊されるか。米軍基地が今のままの力関係にあるなかで、いったい沖縄になんのとくがあるとういのか。

 

 


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またひとつ美しい海が潰れる 辺野古

水曜日, 4月 26th, 2017

辺野古の海岸を埋め立てる工事がはじまった。海に囲まれ美しい渚や海岸線をほこる日本の自然海岸が5割を割ったのは、たしか1980年代だった。

軍備のため、経済のため日本の海岸は埋め立てられてきた。埋め立てのための公有水面埋立法はあるが、ほとんど手続法のようなもので、埋め立てをとめることはできない。

最たるものが原発で、公益、国益の名の下に(実は、それに名を借りていた)ために自然海岸がつぶされてきた。その海岸がもう使い物にならなくなってしまったことを原発事故は教えてくれた。

辺野古埋め立ての報道のなかで、国と沖縄県の対立は深まるばかりです、という言い方がよくされる。まるで他人事のようだ。沖縄には美しい自然をもとめ多くの観光客が訪れる。これはわれわれ日本の、日本人の財産でもある。われわれが美しい国土や自然をどう守るか、なにを引き換えにして、これを失ってもいいのなのかと自分自身に問う問題ではないのか。

北朝鮮の脅威から国土を守る必要がある。そのために米軍の力が必要で、だからアメリカの希望をかなえる必要があり、だから辺野古が必要だというのか。逆に考えてみよう。辺野古でなければいけないのか、沖縄でなければいけないのか。アメリカの希望をかなえなければいけないのか。北朝鮮からの脅威から国土を守るという出発点からさきは、もっと多様な選択肢があるだろう。議論が必要だろう。

かつて入浜権運動というものがあった。兵庫の高砂から生まれたこの運動は、自然海岸が沿岸の工業化などで失われていき、古来より身近な浜や海に親しんできた人びとの権利が損なわれていくことへの怒りであり、その権利を取り戻す運動だった。

辺野古の問題は地元だけの問題ではなく、沖縄だけの問題でもない。埋め立て護岸工事をしたら二度もとへは戻らない。辺野古の海と浜はいまきっと悲鳴をあげている。自然信仰などとくにないが、きっといつか、どこかで自然から手痛い仕返しを受けるような気がしてならない。

琉球独立

火曜日, 11月 6th, 2012

 またしても沖縄で米兵による事件が起きた。11月1日の深夜、今度は酒に酔った若い米兵が民家に侵入しその家の中学生を殴りケガをさせたという住居侵入・傷害事件だ。前回の強姦致傷事件のときもふくめこれだけ基地があることに起因する問題を目の当たりにしながら、驚くべき反応が日本人のなかにある。
 それは、「沖縄の人には気の毒だが、日本の安全保障のために我慢してもらうしかない」という意見だ。国家の安全保障というが、つきつめれば国家を盾にした自分の身の安全のためだろう。
 加えて、こういう意見の人は自分が一番大事だから自分のところに基地を引き受ける気持ちなど毛頭ない。長年にわたって同じ国民として明らかに不利益を被っている人がいるのに、それを是正しようとしないで成り立つ安全保障は、民主国家としておかしいし、第一だれかの痛みの上に自分の安全を確保して気持ちがいいだろうか。
 日本人に不利益な日米地位協定を見直すことはもちろん、基地の縮小を実現しなければ事態は変わらないだろう。

 沖縄ではいま「琉球独立」の動きさえある。先日、龍谷大学の松島泰勝教授が、毎日新聞のインタビューのなかで、独立も現実的な選択として考えざるを得ないと話している。
 パラオ、ツバル、ナウルといった太平洋に浮かぶ小国のように、沖縄よりはるかに規模が小さくても独立している国を例に挙げるなどし、独立は不可能ではないという。

 昨年沖縄で話を聞いた沖縄国際大学野球部監督の安里嗣則さんは、野球をはじめさまざまなスポーツの大会の開催地として沖縄は国際的に大いなる可能性があるという。
 また、これまで返還されてきた基地は再開発によって基地以上の経済効果を生んでいるという実証データもある。つまり、基地がないと経済的にやっていけないなどというのは乱暴な論だということだ。
 松島教授らは10年に「琉球自治共和国連邦独立宣言」を発表、政治・経済学、国際法、民族学、社会学など幅広い分野で組織する琉球独立総合研究学会が来年度の発足を目指しているという。
 その歴史は古い、琉球独立論の現実性を今後探ってみたい。(9月24日毎日新聞参考)

屈辱的な事件に怒りはないか

火曜日, 10月 23rd, 2012

  オスプレイ問題にひきつづきとんでもないことがまた沖縄で起きた。若い二人の米軍兵による日本人女性への強姦致傷事件だ。あるテレビの報道番組が、容疑者の一人の故郷テキサスを訪ね、彼の友人へインタビューをした。
 友人は、容疑者は女性に対してそんなことをする男ではなかったと、容疑者がもともと健全な人格であったことを語った。
 もしその通りなら、彼は軍人になったことが原因で女性を襲うような人間になったのか。それとも、沖縄という異国の基地のまちで、相手が日本人女性だったからたいした罪の意識なく犯行に及んだのか。
 軍人という身分が保護されていると意識していたのか。故郷のアメリカ人の白人女性に対してだったらそんな卑劣なことはしなかったのか。

 いずれにしても、彼らがこれまである程度普通の人間だったなら、これまで米軍兵が引き起こした沖縄での数々の事件とそれに対する沖縄の人の気持ちなどほとんど意識になかったことは容易に想像がつく。
 アメリカは事件について綱紀粛正を強めるというが、根本的解決策としては米軍の大規模な縮小か撤退以外にありえないだろう。それでも事件後ルース駐日米大使は「私にも25歳になる娘がいる、個人的なものとして、多くの人がこの事件に対して抱く怒りを理解している」と、声を詰まらせコメントした。

 また、沖縄県の仲井真知事は「正気の沙汰とは思えない」と、怒りと悲しみの表情を浮かべた。それに対して、野田首相はまず最初に記者に感想を聞かれてなんといったかといえば、「あってはならないこと」だった。
 同胞が屈辱的な乱暴を受けて、こんな紋切り型の言葉しか最初に出てこないのだろうか。気持ちの問題だ。

 この言葉からだけでなく、震災の被災者、拉致被害者、そして沖縄の人たちという生身の人間としての国民の怒りや悲しみを共有して、守っていこうという気持ちが政治家から感じられない。だが、それは政治家からだけでなく国民全体からもあまり感じられない。
 国の安全保障のために、日本のエネルギーの安定供給・経済成長のために・・・。その大義(実際は一部の集団の利益やイデオロギーのカモフラージュでもある)の下に結果として蹂躙されてきた個人としての国民の生活のなんと多いことか。
 沖縄については、この際せめて日本全国の学校教育の現場で沖縄の歴史を必修として、生徒が学ぶようにしたらどうだろうか。 

沖縄の実態を想像しよう

月曜日, 10月 15th, 2012

  私の家は、三階建てのマンションの駐車場と細い道路を挟んで接している。ここは袋小路なので、マンションに用のある宅配便などは、この駐車場でUターンして出入りする。 小刻みな時間帯で、荷物などを授受できることで、ずいぶん便利になったと思うが、その一方で頻繁に出入りする自動車の音が気になる。はっきりいってうるさいと感じることもしばしばだ。 

 音の問題は個人差はあるが、一度でも飛行機の離着陸する基地のそばに行ったことがある人なら、その騒音は耐え難いものだと身に染みるだろう。日本中のこうした基地、とくに沖縄の普天間周辺の人は、この騒音と日々つきあい、万一事故が起きたらどうしようという精神的な不安と緊張感を抱えてきた。

 いままでさんざんそういう思いをしてきたから、オスプレイの配備についても拒否反応を示すのは当然だろう。特定の軍備についての安全性という問題ではない。戦時中から沖縄が本土の防波堤と位置付けられ、地元では日本軍からも同じ日本人とは別の扱いを受けた記憶をもつ人は少なくない。

 さらに戦後の占領下はもとより、返還後も基地がある事によって起きた米軍兵による犯罪の被害を受け、なおかつ公正な処罰が受け入れられなかったという多くの事実があるのはいうまでもない。
 そういう歴史のなかで、アメリカの要求するままに沖縄に負担が増えるという危惧を及ぼす政策が繰り返されることにがまんがならないという気持ちは、沖縄以外の人でも歴史を知り、現地のことを想像してみれば容易に理解できることだろう。これはイデオロギーでも、政治的な問題ではない。
 
 その深い苛立ちを押し切って先日配備されたオスプレイは、さっそく沖縄で住宅地の上空を飛行した。とんでもない話だ。オスプレイの安全確保策を協議した日米合同委員会は「運用上必要な場合を除き米軍施設・区域内のみで垂直離着陸モードで飛行し、転換モードの飛行時間はできる限り限定する」と合意しているのに、もうこれに反している。

 さらにひどいのは、この合意違反に対する玄葉光一郎外相のコメントだ。彼は、10月5日の閣議後の会見で「沖縄に懸念の声があるので、よく守ってほしいと(米側に)伝えた。これから事例を集めてフォローしなければならない」という。
 まるで他人事のような言い方ではないか。これじゃ沖縄の人が怒るのも無理はない。あれだけ問題になっていながら安全性以前の、普通の約束事すら守られず、それを知っても地元の怒りすら代弁できないのである。

 自分の住んでいるまちや故郷が長年にわたって同じような扱いを受けたら、きっと沖縄でオスプレイ配備に反対する人の気持ちがわかるだろう。国益のために仕方ないなどという論が沖縄の基地問題についてはよく展開されるが、長年にわたって同じ国民の平穏な生活をこれほど犠牲にして成り立つ国益とはなんなのか。 

 そういう安易な国益論が、これまで反対者に“地域エゴ”というレッテルを貼ってきた。あるいは生活者からの発想を、イデオロギー的な信条とみなすことで封じ込めようとしてきた。
 本当の地域エゴというのは、安全とわかっている震災の瓦礫を受け入れようとしない市民や、自分のところには基地の受け入れを拒否するくせに、沖縄の基地負担を仕方ないと考えることだ。
 沖縄をめぐってはいま独立論が話題になっているという。日本の国の沖縄に対する扱いが植民地を扱うようなものに似ているからである。  

靖国と「十九の春」

金曜日, 9月 7th, 2012

 沖縄県の八重山諸島の一つ西表島に戦時中日本軍が駐留していた。可能ならば当時そこにいた軍人を探しあてたい。そういう目的で恵比寿の防衛省・防衛研究所の資料閲覧室を訪ねた。
 戦時中沖縄に駐留する日本軍の概要をどうしらべるかここで教えてもらったが、個別の部隊についての具体的な情報を知りたければ靖国神社の“資料館”へ行った方がいいと言われ、翌日九段下の靖国神社へ足を運んだ。

 8月の終わり、参道はほとんど日影ができない陽射しのきつい午前11時ごろだった。境内に靖国会館という建物があり、その一階が靖国偕行文庫という資料館だった。館内で目的を告げると、担当の方が親切に沖縄の日本軍、そして石垣島を中心とする八重山の日本軍に関する資料や“戦友会”のリスト見せてくれた。

 西表にいた日本の軍人にたどりつくには、そこにどのような部隊がいたかを調べるのはあたりまえだが、実際その人たちの所在をつかむには、“戦友会”に頼るしかないのだ。しかし、どこの部隊にも戦友会があるわけではない。小さな部隊はある可能性が少ない。

  また、現在ある最新の名簿は10年ほど前のもので、部隊によってはその後連絡がつかなくなったことも十分考えられる。残念ながら西表にいたと特定できた部隊(船浮陸軍病院、第四遊撃隊第四中隊など)に限った戦友会などはみつからなかった。 
 仕方なく石垣島にいた部隊の一部や沖縄本島に配属されていた部隊の戦友会を調べて帰ってきた。

 なんのためにこんなことをしているかと言えば、「十九の春」という歌のルーツを探るためである。このルーツ探しを「『十九の春』を探して」(講談社)というノンフィクションにまとめたのが2007年。この時点では結局そのルーツはわからないままだった。
 調べてみればみるほどそれが雲をつかむようなことだとわかったが、出版後もルーツにつながるかもしれない情報を得たままで未調査のことが二つあった。その一つが、戦中に兵庫県尼崎の紡績工場で働いていた沖縄出身の若い女工がこのメロディーを歌っていたという事実だった。
 そしても一つが、西表島で日本の軍人が戦中にこのメロディーを歌っていたという事実である。もしそうだとしたら軍人はどこでこの歌を知ったのか、だれに教えてもらったのか。そういうことがわかるかもしれない、そう思って靖国へと向かったのだった。
 
 正直言って、戦友会を手がかりに少しでも前に進むのだろうかと心細い限りである。それでも試してみたくなるのは、ここまで調べてきた意地のようなものがあるからだが、それ以上に、実は調べる過程でいろいろな知的副産物があるからである。
 今回も日本の沖縄の日本軍についてある程度知ることができた。また、軍人の間で歌われている“軍歌”や“愛唱歌”についてものすごいコレクターがいることがわかった。

 元軍人はかなり高齢である。これからあまり時間を置かずに、沖縄にいた日本軍の戦友会にコンタクトをとってみようと思う。果たしてどれだけの元軍人に連絡がつくか。そしてあのメロディーを聴いたことがあったという人に出会うことがあるかどうか。
 

沖縄への基地集中はやむを得ないだって?

月曜日, 5月 21st, 2012

アメリカンビレッジ入り口で

 NHKの世論調査によれば、「在日アメリカ軍の専用施設の74%が沖縄に集中している」ことについて、日本全体ではこれを「おかしい」と答えた人が全体の25%で、「どちらかといえばおかしい」という人も加えると68%だったという。
 一方沖縄県内では「おかしい」が57%、「どちらかといえばおかしい」が29%で、あわせて86%を占めたという。

 毎日新聞と琉球新報の合同世論調査では、沖縄県に在日米軍基地の7割以上が集中している現状について日本全体では「不平等だと思う」が33%で、「やむを得ない」が37%になっている。一方沖縄県だけに限ってみると69%、22%となっている。

「不平等だと思うが、やむを得ない」と思っている人はどちらを選んだのかという不確かさがあるが、それにしても沖縄への基地の偏在をおかしいと思わない人、不平等だとは思わない人の割合がこんなに多いのかと驚きを隠せいない。
「おかしいけれど、いまは仕方がない」とか「不平等はわかっているが、他に選択肢がない」という意見はあるだろうが、おかしいとも思わないし不平等だとも思わないことがあるのだろうか。
 こうした意見はどういう価値観に支えられているのか、もう少し掘り下げて知りたいところだ。「国益を考えて」という価値観がメインだとすれば、国益に名を借りた、個人の利益の反映、つまり自分さえよければいいということにならないだろうか。