三河島から行旅死亡人へ

 月に一度、友人であるジャーナリストのH氏とぶらり飲み歩いている。この2人の飲み会にはちょっとしたコンセプトがあって、これまで行ったことがないようなところを事前情報を得ずに訪ね、行き当たりばったりで2,3件暖簾をくぐるということだ。
 街歩きをかねて、「ここのぞいてみる?」といった感じで店とは初対面の新鮮さを味わう。ひとりでは間が持てないような店も2人ならなんとかなるし、常連さんの、品定めをするような視線にも堪えられる。

 これまで門前仲町を皮切りに、人形町、戸越銀座、合羽橋、野方、赤羽、野毛(横浜)をぶらり飲み歩き、つい最近は三河島を“攻略”してみた。常磐線で日暮里から一つ目。私もH氏も初めて下車する駅だった。
 あとでわかったことだったが、ここには古いコリアンコミュニティーがあって、路地に入っていくと、下町らしい総菜や食料品を扱う小さな商店にまじって、「焼き肉」がちらほら目に入る。

 これらとは別で、「やきとん」と書かれた暖簾のかかる見るからに時代を感じさせる店に入った。煙がしみこんだような煤けた店内はカウンターのみ。仕事帰りの勤め人風の客もいるが、みたとこ近所のなじみ客がほとんどのようだ。風呂上がりでやってきたような中年カップルもいる。

 焼酎の一升瓶が水槽のなかで冷やされている。チューハイを頼むと、ちょっとむずかしい表情の老年の店主がそのビンを取り上げて、氷の入らないがレモンのエキス?を垂らしたジョッキ風のグラスを差し出す。
 1本70円からの焼き物数種と冷や奴、トマトを頼む。夜7時ごろ。すでに席はいっぱい。2人で2500円ほどを払い外へ出た。「いやー、正解だったね」と顔を見合わせ、再びぶらり歩き始める。

 小腹がすいたので小さな中華料理屋へ入る。まだ始めて間もないという中国人経営の店で酢豚やチャーハンを食べ、その後は「女性ひとりでもどうぞ」などと書かれたスナックのようなところでカラオケに興じた。

 そうしているうちに店内の常連さんと会話がはじまり、三河島の鉄道事故に話が及んだ。三河島といえば鉄道事故という記憶はあったが、改めて調べてみると大惨事だったと教えられた。いわゆる三河島事故(みかわしまじこ)とは、1962年(昭和37年)5月3日夜、当時の国鉄常磐線三河島駅構内で発生した多重衝突事故で、死者は160人も。

 犠牲者を悼んで近くの寺には聖観音像なるものが建てられた。また、この犠牲者のなかにたった一人だけ身元不明の男性の遺体があり、駅近くの寺に行旅死亡人として葬られたそうだ。なにかの用事で関係する列車に乗っていたのだろう。

 ところでこの 行旅死亡人とは、身元不明で遺体の引き取り手もない死者のことをいう。昔なら旅の途中で行き倒れて身元が判明しないような人だ。この行旅死亡人が日本では年間で1000人ほどいるとどこかで読んだが、不幸にして亡くなるだけでなく、その身元もわからず葬られるというのは、人の最期としてなんとも寂しい。

 だがその一方で、家出人の捜索願は毎年10万件ほどあるという。これらがすべて永遠の行方不明者ではないだろうが、かなりの数の人間が、自らの意志で過去を捨てていると推測できる。身元が判明されることを拒否しているともいえる。
 とはいっても最後まで身近な人に身元を知られることなく、あるいは知らせることなくこの世を去っていくのはむずかしいかもしれない。いずれにしても自分の意志で過去を捨てたのであれば、知られずに逝くことも必ずしも不本意ではないのだろう。

 問題は、そんなつもりはなくても、名無しのままに葬られるケースだ。三河島へ行った翌週都内は猛暑となった。私は炎天下、品川界隈を歩いていて、あるホームレスと見られる人に出会い衝撃を受けた。

 男性と思われるその人は、もはや着ているものも服の体をなさない、真っ黒いボロ雑巾のようなものをまとい顔も見えなかった。動いていなければ人とは思わなかったかもしれない。
 この暑さのなかをどうやりすごすのか。ふと“行旅死亡人”という言葉が頭に浮かんだ。(川井龍介)


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