汚れた心と国益
太平洋戦が終わる前後、戦争の混乱に輪をかけてさまざまな悲劇が起きた。敵に殺されるならと自害した人もいる。与論島から満州に入植した一団のなかでは、ソ連の侵攻でパニックになったある若者が同郷の子女を自ら手にかけてしまった。
いままで信じていたものが180度変わってしまったこともあり、社会も人々の心も大きく動揺する。それでも現実を突きつけられれば前に進むしかないが、終戦を遠く日本を離れて迎えた人たちは情報不足や置かれた立場(移民など)によって日本にいる日本人とはまた違った複雑さがあったろう。
いま公開されている映画「汚れた心」は、ブラジルに移民した日本人のあるコミュニティーのなかの悲劇を描いている。終戦を迎えてもなお日本が負けるはずがないと狂信的に思い込む“勝ち組”と呼ばれたグループが、負けを自覚する“負け組”を国賊として攻撃する。
本当は心のどこかでおかしいと感じつつも、皇国の不敗神話に縛られて狂気に走る主人公。それを苦しみつつ見守るしかない妻。日本人同士のなかでまた血が流れる。実際に戦後のブラジル日本人移民社会で数多くの事件があったという。
情報から隔離され、事実に目をそらし神話を妄信する。それは不安の裏返しでもあるのだが、そこにつけ込むように訴えるカリスマ的な人物による扇動がある。
不安なときの人の心は弱く、こうした扇動になびいていく。そして、冷静に対応するような言動を弱虫となじり、同胞の中に敵を作っていく。
いまの日本でも、似たようなムードはなにかことあるごとに頭をもたげる。個人的な国家観の表出にすぎないものを“国益”などと安易に呼び、「わが国の国益とはなにかを考えないといけない」などという言葉は要注意だ。
先の戦争はもちろんのこと、原発計画も沖縄の基地も国益の名の下であったことだけいえば十分だろう。そんなことを考えさせられた映画だった。