Archive for 11月, 2012

海辺のコンビニ、いじらしい猫

火曜日, 11月 27th, 2012

 ときどき早朝散歩に出る。国道134号をわたって海沿いの遊歩道を江ノ島の方に向かって自転車でゆっくり走る。見晴らし台までだいたい10分。そこで波のあるときは、サーファーたちをしばらく上から眺めている。

  うねりが来ると、ボードを反転させ態勢を整えてパドルをはじめる。やがて波に押されるが、ここでうまく波をつかまえる者と、何が悪いのか波をつかまえられない者に分かれる。うまくいったボードは波とともにスーッと海面を滑っていく。
 不思議なもので、何度見てもこれは飽きない。どれ一つとして同じ波がないからだろう。とはいってもいつまでもそうしているわけにはいかない。来た道を西へ向かって戻る。晴れた日は、真っ白な砂糖をかぶった洋菓子のような富士山が姿を現す。

 漁港の近くまで戻り、ふたたび国道を渡るとコンビニの前に出る。ときどきここになんとなく立ち寄っては野菜ジュースや肉まんなどを買い、新聞各紙の1面の見出しを見る。

 あるとき、店内に入ろうとすると一匹の猫がいる。どこにでもいるような白と黒っぽい毛がまじった小さな猫だ。早朝で人の出入りはまだほとんどない。猫は、両開きのガラス戸の前のちょうど真ん中に座って、だまってガラス越しに店内を見ている。

 その向こうは、猫にとってはきっと食べ物の宝庫に見えるのだろう。中に入りたいのだろうが、そこは礼儀をわきまえているようでただいじらしくじっと座っている。店内の客が出てきても入れ替わりに入ろうとはせずさっと離れてしまった。しばらくみていると、またしばらくして入り口の近くまでやってきた。
 私は別に猫好きではないが、この猫のしぐさには何か同情を誘うようなものがあった。ショーウィンドウ越しにトランペットをずっと眺めているような黒人少年の逸話をふと思い出した。あれはサッチモのことだったろうか。
 その後もコンビニに行くたびに猫を見かけたが、実はもう一匹似たような大きい猫もいることがわかった。年配の女性の店員に二匹のことを聞いてみると、「野良なんです。でも、いついちゃって」と、優しい顔をした。

 その後、二匹はこのコンビニの飼い猫のようになって、いまではすっかりリラックスして暮らしているようだった。しかし、飼い猫として認められたとはいえ相変わらず節度は守ると見えて、けっして中に入ろうとはせず、ガラス戸の前でじっと中を眺めている。
                            

奄美と月明かり、朝崎郁恵ライブ

月曜日, 11月 12th, 2012

 沖縄を太陽にたとえるなら、奄美大島は月だろう。緑濃く潤いのあるこの島には燦々と降り注ぐ太陽の陽射しより月明かりがよく似合う。その奄美大島にひっそりと寄り添っているのが加計呂麻島だ。
 虫を食った枯葉のようだと、この島に縁の深い作家、島尾敏雄がいいあらわしたように、いくつもの入り江と集落がまわりに点在する。その一つ、花富(ケドミ)で生まれ育った島唄の名手、朝崎郁恵さんは、この11日で77歳の誕生日を迎えた。
「島唄をうたって70年になります」という朝崎さんの喜寿の祝いのコンサートが、同日、池上本門寺で開かれた。
 彼女と取材を通して知り合ってからもう10年になるだろうか。この間、都内をはじめ、奄美大島や加計呂麻島などさまざまな場所で、独特の揺らぎをもつ声による島唄を聴いてきた。
 そもそもは、彼女が歌った「十九の春」のルーツを調べることからはじまり聴き始めたのだが、それを機に長年聴いていると、取材にまつわるさまざまなことが思い出され胸が詰まった。
 
 久しぶりに生で聴く彼女の歌の力は年齢に比してまったく衰えなどない。何度も聴いているから、島唄もすっかり耳になじんでいるし、今回は今年5月にリリースされたアルバム「かなしゃ 愛のうた」から、ベース、ギター、ブルースハープ、楽器とのコラボレーションも実に自然にきこえる。
 バンジョーの城田純二、ブルースハープの松田幸一、ベースの天野SHO、そしてピアニスト吉俣良とともに、うたう島唄「浜千鳥」は、斬新だった。母親を思って泣いている浜千鳥。泣いてばかりいてはだめだよと。
 その気持ちが優しく揺らぐ朝崎さんの声にのり、せつないブルーズとして展開していく。ブルースハープの音色がこの情感を増幅させる。島唄はブルーズでありブルーズは島唄でもあると感じさせる瞬間がある。
 
 その一方で三味線のタナカアツシをバックにした「曲がりょ高頂」という唄はいかにも素朴な島唄らしさがある。人目を避けて暗い山のなかで逢う男女の心を描く。むずかしい島唄だとかつて朝崎さんから教えられたが、奄美の深く暗い山を想像しながら聴いてみた。
 奄美の民謡を吉俣が編曲し、彼女が詞をつけた「あはがり」という曲は、「この世は仮の世」といいながら少ない時間の尊さをうたう。これはNHKの番組「新日本風土記」のテーマにもなっている。
  童謡にも挑戦している彼女は、最後に「ふるさと」を披露した。日本人が心に描くふるさとの原風景が加計呂麻島にはある。合唱のように声を張り上げるのでなく、子守唄のようにやさしくうたいかける。
 しんみりと心に響くのはいうまでもないが、さて、自分のふるさとはどこなのだろうか、まだ、ふるさとと呼べるものがあるのだろうか。そんな寂しさが美しさ裏に隠れて心の穴を吹き抜けていった。

琉球独立

火曜日, 11月 6th, 2012

 またしても沖縄で米兵による事件が起きた。11月1日の深夜、今度は酒に酔った若い米兵が民家に侵入しその家の中学生を殴りケガをさせたという住居侵入・傷害事件だ。前回の強姦致傷事件のときもふくめこれだけ基地があることに起因する問題を目の当たりにしながら、驚くべき反応が日本人のなかにある。
 それは、「沖縄の人には気の毒だが、日本の安全保障のために我慢してもらうしかない」という意見だ。国家の安全保障というが、つきつめれば国家を盾にした自分の身の安全のためだろう。
 加えて、こういう意見の人は自分が一番大事だから自分のところに基地を引き受ける気持ちなど毛頭ない。長年にわたって同じ国民として明らかに不利益を被っている人がいるのに、それを是正しようとしないで成り立つ安全保障は、民主国家としておかしいし、第一だれかの痛みの上に自分の安全を確保して気持ちがいいだろうか。
 日本人に不利益な日米地位協定を見直すことはもちろん、基地の縮小を実現しなければ事態は変わらないだろう。

 沖縄ではいま「琉球独立」の動きさえある。先日、龍谷大学の松島泰勝教授が、毎日新聞のインタビューのなかで、独立も現実的な選択として考えざるを得ないと話している。
 パラオ、ツバル、ナウルといった太平洋に浮かぶ小国のように、沖縄よりはるかに規模が小さくても独立している国を例に挙げるなどし、独立は不可能ではないという。

 昨年沖縄で話を聞いた沖縄国際大学野球部監督の安里嗣則さんは、野球をはじめさまざまなスポーツの大会の開催地として沖縄は国際的に大いなる可能性があるという。
 また、これまで返還されてきた基地は再開発によって基地以上の経済効果を生んでいるという実証データもある。つまり、基地がないと経済的にやっていけないなどというのは乱暴な論だということだ。
 松島教授らは10年に「琉球自治共和国連邦独立宣言」を発表、政治・経済学、国際法、民族学、社会学など幅広い分野で組織する琉球独立総合研究学会が来年度の発足を目指しているという。
 その歴史は古い、琉球独立論の現実性を今後探ってみたい。(9月24日毎日新聞参考)