Author Archive

汚れた心と国益

土曜日, 8月 25th, 2012

 太平洋戦が終わる前後、戦争の混乱に輪をかけてさまざまな悲劇が起きた。敵に殺されるならと自害した人もいる。与論島から満州に入植した一団のなかでは、ソ連の侵攻でパニックになったある若者が同郷の子女を自ら手にかけてしまった。

 いままで信じていたものが180度変わってしまったこともあり、社会も人々の心も大きく動揺する。それでも現実を突きつけられれば前に進むしかないが、終戦を遠く日本を離れて迎えた人たちは情報不足や置かれた立場(移民など)によって日本にいる日本人とはまた違った複雑さがあったろう。

 いま公開されている映画「汚れた心」は、ブラジルに移民した日本人のあるコミュニティーのなかの悲劇を描いている。終戦を迎えてもなお日本が負けるはずがないと狂信的に思い込む“勝ち組”と呼ばれたグループが、負けを自覚する“負け組”を国賊として攻撃する。

 本当は心のどこかでおかしいと感じつつも、皇国の不敗神話に縛られて狂気に走る主人公。それを苦しみつつ見守るしかない妻。日本人同士のなかでまた血が流れる。実際に戦後のブラジル日本人移民社会で数多くの事件があったという。

 情報から隔離され、事実に目をそらし神話を妄信する。それは不安の裏返しでもあるのだが、そこにつけ込むように訴えるカリスマ的な人物による扇動がある。
 不安なときの人の心は弱く、こうした扇動になびいていく。そして、冷静に対応するような言動を弱虫となじり、同胞の中に敵を作っていく。

 いまの日本でも、似たようなムードはなにかことあるごとに頭をもたげる。個人的な国家観の表出にすぎないものを“国益”などと安易に呼び、「わが国の国益とはなにかを考えないといけない」などという言葉は要注意だ。

 先の戦争はもちろんのこと、原発計画も沖縄の基地も国益の名の下であったことだけいえば十分だろう。そんなことを考えさせられた映画だった。  

ただの酒屋よ!

金曜日, 8月 17th, 2012

 ちょっと少し黙っていてくれないか―。オリンピックの男子サッカーの試合を見ていて、実況中継があまりに能弁なので、思わず口に出してしまった。サッカーに限らず、とにかく競技の最中にアナウンサーは、ひっきりなしに話している。

 競技の内容を追って、ときどき選手のバックグランドなどを織り込むのならいいが、中継を盛り上げたいのか、感情的な言葉や精神論をゲームの進行中にあれこれ言われると鬱陶しい。

「下を向いているときではありません」とか「ようやく見えてきたメダルに向かって・・・」といったようなことを延々と話している。 

 テレビをはじめマスコミの宿命なのか、とにかく盛り上げようという意図が強すぎはしないか。仕掛けたい気持ちはわかるが、みんながほんとうはそれほど感動したり盛り上がっていないのに、過剰に盛りたてるのは痛々しい。アンデルセン童話の「裸の王様」のようだ。ほとんどの人が嘘だとわかっていても煽動者にうまくのせられ、真実を口に出せない。

 そんな作られた感動の嘘くささに見事に冷や水を浴びせた例を最近テレビで見て、痛快だった。演出=フィクションを砕く事実=ノンフィクションの心地よさといってもいい。それはあるニュース番組で取り上げられた宅配酒屋チェーンの「カクヤス」についてレポートのなかにあった。

 24時間、缶ビール一本から配達するというカクヤスの店舗なかで、ゲイバーが多く深夜までににぎわう新宿二丁目の実情を番組は伝えていた。配達の若い男性がちょっとバーでからかわれたりするといったお話やバーの“ママ”のコメントも紹介されていて、いかにこの地域でカクヤスが重宝されているかがわかった。

 そしてレポートの最後で、別のゲイバーのママを訪ねたレポーターがママにマイクを向けた。話題の酒屋チェーンがなるほど人気がある、ということを再度視聴者に知らせ、盛り上げて番組をしめようとして尋ねたのだろう。

「あなたにとって、カクヤスさんとはどんな存在ですか」。確かそんなことをきいた。するとママである彼は、一瞬「ン?」という感じで間を置いてちょっとぶっきらぼうにこう言った。
「ただの酒屋よ」

 これには笑った。だからこの手のママはいい。こちらの勝手な想像だが、いろいろな偏見にさらされても自分のスタイルを通してきた者が持つ、体制に媚びない率直さがあるからこういう言い方ができるのだろう。
 あえて尋ねる側の期待をはずしてシニカルに構えることの“受けねらい”もあるだろうが、相手に迎合して本意でもない答えをしない、本音の気持ちよさがある。

 レポーターとしては「(カクヤスは)水や空気と同じ、なくてはならない存在よ!」とでも、期待したのだろうか。でも冷静に考えれば、互いに商売。「ただの酒屋」である。この言葉、「うちもただのゲイバー」という、奥に自負を秘めた謙虚な姿勢もうかがい知るからまたいいのだ。(川井龍介)
 

三河島から行旅死亡人へ

木曜日, 8月 2nd, 2012

 月に一度、友人であるジャーナリストのH氏とぶらり飲み歩いている。この2人の飲み会にはちょっとしたコンセプトがあって、これまで行ったことがないようなところを事前情報を得ずに訪ね、行き当たりばったりで2,3件暖簾をくぐるということだ。
 街歩きをかねて、「ここのぞいてみる?」といった感じで店とは初対面の新鮮さを味わう。ひとりでは間が持てないような店も2人ならなんとかなるし、常連さんの、品定めをするような視線にも堪えられる。

 これまで門前仲町を皮切りに、人形町、戸越銀座、合羽橋、野方、赤羽、野毛(横浜)をぶらり飲み歩き、つい最近は三河島を“攻略”してみた。常磐線で日暮里から一つ目。私もH氏も初めて下車する駅だった。
 あとでわかったことだったが、ここには古いコリアンコミュニティーがあって、路地に入っていくと、下町らしい総菜や食料品を扱う小さな商店にまじって、「焼き肉」がちらほら目に入る。

 これらとは別で、「やきとん」と書かれた暖簾のかかる見るからに時代を感じさせる店に入った。煙がしみこんだような煤けた店内はカウンターのみ。仕事帰りの勤め人風の客もいるが、みたとこ近所のなじみ客がほとんどのようだ。風呂上がりでやってきたような中年カップルもいる。

 焼酎の一升瓶が水槽のなかで冷やされている。チューハイを頼むと、ちょっとむずかしい表情の老年の店主がそのビンを取り上げて、氷の入らないがレモンのエキス?を垂らしたジョッキ風のグラスを差し出す。
 1本70円からの焼き物数種と冷や奴、トマトを頼む。夜7時ごろ。すでに席はいっぱい。2人で2500円ほどを払い外へ出た。「いやー、正解だったね」と顔を見合わせ、再びぶらり歩き始める。

 小腹がすいたので小さな中華料理屋へ入る。まだ始めて間もないという中国人経営の店で酢豚やチャーハンを食べ、その後は「女性ひとりでもどうぞ」などと書かれたスナックのようなところでカラオケに興じた。

 そうしているうちに店内の常連さんと会話がはじまり、三河島の鉄道事故に話が及んだ。三河島といえば鉄道事故という記憶はあったが、改めて調べてみると大惨事だったと教えられた。いわゆる三河島事故(みかわしまじこ)とは、1962年(昭和37年)5月3日夜、当時の国鉄常磐線三河島駅構内で発生した多重衝突事故で、死者は160人も。

 犠牲者を悼んで近くの寺には聖観音像なるものが建てられた。また、この犠牲者のなかにたった一人だけ身元不明の男性の遺体があり、駅近くの寺に行旅死亡人として葬られたそうだ。なにかの用事で関係する列車に乗っていたのだろう。

 ところでこの 行旅死亡人とは、身元不明で遺体の引き取り手もない死者のことをいう。昔なら旅の途中で行き倒れて身元が判明しないような人だ。この行旅死亡人が日本では年間で1000人ほどいるとどこかで読んだが、不幸にして亡くなるだけでなく、その身元もわからず葬られるというのは、人の最期としてなんとも寂しい。

 だがその一方で、家出人の捜索願は毎年10万件ほどあるという。これらがすべて永遠の行方不明者ではないだろうが、かなりの数の人間が、自らの意志で過去を捨てていると推測できる。身元が判明されることを拒否しているともいえる。
 とはいっても最後まで身近な人に身元を知られることなく、あるいは知らせることなくこの世を去っていくのはむずかしいかもしれない。いずれにしても自分の意志で過去を捨てたのであれば、知られずに逝くことも必ずしも不本意ではないのだろう。

 問題は、そんなつもりはなくても、名無しのままに葬られるケースだ。三河島へ行った翌週都内は猛暑となった。私は炎天下、品川界隈を歩いていて、あるホームレスと見られる人に出会い衝撃を受けた。

 男性と思われるその人は、もはや着ているものも服の体をなさない、真っ黒いボロ雑巾のようなものをまとい顔も見えなかった。動いていなければ人とは思わなかったかもしれない。
 この暑さのなかをどうやりすごすのか。ふと“行旅死亡人”という言葉が頭に浮かんだ。(川井龍介)

ひとり、海辺のデニーズ

水曜日, 7月 25th, 2012

 アメリカで起きていることが、10年、20年たって日本でも起きる。若いころから聞いてきたこの格言めいた言葉が、かなり本当だということは歳を重ねるとわかる。
 20数年前、私は中部フロリダの大西洋に面した町にいた。スピードウェイで有名なデイトナビーチという町に仕事で通い、住まいはその北隣、オーマンドビーチという町だった。

 海沿いのA1Aという南北に海岸と並行して走る旧道からちょっと入ったあたりにレストラン、デニーズがあった。日本のデニーズとほとんど同じだったが、日本でファミリーレストランと呼ばれる、そのファミリーのほのぼのとした雰囲気は希薄だった。
 近くにあるドクター・ルイス宅に寄宿していた私は、ときどき一人でデニーズに行き食事をした。

 いかにも人工的に開発されたフロリダの町のなかで、アメリカらしいチェーン店のレストランに入り、ひとり食事をしているとなんとも言えない寂寥感が漂う。周りを見回すと、ひとり老人が食事をしていた。
「ああ、日本ではほとんど見られない光景だけど、アメリカでは老人がひとりファミレスへ行くんだ」。そう思ったのをいまでも覚えている。1986年のことだ。

 フロリダはご存じのように、北東部を中心にアメリカ各地からリタイアした人たちが集まる場所としても知られているほど、お年寄りの多い州だ。そういうこともあるだろうが、ファミレスというファミリーで来るようなところにひとりでポツンと座っている姿は少し寂しい。

「いつか日本でもそんな光景を見られるようになるのかな」。そうも思ったものだが、その答えは今の日本のファミレスを見ればわかる。場所によってお年寄りがひとりで来ることは珍しいことではなくなった。

 ひとり暮らしのお年寄りが増えたのだろう。小さな子供連れの歓声のなかでひとり高齢者が食事をするのは居心地が悪いかもしれない。しかし、こういうことは常に両面ある。煩わしさから逃れられるという利点もまたある。家族は決して温かさだけが満ちているわけではない。

 その点については、アメリカ人は割り切っていて、孤独に対する耐性のようなものを持っている。空間的にも広く人の移動も大きいから、離ればなれの親子などいくらでもある。クリスマスの時だけやってきてディナーを共にする。そのくらいでいいのだと。
 孤独と自由は表裏一体で、愛と煩わしさも同じ関係にある。

 土曜日の早朝、わが家の近くにある海辺のデニーズにひとり行ってみた。後ろの席に座る高齢のカップルはどうやら夫婦ではなく、明るく話が弾んでいる。少し離れた所の両親とティーンエイジャーの3人家族は、ろくに会話もなく父親は横を向いて新聞を広げていた。(川井龍介)

風のように過ぎた惜敗の夏~深浦球児

土曜日, 7月 14th, 2012

 外野席の芝生にときおり夏らしい陽射しが雲間から差し込む。心地よい西風が吹く青森市営球場では、その日の第二試合がはじまった。
 ついさきほどまで、そのグラウンドで必死に戦い、そして惜敗した深浦の選手たちは、球場外でひとしきり涙を流し、肩を落とし、うなだれたあと、ふたたび球場へ戻り外野の芝生で第二試合を観戦した。

 目の前で繰り広げられる他校の試合と、さきほどまでの自分たちの熱戦はまるで別のもののように感じていたのではないか。それほどフィールド内の戦いの当事者と、いったん外へ出て見る立場とは違いがある。
 
 一年間、一生懸命練習してきても、試合はあっという間にすぎる。なんだったんだろうと思うくらいだ。スポーツの大会での“勝負”とはそういうものだ。
「最後だったから少しでも長く試合をしたかった」
 深浦のキャプテン、ショートの安田英幸は、赤い目をしてそう言った。
 せっかく力を試せるときがきたのだから、できれば二試合、三試合と重ねていきたいきもちはよくわかる。いい試合をしただけになおさらだったのだろう。

「コールドゲームになるかもしれないですよ」、「相手の浪岡は青森市内で1,2を争ういいチームですから」
 一方、深浦は部員13人、必死に鍛えられたチームだが都市部の有力校と比べれば戦績も選手の体格も見劣りする。戦前の予想は、かなり深浦にとって厳しいものだった。しかし、誰が言ったか「高校野球と人生はやってみないとわからない」。
 長年、彼らを見てきた私としても、そうならないように一泡吹かせてやったらいいのに、と心のなかで応援した。
 
 試合は浪岡が先攻し、すぐに2 死3 塁とチャンスをつくるが、深浦のサイドスローの川村が見事に後続を断った。その後もなんどか前半でピンチを招くが、守備陣が踏ん張る。
 ショート安田が左右へのフットワークと確実なグラブさばきで、なんどもアウトカウントを増やし、ライトの山本純平のスライディングキャッチ、そして手元で変化する球を武器に丁寧に投げ続けた川村の力投。

 一方、攻撃面ではストライクは見逃さずに強振していく積極性で、最終的には浪岡とおなじ5安打を放った。
 均衡が破れたのは5回で、ヒットとバントなどで三塁に走者を進めた浪岡が、この試合唯一の左前長打で走者を返すと、さらに安打で2点目を追加した。だが、ここで川村は崩れることなく、その後守りも堅くこの失点だけにチームは抑えた。
 深浦にとっては、攻撃面で2塁走者をけん制で刺されたことや序盤でのサインミスで走者を進められなかったのが惜しまれるといえば惜しまれる。が、「2対0」のスコアは、ほぼ彼らの力を出し切った結果だった。

 試合時間は1時間24分。たんたんと進んだ試合は、9回まで緊張感のある攻防を繰り返し、大会本部や審判の間からも「いいゲームだった」と誉められた。
「100パーセントに近い力を出したと思う。なにも悔やむことはないよ」
 今年で監督として三回目の夏を経験する竹内俊悦さんは、試合後のミーティングで生徒たちにそう言葉をかけた。いつもは、試合後考え込む様子が見られた竹内さんも、この日はうっすらと笑顔を浮かべた。

 本来なら、この試合は12日に行われる予定だったが、雨のため当日の試合時間後に順延ときまった。こうなると選手も大変だが応援団にも影響がでる。深浦から青森市まで約2時間半。全校生徒74人と先生たちをのせた大型バス2台は、試合開始の10時に十分間に合うように、朝6時には集合して出発しなくてはならない。
 雨模様だが順延という連絡が大会本部からないかぎりとにかく駆けつける。しかし、結局順延となってしまった。明日は来るか来ないか。もう一度来るとなればバス代もかかる。大きな学校で後援会組織が充実していれば予算もあるが、小さな学校では大きな出費だ。が、そこはみんなで盛り上げようとという“英断”によって、再度出直してくることになったのだ。13日、再びバス2台で西津軽から応援団は駆けつけた。
 
 小さな学校だけに、教頭はじめ先生たちも生徒同様声をあげる。ときにファインプレーの場面では、「素敵よ-」といった若い女性教師たちの声も響く。決して多いとはいえない保護者たちも温かい目で見守っている。
 応援席のなかには、かつての卒業生の父母や、その昔、深浦にいた先生の姿も見えた。
 この日の試合は負けたとはいえ、こうした人たちに満足感を与えた。「よくやった」という声がいくつもかかる。
                                   
「腹減ったな、飯食いに行こうか」
 竹内監督の一声で、芝生に座り込んでいた深浦の選手12人とマネジャーは、外野スタンドをあとにした。駐車場でユニフォームをTシャツとショートパンツに着替え、監督、青山部長が運転するワゴン車に分乗、近くの牛丼のすき家へ向かった。
 私も武田副部長の運転する車に乗せてもらい一緒に昼を食べた。生徒たちの前にいくつもの特盛りが運ばれ、それらはあっというまに空になった。

 彼らの二泊三日のこの夏の大会遠征もこれで終わり、深浦までの長い家路につくときがきた。私も東京に帰ることにした。彼らの帰路の途中にある新幹線、新青森駅まで副部長が送ってくれた。
 その車のあとに2台のワゴン車も着いてきた。人気のほとんどない真新しいその駅の近くで下ろしてもらい、ワゴン車を見ると、なかで生徒たちが上を向いて眠っていた。しかし、すぐに監督に声をかけられたのか、車から下りてきてにこやかに顔を向けてきた。

 記念に新青森駅をバックに写真をとって、私が駅に向かって歩き出すと、「ありがとうございます!」だったか、「お疲れさまです!」だったか、野球部独特のとにかく大きく、そしてこの時は明るい声が背中に響いた。少し照れくさかったが、なかなか気持ちのいいものだった。

青森、122対0 の青春

木曜日, 7月 12th, 2012

 今年もまたこの時期青森にやって来た。夏の高校野球、青森大会で県立木造高校深浦校舎という小さな学校の野球部の試合を取材するのが目的だ。
 いまから14年前、深浦校舎はまだ分校ではなく、深浦高校として独立していたが、その野球部は、夏の大会で、名門東奥義塾と対戦し「122対0」という前代未聞のスコアで敗れた。

 なぜこんな結果になったのか。そこから野球部はどう立ち直ったのか、それらを地域の実情などとあわせて、私はノンフィクションとしてまとめた(「122対0の青春:講談社文庫)。

 それ以来、ほぼ毎年のように夏の彼らの奮闘ぶりを観戦してきた。その途中で学校は分校化され存続が危ぶまれほど生徒数は減少、現在は全校生徒数が74人だ。しかし野球部は指導者にも恵まれ、このところ強豪でないかぎり一勝をものにするまでに成長した。
                              

 日本海側、秋田県と接する西津軽の深浦町から、およそ二時間半をかけて、2台のワゴン車を指導の先生自ら運転して、今年は12人の部員たちを大会会場の青森市営球場まで連れてきた。
 この春入部した1年生も含めて、相変わらずここの生徒たちは、別の学校から赴任する先生が驚くほど純朴である。開会式を終えた彼らは、外野席で開幕試合を観戦しに行ったが、他校の野球部が大人数で芝生に腰を下ろしていたのに対して、ほとんどが後ろのフェンスにもたれて立っていた。遠慮していたのだろうか。

 だが、見た目と中身とはずいぶんちがう。素朴で静かで、ときに頼りなげではあるが、どこか芯の強さのようなものがあることを、長年見ていてわかる。それは練習のたまものかもしれないが、都市部の生徒が日頃経験しないような真冬の横殴りの雪のなかの通学や、決して豊とは言えない地域の生活のなかで育まれてきたもののような気がする。

 11日の大会開会式のあと、大会本部で14年前の試合を観戦していたある野球部の元監督と当時の試合についてあれこれ話をした。この試合で青森大会の多くの記録が生まれた。一つあげれば11打数連続安打がある。
 攻めた方もよく攻め続けたが、同様に守る方もよく最後まで守った。
「都市部の生徒だったら、とても最後まで続けなかったと思う。私が監督だったチームでも無理だったと思いますよ」
 元監督は、そう言って眼を細めた。         

Air Force が後ろからツンツン

日曜日, 7月 1st, 2012

 アメリカ建国の象徴のまちフィラデルフィア。週末の夜、レストランやバーが集まっている繁華街をぶらつき、軽い食事をしようとあちこちの店の様子をうかがう。いくつもの店で、大きな液晶のモニターがテレビ番組を放送している。
 シアトルでも同じだった。落ち着いた感じのレストラン、バーでもこのでかいモニターがかなりの音量と共に映像を流している。

 場所はさらにかわって南のフロリダ。庶民的なリゾートホテルのバーでは、モニターが大小4つもあった。ひとつはちょっとしたダイニングテーブルほどだ。ウィンブルドン、メジャーリーグ、ドラマ、そして多くのコマーシャルが同時に目に入る。
 でかい液晶モニターが安くなったからか、にぎやかなのが好みなのか、ちょっと一日の終わりにビールを飲もうと思っているものにとっては、映像も音も勘弁してくれと言うほど鬱陶しい。

 鬱陶しいといえば、ニューヨークのマンハッタンを歩いていると、いきなり耳の後ろで声がしてどきっとする。かつてこのミッドタウンでカバンを盗まれたことがあったので、過敏になっていたのかもしれない。

 振り返ると、Tシャツにスニーカーの男性がイヤホンでなにかを聞き、独り言をブツブツ言いながら歩いている人のように話していた。通話していたのだ。携帯電話でもいきなり耳元で声がしてはっとしたことはあるが、端末を持たずに話せるとなると、さらにどこでもいつでも声を発しているので、聞かされることもまた多くなる。

 場所と時間を選ばず、なんでもできるようになる。便利だが、なんでもものには程度というものがある。フォートローダーデールからロサンゼルスに向かう飛行機のなかでのこと。前に座るシートに液晶モニターが組み込まれていて、機内で映画やゲームができる。操作は画面へのタッチ式だ。

 私の斜め前の赤毛の中年女性が、これでポーカーゲームをしていた。熱中しているようだが、液晶のタッチのポイントがすごく小さいこともあって、白いマニュキアの“ゴージャス”な指では今一つ反応しない。ボールペンを取りだし先っぽで突いたがこれもダメ。

 そのうち苛ついてきたのか、指で力強く何度か押している。当然、前の人のシートは頭のところがそれに合わせて前に動く。これを何度も繰り返している。
「ツンツンと押される前の人は嫌だろうな」と、同情していると、私の後頭部もツンツンと小さな衝撃を感じた。どうやら液晶をタッチしているらしい。

 気に障るので反対に少し押し返してみたが、相手は気がつかないのか、やめる気配はない。眠れないし、あまりつづくようだったら何か言おうかと思って、チラッと後ろを見ると、迷彩服に身を包んだ軍人だった。
 搭乗口で見かけた「Air Force」(空軍)の若者たちの一人だ。しばらくしてこのツンツンは収まったが、Air Forceに後ろから頭をツンツン攻撃されているかと思うと、鬱陶しいことこの上なかった。

時計台とNo-No Boy

木曜日, 6月 21st, 2012

 最初にその時計台を見たのは1986年の夏だった。以来、シアトルの街を訪れるたびにその塔を目にするとなぜかほっとする。King Street Station という駅舎の上に建てられたこの街のシンボルは、1906年以来周囲が変わろうと孤高の存在を示してきた。

 時計台の東には、戦前は日系移民がつくりあげた日本人町が賑わいをみせた。が、それも昔のこと。戦後は日本人町は姿を消し、近くにはInternational District と呼ばれるようになった、中華街や日本食のスーパー「Uwajimaya」が東洋的な雰囲気の一画を形成している。
 この時計台から歩いて数分、坂道を登ったところに「Panama Hotel」というかつて日本人が経営した古いホテルがある。一階がカフェになっているのだが、ここにはずいぶん前からシアトルでの日系移民の足跡を知る、写真やかつての移民の所持品などがなどが展示されている。

 このホテルは、昨年、日本でも翻訳が出版された小説「Hotel on the Corner of Bitter and Sweet」を象徴する場所になったことで、いまではさまざまな人が訪れるようになったようだ。日本では「あの日、パナマホテルで」と題したストーリーは、太平洋戦争を挟んでの、日系アメリカ人の少女と中国系アメリカ人の少年との切ない恋の行方を描いている。

 カフェに入ると、これまで何度か話をしたことがある白人女性のオーナーが、「ロジャー・シモムラが来ているわよ」と、ひとりぽつんとノートPCに背を向けている彼のところに案内してくれた。日系2世の画家で、大学でも教鞭をとった有名人である彼は、日系人としての立場から作品を発表し、発言をしている。
 私は、日系2世としてたった一冊の小説を残したシアトル生まれのジョン・オカダと彼の作品「No-No Boy」についてこの10年くらい調べていることを話した。

 ジョンの兄弟であるフランク・オカダと親しかった彼は、興味深く私の話を聞いてくれて、「ジョンは非常にミステリアスだ」と静かに言った。40代で亡くなったジョンのことを知る人がいまはもうなく、別れ際に「何かわかったことがあったら連絡しますよ」と、私の名刺を受け取ってくれた。

 一部実話を元にしたと思われる小説、「No-No Boy」の中心舞台は、時計台のすぐ近く、かつての日本人町周辺だった。この町を彷徨いながら主人公のイチローは、「日系人である自分は、いったい何者なのだと」と、心の叫びを繰り返す。私は何者で、どう生きるべきか。イチローの問いはいつの時代の若者も抱える普遍的な苦悩でもあった。

 いまはもう日系2世と言われる人がほとんどいなくなった。歴史の証人が消えていく。訊けるものならあの時計台に訊いてみたいものだ。

写真結婚とシアトルの眠れぬ夜

火曜日, 6月 19th, 2012

 シアトルからフェリーで40分ほど、穏やかな内海を走りベインブリッジ・アイランド(Bainbridge Island)に到着する。出迎えてくれた竹村義明さんの車に乗って、日系人ゆかりの地を案内してもらい、その後、彼が集めた日系移民一世などに関する私設の資料館を見せてもらった。 
 竹村さんは1956年に西本願寺が海外に布教のために送った「開教使」として渡米、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンなどで、日本から移民した人たちや日系人と関わってきた。水辺に建つ高台の自宅は、西を向き、その遙か向こうは日本へとつづくという。(★写真)周囲からは鳥のさえずる声くらいしか聞こえない。

 さまざまな資料のなかかに明治、大正時代に渡米してきた日本人が携えていた「日本帝国海外旅券」があった。当時のパスポートである。2枚の旅券はある夫婦のものであり、その発行の日付から最初に夫が渡米し、つづいて妻が渡米したことを物語っていた。
 そして、この二人が“写真結婚”であることが裏面に記載された「Photo Marriage」という英語からわかった。当時、日本人移民のなかでしばしば行われていた結婚の形である。互いに相手の写真だけを見て結婚を決めていたが、なかには実際とはずいぶんと違った写真を見せられ困惑した例もあったようだ。

 異国の地へ単身赴く。それも会ったこともない人のところへ嫁ぐという人生の選択をした、あるいはせざるを得なかったこうした女性たちは、当時何を思っていたのだろうか。いや、ほとんどの人があれこれ思う間もなく、ただひたすら働き生活していくしかなかったのかもしれない。
 仮に生活に嫌気がさして別れたくても、別れられるような状況にはなかっただろう。しかし、そうした苦労のうえに築かれた家族と生活が今日の日系アメリカ人の土台になっている。ある調査によれば、アメリカの日系人は現在もっとも恵まれた状況にあるという。

 当時アメリカでは、この写真結婚が非人間的だと批判されたことがある。当然だろう。できれば実際に相手を確かめて、そして家庭の事情などではなくて自由意志で結婚するのがいいのに決まっている。しかし、自由に選択した結果が必ずしもうまくいかないことは、日本でもアメリカでも現代の離婚事情が示している。

 大きな制約のなかで強いられる努力の結果が、ときに自由な意志に基づく行為の結果より勝っていたことがあるのは皮肉なものだ。まだ日本を発って2日目の夜中、時差ぼけで眠れぬシアトルのホテルで、写真結婚の事実からそんなことに思い至った。 

防犯カメラと三面鏡

土曜日, 6月 16th, 2012

 地下鉄サリン事件などで手配されていた容疑者の逮捕までの過程で、防犯カメラの存在がずいぶんと話題になった。カメラは、ふだんは気がつかない都市部のさまざまところに設置され、われわれは、しばしばカメラで正面から、そして後ろからと、いろいろな角度でとらえられている。

 もし、自分が映ったその映像(画像)を見せてもらったら、「へぇー、俺ってこんな感じで動き回っているんだ」とか、「私の歩き方は後ろから見るとこんななの?」といった新鮮な驚きがあるだろう。
 日頃自分が向き合う自分は、たいていは正面からみた鏡の中の姿だ。一方向からの平べったい自分でしかない。
 しかし、かつての日本人、特に女性は三面鏡で自分の後ろ姿や横からの姿を眺めていた。あるいはアップにした髪や襟足などを手鏡をつかって気にしていた。
 こんな話を床屋でしていたら、
「そうですね、女の人でももう少し襟足をきれいにした方がいいんじゃないかなって思う人がたまにいますね」
 と、それほど自慢できる後ろ姿ではない床屋の店長がいう。

 電車にのれば、相変わらず他人の前で化粧をしている女性をよく目にする。先日、東海道線の電車に乗っていると、ボックスシートの女性が周りを人で囲まれているなかで化粧をはじめた。すぐ近くで立っていたので嫌でも目に入ってくる。

 なにやら頬に塗っているようだったが、そのうち口の前を片手で隠して、もう一方の手に何かを持って、少し顔をゆがめている。これを繰り返している。なぜ化粧で顔がゆがむのかとおもっていると、毛を抜いていたのだった。目の前では初老の男性が文庫本を読んでいる。彼もいたたまれない気持ちだったろう。ここまでくると、露出狂から受ける被害に近い。

 彼女は30歳前後の普通のOLに見える。他人によく見られたいと思って化粧というものはするはずだが。それとも、ただの自己満足のためか、彼氏や彼女など特定の人のためなのだろうか。

 いま三面鏡のある家はどのくらいあるのだろう。他人を見る目は厳しく多角的になっている。その一方で自分を見る目は単純で、薄っぺらな自分しかとらえていない。 彼女を見ていた私もそういう目だったのかもしれない。