火事を必死に消火している人を横目に、花火を楽しめというのか 医療危機とGoToキャンペーン
コロナ感染者に応対している病院スタッフのなかには、できることなら現場から逃避したいという声を聞いた。その一方でGoToキャンペーンの開始だ。病院は、警察や消防と同様に私たちの安全を保証してくれる存在だ。
ものごとには優先順位というものがある。まずは医療機関に最大限の支援をするのが国や自治体の役割だ。しかし、感染拡大によって医療現場が危機的な状況にあるときに、税金を使って人の移動を促進させようとするのは、どう見ても不合理だ。火事現場で必死に消火活動しているとなりで、花火見物するようなものだ。火事の火花を気にせずに、きれいな花火を楽しめるのか。
感染を完全に防ぐのは不可能だ。いまや個人として気をつけて常識的な行動をとっている人も感染している。だから万一感染しても十分な医療体制、あるいは静養できる隔離体制を整えるという、「万一感染してもある程度安心できる体制」が必要だ。もう一つ重要なのはPCR検査体制の拡充である。
これに対しては、偽陽性、偽陰性という問題を揚げ、反対する専門家やジャーナリストもいるが、この論の科学的な根拠については、上昌広氏(医療ガバナンス研究所)の主張を読めば適当でないことがわかる。(連載医療従事者が本音で語る「日本社会」の現状~GGO For Doctor【第11回】政府無視し「PCR検査をしない真っ当な理由」騙る厚労省の大罪)。
また、科学的以外の根拠として挙げている「偽陽性の人も含めた隔離体制など無理である」は、上氏の論からすればそうとは言えない。もちろん療養する施設がかなり必要なのは確かだが、可能な限りやるかどうかは政治・行政の判断次第である。
効果の薄いマスクに税金何百億を費やす施策を即決し、医療支援より観光業やレジャーを楽しみたい人に金を使う決定を下せるなら、できないことはない。「整備は大変だろう」という科学的以外の理由を、なにも専門家が管理者側の立場を忖度して判断する必要はない。要はやる気があるかないかだ。
また、なにかというと「PCR検査はその時のものであり完全ではない」といった意見がでるが、そんなことはずいぶん前から分かり切ったことで、それは計算済みで議論されているはずである。不完全であるなら少数の検査でもあまり意味がないことになる。しかし、そうではなく、ニューヨーク市のように回数を重ねて簡単にできるようになれば、少なくとも限られた検査に比べ、より陽性者との接触のリスクをより可視化でき、無駄な神経を使うことが軽減され自粛をする必要度も低くなる。
しかし、検査に対しては「進まない理由がある」というのを専門家ではなく、国の施策として、方針として、そう結論付けているのなら、厚労省の医系技官のしかるべき人が説明をしてはどうだろう。知られざる事実があり、もしかしたら自分の方が勘違いをしているのかもしれないという謙虚な気持ちも持ち合わせている人も多いだろう。
しかし、今までそれがないのだ。多くの人が気づいていると思うが、自然災害の際に気象庁のしかるべき人がその都度国民に向けて説明をするのと異なり、一連のコロナ問題に対しては、専門家ばかりが表に出て、行政の責任者(専門的な知識のある行政官)が表にできて発表、説明することがない。実に不思議だ。
漠然とした不安がもたらす悪弊
いまあるのは、データが少ない中の漠然とした感染の不安のなかで、これにおびえ行動を制約させている人たちと、わからないのだから楽観的に行動する人たちの2極化ではないだろうか。実態は同じなのに、検査に基づくデータがないことがそれぞれが個人的な憶測で感染リスクを判断するなどして混乱を招く。
繰り返すが、感染はだれにでも起きる可能性があるのに、常識的な行動をとって感染した人にも、差別的な見方が広がっている問題もある。感染したがために引っ越しを余儀なくされた例すらある。本来は被害者なのにだ。
差別する人間は、自分が感染したら差別されるだろうことはわかっているから、極端に神経質になる。人を差別する人が自分の検査してみたら陽性だということもあるだろう。感染を顕在化することによって、感染に対する差別も多少は減少するはずだ。インフルエンザに罹ったからといって引っ越しを余儀なくされることがあるだろうか。
プロ野球選手が、シーズン前にPCR検査をして臨んだチームの例のように、固定された集団は検査をすることによって自分たちも周りも、何もしなかったときに比べてリスクの度合いはわかる。だから、歌舞伎町のホストクラブやキャバクラで起きた集団感染に対して、徹底して関係エリアの人たちの検査をいち早くやるべきだという意見は早くからあった。しかし一部の検査に終わってしまい、その間に感染は広まったと考えられる。
カジノを進め、キャンペーンも勧める横浜
話をGoToキャンペーンにもどせば、データに基づきリスクがある程度可視化され、医療体制が整い、感染が減少傾向にあれば人は、安心を得て「観光」に動きだすだろう。観光業界への支援は大いに必要であることは異論はない。しかし、その支援策がいま人を動かす形で実行されることが、地域や観光業にとって最善の策なのか、疑問だ。
統制と管理が、自由な個人・個人集団に比べればなるかにとれている「教育現場」でも、修学旅行は取りやめ、本来の夏の甲子園大会も無観客でも取りやめになっている。これと比べてもキャンペーンの仕方は腑に落ちない。
首都圏で観光都市でもありまた感染も拡大している横浜市は、この時期にすら市長が統合型リゾート(カジノ)建設推進に力を入れている。そういう考えだから市民に「ぜひ、県外に旅行なさっていいんじゃないかと思う」(毎日新聞、7月16日付)」と、軽々と驚くべきことをいう。神奈川県知事も同姿勢で、政権の支持を受けている自治体の首長らしいというしかない。ともに平たく言えば実に“軽い”。
横浜市の市長は、超高齢社会の市財政を考えるとカジノ建設が必須という。お金という表に見えるだけの指標で考えるからこういうことになる。ギャンブル依存症、環境破壊による見えざるディメリット(結果として社会資本に経済的にもマイナスを及ぼす)に深慮をめぐらすこともない。コロナ問題を見ればわかる。いかに財政を支出したか。経済対策として金を回して表向きに成長を見せても、それを相殺する以上の支出を生み、公共社会に、また個人に心理的ダメージを与える。だから、同市長の考えは“薄っぺらい”といえる。
自治体でもキャンペーンに対しての意見は様々だし、地域でも業種によって意見は異なる。キャンペーンによって利益を得る人とそうでない人がいるからだ。これが時によって地域内に軋轢を生んだり、下手をすると分断をもたらす。
こうした図式は、原発導入、ダム建設、リニアモーター建設のような巨大開発などと同じで、昔から繰り返されていることだ。あえて地域を分断することで開発を進めるというやり方を政治は幾度となく行ってきた。今回はそうとは思わないが、結果として分断を生むとしたらその責任も大きい。
自分さえよけりゃいい 現政権下での倫理観の低下
キャンペーンという割安な旅行とはいえ、出かけることができるのは経済的に余裕がある人だ。こういう人はなにも援助しなくても安心すれば旅行にでる。それをわざわざ税金を使って旅行をしてもらおうという。
少なくとも医療関係者や保健行政に携わっている人への手厚い支援があってのことならそれもいいが、そうでない状況の下で感染拡大のリスクの原因の一端を背負っていると想像したら、旅行者もまた心底から楽しめないのではないか。いや、ひょっとするとそんなことはないのか。
というのは、自分が感染していなければいい、感染していないからいい、という風潮があるような気もするからだ。コロナ問題だけでなく、自然災害も原発の被害も、さらには辺野古の埋め立てに象徴される沖縄問題でも同じだ。被害に遭う人は多いが、日本人全体からすれば一部であり、過半数は占めない。
圧倒的多数の被害に遭わなかった人が、社会問題についてどう考えるかというと、被害者の側に身を置いて考えるようにはなっていない気がする。森友問題で自殺した公務員の置かれた悲劇には同情しても、自分の身には起きないと思っている。つまりいまの自分は問題がないから現政権で、そして現在の政治にことさら反対する理由はないのだ。
それ以上に、もっとも近くでは電通への優遇措置から数えれば、検察庁人事、さくら問題、モリカケ問題と、これだけ政権のコネ政治疑惑が続いても、これを、最低でも倫理的に問題ありと異議を唱えない人たちがいる。これもひょっとすると、「そうか権力者に近くなると得をするということがあるのか」と、思う傾向もあるのではないかとすら疑う。
だとすれば、これは長年の“お友達大事”、“仲間優先”政治が生み出した大衆の倫理観の低下の表われなのか。現政権、安倍首相は今回の危機で、その統治能力、政治哲学、そして社会をどういう方向にもっていこうかという大きなビジョンが見えてこないことが明らかになった。
ついでに言えば、驚いたのは今回の豪雨被害があった直後の首相会見で、対策についてひとこと語った首相は、原稿を見ながら話していたのだ。国民が被災して死者も出ているその実態を前に、「大変だな、かわいそうだな」という気持ちがあれば、そんな言葉は自然と出てくるものではないか。この人にはそういう気持ちがないのだろうか。
批判のための批判ではない。これだけひどいことが続き過ぎると、そう言わざるを得ない。しかし、それを暗黙に支持している国民、大衆にも責任がある。おかしいのは政権だけでない。「裸の王様」はやはり大衆だ。
運のいい者と金のある者が生き残る野蛮
問題は起きてもこれに対する解決策については、問題にかかわらなかった幸運な人の意見や気分(意見のないことで為政者に都合のいいように結果として決まることもある)が、多数決の原理で反映されているのではないか。また、問題が起きたとき往々にして乗り切ることができるのは、経済的に裕福なものだ。
こうしてみると、たまたま運がよかった人たちと、金のあるものが生き残っていくことだろうか。歴史を振り返れば、なんとも野蛮な時代の淘汰のされ方と変わりないことがわかり、愕然とする。
ふつうに生活して困難な状況に陥った人、自然災害や今回のコロナ感染など自分の責任以外のことで大変な目に遭った人を支えられるような社会、こういう社会を作ることを民主社会の中で長年人々は目指してきたのではなかったのだろうか。