長い老後とバカンス

 ちかごろ80代の人が珍しくなった。90歳を超える人もちらほらみかける。親戚でも94歳の伯母がいるが、この人はマンションで一人暮らしをしている。人の悪口ばかりいっているのが元気の秘訣のようで、頭と口はまだまだよく回るからたいしたものだ。

「あたしは、老人ホームなんて絶対いやだね」と、よく言っている。団体生活にはなじめないだろうし、若いころから美容師で、一人で美容院を切り盛りしてきた働く女性だったので自立心も人一倍強い。
 おとなしくて静かなお年寄りを期待されるようなホームはまっぴらごめんというわけだ。
 
 確かに日本の老人ホームは、かつてとずいぶん変わったとはいえ、まだまだお年寄りを子ども扱いしているところがある。
「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれて当たり前だと思っている人は多いだろうが、「○○さん」と、名前で呼んでくれと言いたい人もいるはずだ。

 先日ある特別養護老人ホームに行ったら、くだけた人間関係を出そうとしているのか、「~でいいじゃねぇか」といった言葉遣いを男性職員がしていた。耳も遠くなっている人が多いとはいえ、聞いていて気持ちのいいものではなかった。
 まだできて間もないホームで、内装も無垢の木を使ったりして温かみを出そうとしている。しかし、どうもホームの内部の雰囲気は殺風景だ。ホームは入所者にとってはおそらく“終の住処”だ。それは自分のホーム(家)であるはずだ。病院とは違うし、リハビリをするための施設でもない。

「特養」の絶対的な不足を補うように雨後の竹の子のようにいま有料老人ホームができている。こぎれいなこうしたホームですら、豪華かどうかは別にして、“アットホーム”な感じを受けない。
 本気で“ホーム”を演出する力と、それを支える確たる思想がないからだろう。どうやって人生の最後の場所を居心地よく作り上げるのか、高齢者への福祉とはどうあるべきかを考え尽くしているのか、といった疑問が出てしまう。

 

 函館で「旭ヶ丘の家」という老人ホームをつくった、フランス人神父のフィリップ・グロードさんは、「老後はバカンスだ、ホームは老人にとってバカンスを過ごす所です」と宣言し、“大人のホーム”を完成させた。
 昨年のクリスマスの日、グロードさんは85歳で亡くなった。十数年前何度かそこを訪ね神父さんに話をきいた。

 寿命が延びると同時に、多かれ少なかれ障害をもって長い老後を過ごさなくてはいけない。心身ともに衰えていく中で、最後の居場所はどんなところになるのだろうか。

 (参考)「老いはバカンス ホームは休暇村―グロードさんと旭ヶ岡の家」(旬報社)


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