Archive for 5月, 2012

沖縄への基地集中はやむを得ないだって?

月曜日, 5月 21st, 2012

アメリカンビレッジ入り口で

 NHKの世論調査によれば、「在日アメリカ軍の専用施設の74%が沖縄に集中している」ことについて、日本全体ではこれを「おかしい」と答えた人が全体の25%で、「どちらかといえばおかしい」という人も加えると68%だったという。
 一方沖縄県内では「おかしい」が57%、「どちらかといえばおかしい」が29%で、あわせて86%を占めたという。

 毎日新聞と琉球新報の合同世論調査では、沖縄県に在日米軍基地の7割以上が集中している現状について日本全体では「不平等だと思う」が33%で、「やむを得ない」が37%になっている。一方沖縄県だけに限ってみると69%、22%となっている。

「不平等だと思うが、やむを得ない」と思っている人はどちらを選んだのかという不確かさがあるが、それにしても沖縄への基地の偏在をおかしいと思わない人、不平等だとは思わない人の割合がこんなに多いのかと驚きを隠せいない。
「おかしいけれど、いまは仕方がない」とか「不平等はわかっているが、他に選択肢がない」という意見はあるだろうが、おかしいとも思わないし不平等だとも思わないことがあるのだろうか。
 こうした意見はどういう価値観に支えられているのか、もう少し掘り下げて知りたいところだ。「国益を考えて」という価値観がメインだとすれば、国益に名を借りた、個人の利益の反映、つまり自分さえよければいいということにならないだろうか。

頂く(いただく)が言えない

金曜日, 5月 18th, 2012

「もらってもらっていいですか?」
 横浜・野毛を三人でぶらり飲み歩いた夜のこと。桜木町から山側に歩いてすぐ。海側のみなとみらいに比べると、古く置いてきぼりを食わされた感のある小さな居酒屋がたちならぶ小路で、店の女の子がチラシを渡すと同時にこう言った。

 この「もらって」というのが実によく登場する。レストランで店の人に「水ってもらっていいですか」とか、なにかを試すように言うときに「やってもらっていいですか」などという。
「お水いただけますか」、「やっていただけますか」と、「いただく」という丁寧語が出てこないのだ。

 おかしいのは、やたらと使われる「~させていただきます」のときはちゃんと「いただく」が出てくることだ。どうやら「~いただく」は「させて」とセットでしか使われないようだ。
 冒頭の表現についていえば、「どうぞ、お持ちください」、あるいは「どうぞ」でいいだろう。それを少し丁寧に言おうとしたので「もっていっていただく」が「もらってもらって~」となったのか。 

懐かしのチョーロンギー通り

木曜日, 5月 17th, 2012

 この一年ほど、直木賞作家佐々木譲の初期の作品を読んだ。「エトロフ発緊急電」といい「ストックホルムの密使」といい、第二次大戦を背景に日本人や日系人が国際舞台でダイナミックに活躍する小説は、構成といいテーマといい実に見事だ。

 この人の作品は警察ものから読み始めたが、“かきっぷり”がいい。人格が文章表現にあらわれているようだ。といっても本人のことは知らないのだが、きっと好人物ではないだろうか。
 つい最近「ベルリン飛行指令」(昭和63年、新潮社)を読みはじめ、最初は物語の設定に興味をもてなかったが、描かれる登場人物にいつしか引き込まれた。個人の自由や意志など全体への奉仕のなかに埋没する時代にあっても自分のスタイルを貫こうとする人間が主人公だ。
 
 そのなかで物語の本筋とは別に懐かしい地名に出くわした。「チョーリンギー通り」である。インドの北東部の大都市、カルカッタの中心を走る有名な通りのことだ。カタカナではチョーロンギーとも書く。
 日本からベルリンまで大戦中に戦闘機、零戦を飛ばすという計画があった。英軍などの攻撃をかわしながら、インド、イラク、トルコを抜けてベルリンへ向かう。
 そのインドを描いた中にこの名が出てくる。

 インドでジャーナリストを装いながら諜報活動をする柴田という陸軍大尉のくだりである。

                      ※         ※
 柴田亮二郎が列車でカルカッタに着いたのは、十月二十四日の夕刻のことである。
 柴田はすぐにチョーリンギー通りにあるタージ・キャピタル・ホテルに投宿した。

                         ※                  ※
 今から33年前の1979年2月。私は友人と二人でバンコク経由でカルカッタ(いまはコルカタという表記が一般らしい)に入り、そこからおよそ一ヵ月をかけてぐるりと、インドを大まかに一周した。
 デリー、ジャイプール、ボンベイ(ムンバイ)、ゴア、バンガロール、マドラス、そしてカルカッタ。これが初の海外旅行でもあり、衝撃的な旅だった。

 なかでもカルカッタの町だ。町に人と牛とリキシャとが入り乱れてうごめき、路上では生死のわからないような人の横たわる姿もあった。
 夜、停電で暗くなった雑踏を歩いた。電気がつけば怪しい祭りの夜店のような明かりが、人々を照らし出す。二人でレストランに入った。ろうそくをともしたボーイがわれわれをテーブルへと案内してくれた。
 
 そのインドはいまとてつもなく変わったようだ。チョーリンギー通りが懐かしい。
 

高度な認知症

木曜日, 5月 17th, 2012

 病院関係者との議論のなかで、「高度認知症は終末期なのか」という話題が出た。認知症がかなり進んでいくと、たとえば食べ物を食べ物と認識できなくなったりするらしい。また、肺炎を起こしやすくなったりするという。
 しかし、直接認知症そのものがガンなどと同じように死に至る病となるのとはわけが違う。
 ところで終末期とは、余命がある程度はっきりした状態、つまり改善は見込まれずに近い将来死に至ることを指す。したがって高度な認知症=終末期なら、認知症がひどい場合はあと少しで死に至ることになる。 
 問題はそこからさきで、高度な認証の患者をどう扱うかということだ。人権の問題もあるだろう。少しみんなで勉強しようということになった。
 

誤った「理解」

木曜日, 5月 17th, 2012

 人はなかなかわかり合えない。人間は歳をとってもあまり進歩しない。ちかごろ常々そう思う。

 だから、ある本のなかで紹介されていた哲学者ヘーゲル(1770~1831)の言葉に出合ったときは“深い”と膝をたたいた。
 ヘーゲルの言葉といえば、「理性的なものは現実的である。現実的なものは理性的である」などが有名だが、こんな意味深なことも言っていたのだ。
 曰く、
「わたしのすべての弟子のうちで、たったひとりだけがわたしを理解した。そして、そのひとりは、わたしを間違って理解した」

 間違った理解も理解のうちなのか。わかるとはなんなのだろう。

 

なんでも“個人情報”

木曜日, 5月 17th, 2012

 知人の働く女性があるとき携帯をなくした。さっきまでいた喫茶店で落としたのかもしれないと思い電話をしたが届けは出ていないという。
 都心にあるチェーン店ではないが3,40人は入れる大人がよくつかう喫茶店だ。ほかを探してもなかったので、もう一度確かめてみようと思い、彼女は喫茶店まで足を運びそこで働く若者に事情を話し、こう頼んだ。

「もし、今後みつかったら連絡先をいいますから、連絡してもらえますか」。
 すると、その若者は「いやいやそんなこといわれても困ります、個人情報を教えられても・・・」と、半ば狼狽したという。これにはなんだか釈然としない気持ちながら、彼女は仕方なく帰ってきたという。
 個人情報には違いないけれど、こういうのを勘違いというのだろう。 

非道なメール

木曜日, 5月 17th, 2012

 関越自動車道で起きた高速バス事故の続報として、こんなニュースがあった。ウェブサイトでバスのチケットを売った楽天トラベルが自己翌日に被害者やその家族らに「ご乗車はいかがでございましたか?」などとアンケートの電子メールを送っていた
 こうしたメールは出発日の翌々日に自動的に送信されるシステムになっていて、楽天側は関係者に不快な思いをさせたことを陳謝した。
 所詮機械のやることと思ってしまえばそれまでだが、失礼と言えばあまりに失礼な話だ。
 似たような例で、アマゾンからのメールで「おすすめの本があります」と、私のところにときどきリストが送られてくる。過去にチェックしたり購入した記録から、自動的に機械が判断しておくってくるのだが、あるとき私が書いた本がそのリストのなかにあった。
 自分の書籍についてのレビューなどを見るときがあるので、これも自動的に送ってきたのだろう。“いい本がありますよ”と言われて、見たら自分のものだった。「なめてんのか」と言いたくなるのはまだ相手に血が通っていると思ったりするからか。
 どんなものにも利点と欠点がある。便利なものにはその裏返しがある。人間ができることを機械に代替させるのはある程度いいが、人間味を出そうとすると妙なことになるのかもしれない。

バス事故と違法状態放置

木曜日, 5月 17th, 2012

 群馬県の関越自動車道の高速ツアーバス事故で、運転手が自動車運転過失致死傷容疑で逮捕された。運転手とバス会社が日雇い契約だったなどさまざまな法的な問題が出てきた。

 しかし、なにより長時間運転などで安全運転が確保できないところが最重要であることは乗客の安全を考えればいうまでもない。であれば、以前よりコスト削減や過当競争によって安全性への疑問が投げかけれてきたのにもかかわらずそれを放置してきた責任は行政や政治にないのか。
 広島県福山市のホテル火災も同様である。再三にわたって消防から防災面での不備を指摘されてきたのに改善されず、これもそのまま放置されてきた。
 京都府亀岡市で無免許運転の車が引き起こした死亡事故でも、もっと事前にこうした事故を防ぐ手立てがとれなかったかという議論がある。「走る凶器」といわれ一歩間違えれば人の命を奪う車の運転について、免許取得時への教育や、確信犯的な無免許運転を厳罰に処する法的整備などで抑止効果を持たせることはできなかったのか。
 いくら法律がよくできていてもそれを守らなくても特段罰則がなければ、違法状態は放置されるだけだ。特に労働関係の法律は専門家にいわせれば、とてもよく整っているが、その通り運用されていないのが現実だ。
 いまだに過労死や過労自殺などがなくならないのは、労働基準法などが守られていなくても、見過ごされているからである。また人を雇用すれば、事業所は自らが半分を負担する社会保険に加入する義務があるが、そんなことは守られていないところは山ほどある。自営業者と同様国民健康保険に入っている人はたくさんいる。
 違法状態を処罰をせずに放置しておいて、問題が起きたときにその違法行為者だけを責めてもなにもならない。