負けるなローラ :池に落ちた犬に石を投げる社会
タレントのローラに同情する。バングラデシュ国籍の父親が詐欺の疑いで逮捕されたことで彼女は「本当に申し訳ありません」と謝罪した。
父親の不始末をなぜ娘が謝る必要があるのだろうか。出来の悪い父親をもったことは彼女のにとって不幸で、彼女はむしろ被害者だ。自分がひどい目に遭っているのに、自分のせいでないことに頭を下げなくてはいけない。そしてそれを当たり前のことのように思っている世間がある。
犯罪者の家族は、なぜ責任を感じる必要があるのだろうか。たとえば、秋葉原の無差別殺人のKの弟は自殺した。弟が兄の人格に人殺しをするまでの悪影響を与えたわけはない。こうした兄を持った弟はむしろ被害者である。それが自殺に追い込まれる。
佐世保の同級生を殺害した少女の父親もまた自殺した。父としての責任と苦しみから逃れられなかったのか。この場合、彼女を一人暮らしさせていたとかいろいろ責任を問われる報道があった。
責任がないわけはない。しかし、殺人を犯すまでのことを予想できただろうか。親の教育責任という点では、世の中虐待を含めてひどい親は腐るほどいる。その子供たちが凶悪な犯罪を犯すとは限らない。
自殺した父親に対して、「責任逃れ」という批判の声が上がった。確かにそうかもしれないが、死に至る苦しみなど顧みられることはない。
近しい人間の罪と自死との関係という点では、STAP細胞研究の笹井芳樹教授の事件も同種だ。責任の重みに耐えられず自殺したのか。彼は自殺に追い込まれるほどひどいことをしたのだろうか。中学生の息子に暴力をつづけ自殺に追いやった父親が逮捕された。自殺してしかるべきはこういう人間だが、こういう人間に限って自殺などしない。
この世には犯罪者の家族は数えきれないほどいる。責任を負う必要もないのに責任を感じ、後ろめたい思いで暮らす人がどれほどいることか。それは運が悪かったということなのか。彼らの多くもまた被害者である。
それを世間は、池に落ちた犬に石を投げつけるような態度にでる。冷たい社会ではないか。