Archive for 7月, 2012

ひとり、海辺のデニーズ

水曜日, 7月 25th, 2012

 アメリカで起きていることが、10年、20年たって日本でも起きる。若いころから聞いてきたこの格言めいた言葉が、かなり本当だということは歳を重ねるとわかる。
 20数年前、私は中部フロリダの大西洋に面した町にいた。スピードウェイで有名なデイトナビーチという町に仕事で通い、住まいはその北隣、オーマンドビーチという町だった。

 海沿いのA1Aという南北に海岸と並行して走る旧道からちょっと入ったあたりにレストラン、デニーズがあった。日本のデニーズとほとんど同じだったが、日本でファミリーレストランと呼ばれる、そのファミリーのほのぼのとした雰囲気は希薄だった。
 近くにあるドクター・ルイス宅に寄宿していた私は、ときどき一人でデニーズに行き食事をした。

 いかにも人工的に開発されたフロリダの町のなかで、アメリカらしいチェーン店のレストランに入り、ひとり食事をしているとなんとも言えない寂寥感が漂う。周りを見回すと、ひとり老人が食事をしていた。
「ああ、日本ではほとんど見られない光景だけど、アメリカでは老人がひとりファミレスへ行くんだ」。そう思ったのをいまでも覚えている。1986年のことだ。

 フロリダはご存じのように、北東部を中心にアメリカ各地からリタイアした人たちが集まる場所としても知られているほど、お年寄りの多い州だ。そういうこともあるだろうが、ファミレスというファミリーで来るようなところにひとりでポツンと座っている姿は少し寂しい。

「いつか日本でもそんな光景を見られるようになるのかな」。そうも思ったものだが、その答えは今の日本のファミレスを見ればわかる。場所によってお年寄りがひとりで来ることは珍しいことではなくなった。

 ひとり暮らしのお年寄りが増えたのだろう。小さな子供連れの歓声のなかでひとり高齢者が食事をするのは居心地が悪いかもしれない。しかし、こういうことは常に両面ある。煩わしさから逃れられるという利点もまたある。家族は決して温かさだけが満ちているわけではない。

 その点については、アメリカ人は割り切っていて、孤独に対する耐性のようなものを持っている。空間的にも広く人の移動も大きいから、離ればなれの親子などいくらでもある。クリスマスの時だけやってきてディナーを共にする。そのくらいでいいのだと。
 孤独と自由は表裏一体で、愛と煩わしさも同じ関係にある。

 土曜日の早朝、わが家の近くにある海辺のデニーズにひとり行ってみた。後ろの席に座る高齢のカップルはどうやら夫婦ではなく、明るく話が弾んでいる。少し離れた所の両親とティーンエイジャーの3人家族は、ろくに会話もなく父親は横を向いて新聞を広げていた。(川井龍介)

風のように過ぎた惜敗の夏~深浦球児

土曜日, 7月 14th, 2012

 外野席の芝生にときおり夏らしい陽射しが雲間から差し込む。心地よい西風が吹く青森市営球場では、その日の第二試合がはじまった。
 ついさきほどまで、そのグラウンドで必死に戦い、そして惜敗した深浦の選手たちは、球場外でひとしきり涙を流し、肩を落とし、うなだれたあと、ふたたび球場へ戻り外野の芝生で第二試合を観戦した。

 目の前で繰り広げられる他校の試合と、さきほどまでの自分たちの熱戦はまるで別のもののように感じていたのではないか。それほどフィールド内の戦いの当事者と、いったん外へ出て見る立場とは違いがある。
 
 一年間、一生懸命練習してきても、試合はあっという間にすぎる。なんだったんだろうと思うくらいだ。スポーツの大会での“勝負”とはそういうものだ。
「最後だったから少しでも長く試合をしたかった」
 深浦のキャプテン、ショートの安田英幸は、赤い目をしてそう言った。
 せっかく力を試せるときがきたのだから、できれば二試合、三試合と重ねていきたいきもちはよくわかる。いい試合をしただけになおさらだったのだろう。

「コールドゲームになるかもしれないですよ」、「相手の浪岡は青森市内で1,2を争ういいチームですから」
 一方、深浦は部員13人、必死に鍛えられたチームだが都市部の有力校と比べれば戦績も選手の体格も見劣りする。戦前の予想は、かなり深浦にとって厳しいものだった。しかし、誰が言ったか「高校野球と人生はやってみないとわからない」。
 長年、彼らを見てきた私としても、そうならないように一泡吹かせてやったらいいのに、と心のなかで応援した。
 
 試合は浪岡が先攻し、すぐに2 死3 塁とチャンスをつくるが、深浦のサイドスローの川村が見事に後続を断った。その後もなんどか前半でピンチを招くが、守備陣が踏ん張る。
 ショート安田が左右へのフットワークと確実なグラブさばきで、なんどもアウトカウントを増やし、ライトの山本純平のスライディングキャッチ、そして手元で変化する球を武器に丁寧に投げ続けた川村の力投。

 一方、攻撃面ではストライクは見逃さずに強振していく積極性で、最終的には浪岡とおなじ5安打を放った。
 均衡が破れたのは5回で、ヒットとバントなどで三塁に走者を進めた浪岡が、この試合唯一の左前長打で走者を返すと、さらに安打で2点目を追加した。だが、ここで川村は崩れることなく、その後守りも堅くこの失点だけにチームは抑えた。
 深浦にとっては、攻撃面で2塁走者をけん制で刺されたことや序盤でのサインミスで走者を進められなかったのが惜しまれるといえば惜しまれる。が、「2対0」のスコアは、ほぼ彼らの力を出し切った結果だった。

 試合時間は1時間24分。たんたんと進んだ試合は、9回まで緊張感のある攻防を繰り返し、大会本部や審判の間からも「いいゲームだった」と誉められた。
「100パーセントに近い力を出したと思う。なにも悔やむことはないよ」
 今年で監督として三回目の夏を経験する竹内俊悦さんは、試合後のミーティングで生徒たちにそう言葉をかけた。いつもは、試合後考え込む様子が見られた竹内さんも、この日はうっすらと笑顔を浮かべた。

 本来なら、この試合は12日に行われる予定だったが、雨のため当日の試合時間後に順延ときまった。こうなると選手も大変だが応援団にも影響がでる。深浦から青森市まで約2時間半。全校生徒74人と先生たちをのせた大型バス2台は、試合開始の10時に十分間に合うように、朝6時には集合して出発しなくてはならない。
 雨模様だが順延という連絡が大会本部からないかぎりとにかく駆けつける。しかし、結局順延となってしまった。明日は来るか来ないか。もう一度来るとなればバス代もかかる。大きな学校で後援会組織が充実していれば予算もあるが、小さな学校では大きな出費だ。が、そこはみんなで盛り上げようとという“英断”によって、再度出直してくることになったのだ。13日、再びバス2台で西津軽から応援団は駆けつけた。
 
 小さな学校だけに、教頭はじめ先生たちも生徒同様声をあげる。ときにファインプレーの場面では、「素敵よ-」といった若い女性教師たちの声も響く。決して多いとはいえない保護者たちも温かい目で見守っている。
 応援席のなかには、かつての卒業生の父母や、その昔、深浦にいた先生の姿も見えた。
 この日の試合は負けたとはいえ、こうした人たちに満足感を与えた。「よくやった」という声がいくつもかかる。
                                   
「腹減ったな、飯食いに行こうか」
 竹内監督の一声で、芝生に座り込んでいた深浦の選手12人とマネジャーは、外野スタンドをあとにした。駐車場でユニフォームをTシャツとショートパンツに着替え、監督、青山部長が運転するワゴン車に分乗、近くの牛丼のすき家へ向かった。
 私も武田副部長の運転する車に乗せてもらい一緒に昼を食べた。生徒たちの前にいくつもの特盛りが運ばれ、それらはあっというまに空になった。

 彼らの二泊三日のこの夏の大会遠征もこれで終わり、深浦までの長い家路につくときがきた。私も東京に帰ることにした。彼らの帰路の途中にある新幹線、新青森駅まで副部長が送ってくれた。
 その車のあとに2台のワゴン車も着いてきた。人気のほとんどない真新しいその駅の近くで下ろしてもらい、ワゴン車を見ると、なかで生徒たちが上を向いて眠っていた。しかし、すぐに監督に声をかけられたのか、車から下りてきてにこやかに顔を向けてきた。

 記念に新青森駅をバックに写真をとって、私が駅に向かって歩き出すと、「ありがとうございます!」だったか、「お疲れさまです!」だったか、野球部独特のとにかく大きく、そしてこの時は明るい声が背中に響いた。少し照れくさかったが、なかなか気持ちのいいものだった。

青森、122対0 の青春

木曜日, 7月 12th, 2012

 今年もまたこの時期青森にやって来た。夏の高校野球、青森大会で県立木造高校深浦校舎という小さな学校の野球部の試合を取材するのが目的だ。
 いまから14年前、深浦校舎はまだ分校ではなく、深浦高校として独立していたが、その野球部は、夏の大会で、名門東奥義塾と対戦し「122対0」という前代未聞のスコアで敗れた。

 なぜこんな結果になったのか。そこから野球部はどう立ち直ったのか、それらを地域の実情などとあわせて、私はノンフィクションとしてまとめた(「122対0の青春:講談社文庫)。

 それ以来、ほぼ毎年のように夏の彼らの奮闘ぶりを観戦してきた。その途中で学校は分校化され存続が危ぶまれほど生徒数は減少、現在は全校生徒数が74人だ。しかし野球部は指導者にも恵まれ、このところ強豪でないかぎり一勝をものにするまでに成長した。
                              

 日本海側、秋田県と接する西津軽の深浦町から、およそ二時間半をかけて、2台のワゴン車を指導の先生自ら運転して、今年は12人の部員たちを大会会場の青森市営球場まで連れてきた。
 この春入部した1年生も含めて、相変わらずここの生徒たちは、別の学校から赴任する先生が驚くほど純朴である。開会式を終えた彼らは、外野席で開幕試合を観戦しに行ったが、他校の野球部が大人数で芝生に腰を下ろしていたのに対して、ほとんどが後ろのフェンスにもたれて立っていた。遠慮していたのだろうか。

 だが、見た目と中身とはずいぶんちがう。素朴で静かで、ときに頼りなげではあるが、どこか芯の強さのようなものがあることを、長年見ていてわかる。それは練習のたまものかもしれないが、都市部の生徒が日頃経験しないような真冬の横殴りの雪のなかの通学や、決して豊とは言えない地域の生活のなかで育まれてきたもののような気がする。

 11日の大会開会式のあと、大会本部で14年前の試合を観戦していたある野球部の元監督と当時の試合についてあれこれ話をした。この試合で青森大会の多くの記録が生まれた。一つあげれば11打数連続安打がある。
 攻めた方もよく攻め続けたが、同様に守る方もよく最後まで守った。
「都市部の生徒だったら、とても最後まで続けなかったと思う。私が監督だったチームでも無理だったと思いますよ」
 元監督は、そう言って眼を細めた。         

Air Force が後ろからツンツン

日曜日, 7月 1st, 2012

 アメリカ建国の象徴のまちフィラデルフィア。週末の夜、レストランやバーが集まっている繁華街をぶらつき、軽い食事をしようとあちこちの店の様子をうかがう。いくつもの店で、大きな液晶のモニターがテレビ番組を放送している。
 シアトルでも同じだった。落ち着いた感じのレストラン、バーでもこのでかいモニターがかなりの音量と共に映像を流している。

 場所はさらにかわって南のフロリダ。庶民的なリゾートホテルのバーでは、モニターが大小4つもあった。ひとつはちょっとしたダイニングテーブルほどだ。ウィンブルドン、メジャーリーグ、ドラマ、そして多くのコマーシャルが同時に目に入る。
 でかい液晶モニターが安くなったからか、にぎやかなのが好みなのか、ちょっと一日の終わりにビールを飲もうと思っているものにとっては、映像も音も勘弁してくれと言うほど鬱陶しい。

 鬱陶しいといえば、ニューヨークのマンハッタンを歩いていると、いきなり耳の後ろで声がしてどきっとする。かつてこのミッドタウンでカバンを盗まれたことがあったので、過敏になっていたのかもしれない。

 振り返ると、Tシャツにスニーカーの男性がイヤホンでなにかを聞き、独り言をブツブツ言いながら歩いている人のように話していた。通話していたのだ。携帯電話でもいきなり耳元で声がしてはっとしたことはあるが、端末を持たずに話せるとなると、さらにどこでもいつでも声を発しているので、聞かされることもまた多くなる。

 場所と時間を選ばず、なんでもできるようになる。便利だが、なんでもものには程度というものがある。フォートローダーデールからロサンゼルスに向かう飛行機のなかでのこと。前に座るシートに液晶モニターが組み込まれていて、機内で映画やゲームができる。操作は画面へのタッチ式だ。

 私の斜め前の赤毛の中年女性が、これでポーカーゲームをしていた。熱中しているようだが、液晶のタッチのポイントがすごく小さいこともあって、白いマニュキアの“ゴージャス”な指では今一つ反応しない。ボールペンを取りだし先っぽで突いたがこれもダメ。

 そのうち苛ついてきたのか、指で力強く何度か押している。当然、前の人のシートは頭のところがそれに合わせて前に動く。これを何度も繰り返している。
「ツンツンと押される前の人は嫌だろうな」と、同情していると、私の後頭部もツンツンと小さな衝撃を感じた。どうやら液晶をタッチしているらしい。

 気に障るので反対に少し押し返してみたが、相手は気がつかないのか、やめる気配はない。眠れないし、あまりつづくようだったら何か言おうかと思って、チラッと後ろを見ると、迷彩服に身を包んだ軍人だった。
 搭乗口で見かけた「Air Force」(空軍)の若者たちの一人だ。しばらくしてこのツンツンは収まったが、Air Forceに後ろから頭をツンツン攻撃されているかと思うと、鬱陶しいことこの上なかった。