安っぽい美意識~国家と国民

元日の午前10時ごろ、自転車で近くの神社をまわった。小さな鳥居と短い参道のある神社やコミュニティーセンターの一角にある社、そして交差点の角の御稲荷さんなど、それぞれに小さないながらも地域の住民に支えられながら新年を迎えて装いを整えている。

無数にある地域の神社や仏閣に、今年も多くの人がさまざまな願いを胸に訪れている。こうした光景をみると、地域の人々が自分たちのものとして社(やしろ)を守ってきたことで地域の安らぎや平和が培われてきたことを痛感する。

こういうことを言うと、「いや、国家が安全だから、国が守られているからこそ、個人生活の安全が保障されている」といった意見が立ち上がってくる。わが国の首相もおなじである。そして、結果として国家全体の安全のためには、個人は多少犠牲になっても仕方ないという理屈ができあがる。

だから、沖縄の米軍基地により永年にわたって被害を受けてきた住民は、我慢を強いられても仕方ないということになる。原発建設も似たところがある。原発がつくられる周囲は、エネルギーの安定供給といった、公共の利益のためにリスクを受忍してもらいましょうとなる。

首相は、国家がまず大事だと信じているので、その国家のために戦い亡くなった人を祀ってある神社はなんとしても参拝する。ここにはA級戦犯も合祀されている。東京裁判をどう評価するかは別にしても、少なくとも国家・軍の指導的な立場にある人間が、その責任をとらなくていい、あるいは一般国民と同様のレベルで戦争の責任がある、などと考えている人は非常に少ないだろう。

また、「国家のため」と言われて死んだ軍人も民間人も無数にいる。そのなかにはもちろん不本意ながら命を落とした人が腐るほどいる。彼らが生きていたら、あるいは彼らの遺族が、A級戦犯を国を代表する首相が参拝することに、嫌な思い、悲しい思いをするのは想像に難くない。
他国がどう評価するかと言う前に、自国の国民に嫌な思いをさせてまで参拝する価値がどこにあるのか。喜んでくれる人がいることを優先するより、悲しい人の気持ちを斟酌すべきではないのか。それなくして彼が描く「美しい国」など、安っぽい美意識を額縁に入れたようなものである。

純粋に英霊の冥福を祈ることは何の異論もない。どうぞご自分一人でひっそりと隠れて参拝し冥福を祈ればいいではないか。参拝したということを世に知らしめたいというのは、英霊のためのではなく、自身の美意識への陶酔ではないか。

「美しい国」という目標をリーダーが掲げることにも異論はない。しかし、そのために個人個人が地道に作り上げようとする“美しい生活”が阻害されるなら、そのどこが美しいのだろう。国家はなくても人は生きるが、人のいない国家などない。
原発対策など喫緊の課題が頓挫しているとき、己の美意識に固執して靖国参拝に情熱をかける時間があったら、街角にひっそりと佇む社をめぐってみてはどうか。


the attachments to this post:


神社2


Comments are closed.